×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
>既に、最も重要な下部意識は、私権収束から本源収束へと転換した。従って、今後(30年間)は、上部意識=観念に焦点が移る。社会の最先端では、旧来の私権闘争に代わって、観念闘争が、最もホットな場となるだろう。
私権闘争と観念闘争は、同じ闘争という言葉を使っているが、
私権闘争=奪い合い
観念闘争=充たし合い
180度違う。
■私権闘争
“私権(お金、権利、女)”をめぐっての個々人同士の闘争=奪い合い。
■観念闘争
みんなが充足できる現実に役立つ“答え=新観念”をみんなで(切磋琢磨し)創り出す闘争=充たし合い。
その“答え”はみんなが期待している。期待に応えることは、すなわち充足に繋がる。
だからホットな場になる。
下部意識では、本源収束
“自分”から“みんな”へ
“物”から“心”へ
と転換しているのに
※“心”=共認充足をより高めるための“観念”が旧観念(現実否定→倒錯観念)に犯されているために
下部意識と上部意識が繋がらず、収束不全を起こし、社会は閉塞してしまっている。
⇒(どうする?)
>本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。21495
元凶である、旧観念は、爆破し、塗り替えたらしまい。
でもあり、どちらが、充足できるかは、明らかである。
(参考)■観念の正しい使い方
>①観念そのものには、充足回路は伴っていない。
『あくまで観念(言葉)は、本能(体)や共認(心)の充足をより高めるためにある。』
西村真治
私権闘争と観念闘争は、同じ闘争という言葉を使っているが、
私権闘争=奪い合い
観念闘争=充たし合い
180度違う。
■私権闘争
“私権(お金、権利、女)”をめぐっての個々人同士の闘争=奪い合い。
■観念闘争
みんなが充足できる現実に役立つ“答え=新観念”をみんなで(切磋琢磨し)創り出す闘争=充たし合い。
その“答え”はみんなが期待している。期待に応えることは、すなわち充足に繋がる。
だからホットな場になる。
下部意識では、本源収束
“自分”から“みんな”へ
“物”から“心”へ
と転換しているのに
※“心”=共認充足をより高めるための“観念”が旧観念(現実否定→倒錯観念)に犯されているために
下部意識と上部意識が繋がらず、収束不全を起こし、社会は閉塞してしまっている。
⇒(どうする?)
>本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。21495
元凶である、旧観念は、爆破し、塗り替えたらしまい。
でもあり、どちらが、充足できるかは、明らかである。
(参考)■観念の正しい使い方
>①観念そのものには、充足回路は伴っていない。
『あくまで観念(言葉)は、本能(体)や共認(心)の充足をより高めるためにある。』
西村真治
PR
サイト「目安箱」より。
一部引用です…
(引用)
そして今の日本でも、ある特別な階級社会が構築され、一般庶民には手も出せない 「 雲の上の世界 」 が出来ているみたいです。 その特別階級の 『 勝ち組 』 の人達だけに都合の良い社会が構築され、役に立たたない一般庶民は 『 非国民 』 みたいな社会風潮を醸し出し、「 この社会で生きていけません 」 とレッテルを貼っている。
たとえ一庶民が文句を言ったところで、「 負け犬の遠吠え 」 「 貧乏人のヒガミ 」 と揶揄され蔑まれ、今の 『 勝ち組 』 となったテレビ ・ マスメディアからは 「 今こそ21世紀の理想社会 」 と、まるで 『 大本営発表 』 のように世論形成されているみたいで、そのように感じるのです。
多くの日本国民が望んだ21世紀の社会は、結局は、そのような特別階級の 『 勝ち組 』 の人達だけに都合良く作られてしまい、テレビ ・ マスメディアからも、その仕組みを正当化するような宣伝ばかりしているのでは? だから、テレビ ・ マスコミなんて、「 大本営発表では?」 と言いたくなるのです。
このような全体主義的な社会風潮を熟成してしまえば、ジャマな人間など、『 民主主義の原則 』 と 『 平等公平 ・ 人権尊重の思想 』 に基づかずとも、「 この世に存在してはならない!」 と大衆にアピールして、『 村八分 』 的慣習で一般大衆に植え付ければ、そのように世論形成してしまえば、あらゆる社会問題は 『 世論 』 によって、いかようにも解決できました。
誰かが 「 なんかオカシイよなぁ~ 」 と問題提起したところで、意図的に作られた 『 世論 』 がズカズカと乗り込んで、『 非国民 』 にされてしまったのでは・・・ 全体主義ファシズムの世の中では、法に基づかずとも異端分子など簡単に葬り去れまますから、もう恐ろしくて、誰も文句など言えなくなってしまったと思うのです。
だから、見て見ぬフリするだけの、知っていてて知らん顔するだけの、そんな日本人ばかりになってしまったのでは? と思うのです。
世論形成する 『 権力 』 を手にすれば、傷ついて立ち去るのは 『 世論 』 が支持しない 「 少数の負け犬 」 ですから、そのような 『 少数派 』 は、分かっていても怖くて相手にされませんでした。 もちろんテレビ ・ マスコミは今の時代の 『 勝ち組 』 ですから、当然知らん顔しましたが・・・
戦後の民主主義教育で 「 平等公平 ・ 人権尊重 」 を声高々に叫んでいたのは、他ならぬテレビ ・ マスコミの 『 勝ち組 』 さん達ですから、『 格差問題 』 が起こっても、真の少数弱者に対して 『 隔離排除政策 』 に賛成すれば、あまりにも矛盾しますから、こんな卑怯で姑息な手段で対処するしかなかったのは?
(引用終わり)
★本当に今こそ、事実を追及し、みんなが暮らせる社会を創る為に
は何が必要で、どうすればいいのか?を、一部の特権階級の独りよ
がりな価値観ではなく、みんなでつくっていく事が大事です!!
Silentservice
一部引用です…
(引用)
そして今の日本でも、ある特別な階級社会が構築され、一般庶民には手も出せない 「 雲の上の世界 」 が出来ているみたいです。 その特別階級の 『 勝ち組 』 の人達だけに都合の良い社会が構築され、役に立たたない一般庶民は 『 非国民 』 みたいな社会風潮を醸し出し、「 この社会で生きていけません 」 とレッテルを貼っている。
たとえ一庶民が文句を言ったところで、「 負け犬の遠吠え 」 「 貧乏人のヒガミ 」 と揶揄され蔑まれ、今の 『 勝ち組 』 となったテレビ ・ マスメディアからは 「 今こそ21世紀の理想社会 」 と、まるで 『 大本営発表 』 のように世論形成されているみたいで、そのように感じるのです。
多くの日本国民が望んだ21世紀の社会は、結局は、そのような特別階級の 『 勝ち組 』 の人達だけに都合良く作られてしまい、テレビ ・ マスメディアからも、その仕組みを正当化するような宣伝ばかりしているのでは? だから、テレビ ・ マスコミなんて、「 大本営発表では?」 と言いたくなるのです。
このような全体主義的な社会風潮を熟成してしまえば、ジャマな人間など、『 民主主義の原則 』 と 『 平等公平 ・ 人権尊重の思想 』 に基づかずとも、「 この世に存在してはならない!」 と大衆にアピールして、『 村八分 』 的慣習で一般大衆に植え付ければ、そのように世論形成してしまえば、あらゆる社会問題は 『 世論 』 によって、いかようにも解決できました。
誰かが 「 なんかオカシイよなぁ~ 」 と問題提起したところで、意図的に作られた 『 世論 』 がズカズカと乗り込んで、『 非国民 』 にされてしまったのでは・・・ 全体主義ファシズムの世の中では、法に基づかずとも異端分子など簡単に葬り去れまますから、もう恐ろしくて、誰も文句など言えなくなってしまったと思うのです。
だから、見て見ぬフリするだけの、知っていてて知らん顔するだけの、そんな日本人ばかりになってしまったのでは? と思うのです。
世論形成する 『 権力 』 を手にすれば、傷ついて立ち去るのは 『 世論 』 が支持しない 「 少数の負け犬 」 ですから、そのような 『 少数派 』 は、分かっていても怖くて相手にされませんでした。 もちろんテレビ ・ マスコミは今の時代の 『 勝ち組 』 ですから、当然知らん顔しましたが・・・
戦後の民主主義教育で 「 平等公平 ・ 人権尊重 」 を声高々に叫んでいたのは、他ならぬテレビ ・ マスコミの 『 勝ち組 』 さん達ですから、『 格差問題 』 が起こっても、真の少数弱者に対して 『 隔離排除政策 』 に賛成すれば、あまりにも矛盾しますから、こんな卑怯で姑息な手段で対処するしかなかったのは?
(引用終わり)
★本当に今こそ、事実を追及し、みんなが暮らせる社会を創る為に
は何が必要で、どうすればいいのか?を、一部の特権階級の独りよ
がりな価値観ではなく、みんなでつくっていく事が大事です!!
Silentservice
今まで、情報の発信というのは、マスコミという巨大な発信基地からの一方的なものであった。その結果、マスコミの作り上げたイメージの独走という状況がつくりだされてきた。
しかし、インターネットの出現によって情報の双方向的なやりとりが可能となり、意見、考えも自由に発信できるようになってきた。ただ、その普及という点でみれば、世代や地域による格差がある。
今後、さらに普及し、より多くの人々が、それらの情報に触れ、見聞きし、発信もしていけるようになれば、マスコミの独壇場という状況も改善されていくと思う。
そのためには、インターネットをさらに普及させるための国家レベルの取り組みと国民教育が必要である。インターネット環境の整備を支援し、操作法を簡単にしていくなどの工夫が望まれる。
さらには、そういう外側の整備だけでなく、国民の意識、規範というものを高めていく必要がある。情報を鵜呑みにせず、様々な意見、考えを聞いて見て確かめるという意識。匿名性を利用して人を傷つけないという規範。インターネットを利用する犯罪から人々を守る体制や法の整備も大切となってくる。
ムーンライト
しかし、インターネットの出現によって情報の双方向的なやりとりが可能となり、意見、考えも自由に発信できるようになってきた。ただ、その普及という点でみれば、世代や地域による格差がある。
今後、さらに普及し、より多くの人々が、それらの情報に触れ、見聞きし、発信もしていけるようになれば、マスコミの独壇場という状況も改善されていくと思う。
そのためには、インターネットをさらに普及させるための国家レベルの取り組みと国民教育が必要である。インターネット環境の整備を支援し、操作法を簡単にしていくなどの工夫が望まれる。
さらには、そういう外側の整備だけでなく、国民の意識、規範というものを高めていく必要がある。情報を鵜呑みにせず、様々な意見、考えを聞いて見て確かめるという意識。匿名性を利用して人を傷つけないという規範。インターネットを利用する犯罪から人々を守る体制や法の整備も大切となってくる。
ムーンライト
>東国原知事がマスコミに対し堂々と「記者は県民の意識を捉えていない」と意見をし、それに多くの人が賛同しているという点にこの記事のポイントはある。そしてそれを支える世論をインターネットが確実に形成しつつあることも見逃せない。
東国原知事のこの発言(「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」)に関しネット上でも賛同の声が多い。
>東国原知事に対してマスコミは「定例記者会見」が知事の県民に対する直接対話の機会というのであるが、本当にそうかナ?
記者会見に出席しているのは、記者であって県民ではない。マスコミによって県民が知ることのできる情報は、まだ少なくはないが、どんどん減少しているのではないか。むしろインターネットやホームページやブログなどの情報の方が、変な権威によってゆがめられていないだけに、信用されるのではないだろうか。
マスコミや一部評論家の時代遅れの認識にはあきれるばかりだ。
>(記者会見の必要性を問われた)記者の答えは、そういう疑問を持つこと事態定例記者会見を軽視している稚拙な答えだ!
みたいなことを言っていた。
まあ、確かに重くは見ていないからそういう疑問が出てくるわけだが、ならきちんと、こういう理由で記者会見を行ってます。みたいなことをなぜ言えないのだろう?
重要だと言うのなら、その重要性と意義をきちんと説明してあげればいい。
なぜそういうことをしようとしないんだろう?
>それに、記者会見で何を問いかけるのかという部分は『記者』としての質問であり、『県民』の聞きたいことではない。
それならば直接的に県民から問い掛けをできるようなシステムを作っていただきたいと思っている。
まぁ、俺がメディアを嫌いだという部分が強いのが、この決断を出させた大部分を占めているだろう。
メディアは自分たちが国民の代表みたいな顔をしているから嫌いだ。
別に代表になってくれと言ったわけじゃ無いし、かといって代表だから意見をくれといわれた事もない。
それなのに、そのような顔をしているのが嫌いなのだ。
> 4月16日の定例記者会見で東国原知事が「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」と記者クラブの面々に対し反駁(はんばく)した言葉は、まさに記者クラブの主要構成員である大手メディアの大きな勘違いの「使命感」を強烈に皮肉るまさに的を射た発言であったといえる。
加盟社以外の参加を拒む「記者クラブ」は言ってみれば、情報独占というカルテルを結ぶ組織であると言ってもよい。その意味で「知る権利」「報道の自由」の名のもとにそうした既得権益を享受する既存大手企業ジャーナリズムに真の意味で権力と適切な間合いをとった「真実追究の姿勢」を期待することなど土台無理な相談なのだと思うしかないのだろう。
86.7%(4月20付け宮崎日日新聞調べ)という驚異的な高支持率を誇る東国原知事である。選挙民である県民が味方しているのである。大手メディアを恐れることなく、メディアに襟を正させるべきところははっきりと正させ、悪弊があるとすれば改善を求めるなど、正面きってメディアと対峙して欲しい。
もしそうした知事の挑戦により大手メディアとの間で事が大きくなったとしても、小沢一郎氏や田中康夫氏の時代に比べネット普及は格段に進んでおり、事態は当時とは異なる結果をもたらすことになろう。それは良識ある宮崎県民やブロガーたちが大手メディアの報じぬ情報も一瞬にして日本全国に広め、一般人の手による真の意味の世論を形成することで、必ずそうした知事の政治姿勢なり言動をサポートし、「驕る者久しからず」を実践させることになると思うからである。
>知事「じゃあ、この1時間に喋ったことを全部記事にしてもらえますか」
記者「何を記事にするかしないかは、我々記者に編集権がある」
知事「県民には、この1時間に私が何を喋ったかを知る権利がある」
このやり取りは、この数十年、特に米国で論争されてきた「科学技術報道におけるマスコミの弊害」の本質を突いている。膨大な情報に溢れている時代の中で、すでにウエブなどを通じて様々な情報に市民がアクセスできる時代の中で、マスコミが選択的に取り扱う情報はあまりに少ない。何を記事にするのか、そこで本当に市民が知るべき妥当な選択がなされているのかについて、疑問が投げられてきた。
もちろん知事は、すべてを記事にすることなど無理だと分かっているし、定例記者会見を中止するつもりもないということは、見ていれば分かる。あえて本質的な問いを投げかけて挑発しているだけなのに、これを額面どおりに受け取ってただ怒っている記者たちの態度は、いかがなものか。もうちょっと本質的な応酬はできないものか。
マスコミの編集権の主張は、もちろん理解できる。しかし編集権をふりかざして「定例記者会見はやるべき」という主張は、いかがなものか…。いったい何様のつもりなのか。
すこし検索しただけでこれだけ出てくる。これがほとんど素人のブログでの声である。
>ならば、学者や文化人や報道人etcの知識階級は、一日も早くその座を明け渡すのが世の為であり、身の為でもある。彼らは、その私権に塗(まみ)れた特権的な身分を、なかなか手放そうとしないだろうが、あがいても無駄である。どうあがいても、特権的知識階級は消滅する運命にある。
おそらく、万人(素人)による認識の創出と共認形成の場(=統合サイト)が、いずれ新たな社会統合機構となって、彼らに最終宣告を下すことになるだろう。
観念闘争がもっともホットな場になりつつある。
野村徹
東国原知事のこの発言(「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」)に関しネット上でも賛同の声が多い。
>東国原知事に対してマスコミは「定例記者会見」が知事の県民に対する直接対話の機会というのであるが、本当にそうかナ?
記者会見に出席しているのは、記者であって県民ではない。マスコミによって県民が知ることのできる情報は、まだ少なくはないが、どんどん減少しているのではないか。むしろインターネットやホームページやブログなどの情報の方が、変な権威によってゆがめられていないだけに、信用されるのではないだろうか。
マスコミや一部評論家の時代遅れの認識にはあきれるばかりだ。
>(記者会見の必要性を問われた)記者の答えは、そういう疑問を持つこと事態定例記者会見を軽視している稚拙な答えだ!
みたいなことを言っていた。
まあ、確かに重くは見ていないからそういう疑問が出てくるわけだが、ならきちんと、こういう理由で記者会見を行ってます。みたいなことをなぜ言えないのだろう?
重要だと言うのなら、その重要性と意義をきちんと説明してあげればいい。
なぜそういうことをしようとしないんだろう?
>それに、記者会見で何を問いかけるのかという部分は『記者』としての質問であり、『県民』の聞きたいことではない。
それならば直接的に県民から問い掛けをできるようなシステムを作っていただきたいと思っている。
まぁ、俺がメディアを嫌いだという部分が強いのが、この決断を出させた大部分を占めているだろう。
メディアは自分たちが国民の代表みたいな顔をしているから嫌いだ。
別に代表になってくれと言ったわけじゃ無いし、かといって代表だから意見をくれといわれた事もない。
それなのに、そのような顔をしているのが嫌いなのだ。
> 4月16日の定例記者会見で東国原知事が「あなたたちが聞きたいことが必ずしも県民の聞きたいこととは思わない」と記者クラブの面々に対し反駁(はんばく)した言葉は、まさに記者クラブの主要構成員である大手メディアの大きな勘違いの「使命感」を強烈に皮肉るまさに的を射た発言であったといえる。
加盟社以外の参加を拒む「記者クラブ」は言ってみれば、情報独占というカルテルを結ぶ組織であると言ってもよい。その意味で「知る権利」「報道の自由」の名のもとにそうした既得権益を享受する既存大手企業ジャーナリズムに真の意味で権力と適切な間合いをとった「真実追究の姿勢」を期待することなど土台無理な相談なのだと思うしかないのだろう。
86.7%(4月20付け宮崎日日新聞調べ)という驚異的な高支持率を誇る東国原知事である。選挙民である県民が味方しているのである。大手メディアを恐れることなく、メディアに襟を正させるべきところははっきりと正させ、悪弊があるとすれば改善を求めるなど、正面きってメディアと対峙して欲しい。
もしそうした知事の挑戦により大手メディアとの間で事が大きくなったとしても、小沢一郎氏や田中康夫氏の時代に比べネット普及は格段に進んでおり、事態は当時とは異なる結果をもたらすことになろう。それは良識ある宮崎県民やブロガーたちが大手メディアの報じぬ情報も一瞬にして日本全国に広め、一般人の手による真の意味の世論を形成することで、必ずそうした知事の政治姿勢なり言動をサポートし、「驕る者久しからず」を実践させることになると思うからである。
>知事「じゃあ、この1時間に喋ったことを全部記事にしてもらえますか」
記者「何を記事にするかしないかは、我々記者に編集権がある」
知事「県民には、この1時間に私が何を喋ったかを知る権利がある」
このやり取りは、この数十年、特に米国で論争されてきた「科学技術報道におけるマスコミの弊害」の本質を突いている。膨大な情報に溢れている時代の中で、すでにウエブなどを通じて様々な情報に市民がアクセスできる時代の中で、マスコミが選択的に取り扱う情報はあまりに少ない。何を記事にするのか、そこで本当に市民が知るべき妥当な選択がなされているのかについて、疑問が投げられてきた。
もちろん知事は、すべてを記事にすることなど無理だと分かっているし、定例記者会見を中止するつもりもないということは、見ていれば分かる。あえて本質的な問いを投げかけて挑発しているだけなのに、これを額面どおりに受け取ってただ怒っている記者たちの態度は、いかがなものか。もうちょっと本質的な応酬はできないものか。
マスコミの編集権の主張は、もちろん理解できる。しかし編集権をふりかざして「定例記者会見はやるべき」という主張は、いかがなものか…。いったい何様のつもりなのか。
すこし検索しただけでこれだけ出てくる。これがほとんど素人のブログでの声である。
>ならば、学者や文化人や報道人etcの知識階級は、一日も早くその座を明け渡すのが世の為であり、身の為でもある。彼らは、その私権に塗(まみ)れた特権的な身分を、なかなか手放そうとしないだろうが、あがいても無駄である。どうあがいても、特権的知識階級は消滅する運命にある。
おそらく、万人(素人)による認識の創出と共認形成の場(=統合サイト)が、いずれ新たな社会統合機構となって、彼らに最終宣告を下すことになるだろう。
観念闘争がもっともホットな場になりつつある。
野村徹
2000年から2004年にかけて、企業や学者の偽装・捏造は徹底的に叩かれ、糾弾され続けた。信頼で成り立っている社会にあって、偽装・捏造はその社会の大元を崩す行為だからだ。時に、問題そのものよりも、「偽装・捏造したこと」の方がより大きな問題として扱われた。
この『事実収束⇒偽装・捏造は悪』の流れにのって、事件を報道し続けてきたのがマスコミであった。問題を発掘し、批判する事が至上命題であるマスコミは、これらの偽装・捏造問題を一斉に叩く。一つの偽装・捏造から、本質を外れて拡大解釈されることさえあった。
しかし、2007年前後から、マスコミが叩く事件、ネタが減少していく。社会的な事実収束の流れを受けた企業は、偽装・捏造を極力排除してきたからだ。企業が偽装・捏造を極力排すると、困るのはマスコミである。(彼らにとっては、飯のタネがなくなることに等しいに違いない)。
この時、マスコミ界が取った方向は大きく二つ。一企業の問題を捏造し、叩く。加えて、最も「捏造がひどい業界=マスコミ業界」に矛先が向いていく。
捏造疑惑を通しての「マスコミ業界内での共食い」は、批判・否定する事でメシを食ってきたメディアにとっては、必然的帰結とも言える。
◆2000年以降の主な偽装・捏造事件◆
(※印は、マスコミの捏造事件)
2000年 雪印集団食中毒事件
2000年 三菱ふそうリコール隠し
2000年 旧石器捏造事件
2002年 雪印食品・牛肉偽装事件
2003年 TBS石原都知事の発言を捏造 ※
2004年 温泉偽装問題
2004年 三菱リコール隠し
2005年 朝日新聞の新党日本に関する捏造事件 ※
2005年 構造計算書偽造問題
2006年 東横イン不法改造問題
2006年 白インゲン豆ダイエットで多数の視聴者に被害 ※
2006年 永田メール問題
2007年 柳沢厚生労働大臣の発言を不適切編集 ※
2007年 不二家期限切れ原材料使用問題
2007年 発掘!あるある大事典データ捏造 ※
2007年 不二家に関する捏造報道 ※
内藤琢
この『事実収束⇒偽装・捏造は悪』の流れにのって、事件を報道し続けてきたのがマスコミであった。問題を発掘し、批判する事が至上命題であるマスコミは、これらの偽装・捏造問題を一斉に叩く。一つの偽装・捏造から、本質を外れて拡大解釈されることさえあった。
しかし、2007年前後から、マスコミが叩く事件、ネタが減少していく。社会的な事実収束の流れを受けた企業は、偽装・捏造を極力排除してきたからだ。企業が偽装・捏造を極力排すると、困るのはマスコミである。(彼らにとっては、飯のタネがなくなることに等しいに違いない)。
この時、マスコミ界が取った方向は大きく二つ。一企業の問題を捏造し、叩く。加えて、最も「捏造がひどい業界=マスコミ業界」に矛先が向いていく。
捏造疑惑を通しての「マスコミ業界内での共食い」は、批判・否定する事でメシを食ってきたメディアにとっては、必然的帰結とも言える。
◆2000年以降の主な偽装・捏造事件◆
(※印は、マスコミの捏造事件)
2000年 雪印集団食中毒事件
2000年 三菱ふそうリコール隠し
2000年 旧石器捏造事件
2002年 雪印食品・牛肉偽装事件
2003年 TBS石原都知事の発言を捏造 ※
2004年 温泉偽装問題
2004年 三菱リコール隠し
2005年 朝日新聞の新党日本に関する捏造事件 ※
2005年 構造計算書偽造問題
2006年 東横イン不法改造問題
2006年 白インゲン豆ダイエットで多数の視聴者に被害 ※
2006年 永田メール問題
2007年 柳沢厚生労働大臣の発言を不適切編集 ※
2007年 不二家期限切れ原材料使用問題
2007年 発掘!あるある大事典データ捏造 ※
2007年 不二家に関する捏造報道 ※
内藤琢
カウンター
カレンダー
最新記事
(01/24)
(01/24)
(12/11)
(12/10)
(12/08)
最新コメント
[04/03 神崎]
[11/18 埼玉新聞読者]
[11/18 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
ブログ内検索
最古記事
(09/02)
(09/11)
(09/12)
(09/13)
(09/14)
P R