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プロってなんだろう?『素人と創造』

ある一定の専門領域に特化した知識や知恵や能力のあるものと一般的には理解されています。なぜ、そんなものがいるんだろうか?

例えば、『素人と創造』に書かれている、古くは、『神官』という、国家の官吏として、何らかの神に仕える、または神を祀る施設に奉職する者がいました。彼らの始まりは、集団間の掠奪闘争が勃発して、集団を結集させ、正当化するための守護神のお告げを知らしめる神職が始まりで、掠奪によって生まれた警戒心が、精霊信仰を守護神信仰と変質させ、集団の正当化の必要から、神官=プロが登場してきたのだということだと思います。

 そう考えると警戒心からの自己正当化がプロを生み出す構造と読み取れないでしょうか?

素人の分からない未明領域に対して、何らかの特殊能力をもって、正当化してくれるプロ。分からない領域は、警戒心と不安だらけ。その不全を突破するために、偽装でも捏造でもでっち上げでもなんでもいいから、とりあえずの目先の安心を提供してくれるプロ。

だから、ある専門領域に特化した能力を駆使して、架空観念をでっちあげても、捏造しても、警戒心からの自己正当化を後押ししてくれるプロが必要だったのかも知れません。

警戒心からの自己正当化がプロを生む=捏造、でっちあげを生むとしたら、明らかに、不要であり、現実の不全に対しては、全く無効であるという結論になります。昨今のマスコミの捏造も同じ構造ではないか?と思いました。


彗星
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>∴私権時代(特に近代)の主張や議論とは、欺瞞共認を
>形成する(事によって私権闘争で優位に立つ)為の様式
>にすぎない!
【7244 素人の社会活動28 現実を対象化する=思考する】

「議論する」というのは、西洋的価値観では善とされ、近年は日本でも教育に取り入れられるなどしているが、ここで洞見されているが如くに、私権時代における”欺瞞共認の形成”の為の様式の一つである。

これは、古くはギリシャのソフィストたちが駆使した詭弁術など、相手を騙すための技術である。例えば、「議論をして物事を決めましょう」という一見正当性があるように見える態度そのものが欺瞞である、ということだ。
※この詭弁を用いる政治家をデマゴーグと呼ぶが、これはもちろんデモクラシー(デマを用いて大衆を洗脳する政治形態)の元になっている。

デモクラシー=民主主義という欺瞞観念は、単に歴史的ルーツを扇動政治に持つだけではなく、実態として欺瞞(詐欺をはたらくこと)を目的とした思想として、人類史上に類を見ない悪質な政治思想の一つである。

神権政治や封建制度下では、民衆は主役である、などといっておだてられはしない。程度の差はあれ、奴隷的労働と固定的身分、専横的な体制の元で苦しめられる構造にあることは論を待たない。

だからこそ、その政治形態に対する叛乱は正統性を帯びるのであり、内部の矛盾によって孰れ崩壊することは荻生徂徠などの封建時代の政治学者自身が予見していたとおりであった。

しかし、民主主義というイデオロギーの元では、民主主義に対する民衆の叛乱という概念は措定されていない。民衆が主役であり、民衆の仮託の元に立脚する政治が、民衆によって打ち倒されて良いはずがない、という理屈である。

しかし、民主主義を標榜とした近代憲法を持っていたワイマール共和国はナチスを生み、プロイセン憲法を丸写しした明治憲法下で日本は他国への植民化を行い、民主主義と自由の名の下でアメリカは侵略戦争を止めず、一方でインドではカースト制度を死守し、民主主義に反対する学生達が焼身自殺による政治デモを行っているのが現実である。

そして、さんざん議論し、主張しあった結果が、先進国における経済破綻、環境破壊、精神破壊などの行き詰まりであり、そこへ誰も答えを出せない、と言う閉塞状況であるとすれば、その過程で行われてきた議論が、全く役に立たないどころが、現実から目を逸らす為にする欺瞞行為そのものであると疑われてもしかたがない。

我々人類は、その万劫末代に渡る極限状況に於いて、人を騙す目的で作られた観念を用いて外圧を突破したことなど嘗て無い。いつの時代も、如何に現実を対象化するか=思考する=追求することによって、その危機を乗り越えてきたのである。

>☆大切なのは、現実を対象化すること。それが、思考
>する(=探索し、可能性収束して統合する)ことの全てである。


渡辺卓郎
>実現論は、共同体・類の成員がその時々の経営問題や時事問題を分析する中から、しだいに史観的な形に整えられて、出来てきたものです。

>実践的・現実的な問題から出発し、その原因分析を4~5人のグループ会議や、100人余りの劇場会議を重ねて行ってきました。

>会議を媒介にしてテーマを決め、分析を深めてきたので、誰がどの部分を担当したかというのはハッキリしていません。

>この様な全員参加の会議(勉強会)にも拘わらず皆の興味・関心が深まっていったのは、その時々の時事問題や経営上の実践的問題から出発しながら、底に達するまで徹底して原因を分析し人類の原基構造を解明するという、流れの繰り返しでやってきたからではないかと思われます。

>この初稿あるいは今から書き直す第2稿(’02年版)を叩き台として、『みんなの統合理論』の構築に賛同された協働者の方々の投稿をもって、今から本格的な改良・進化が始まっていくと考えています。
『実現論の形成過程』

いままで、あまり明確に意識していませんでしたが、実現論の形成過程からるいネットの形成過程から社会統合機構をつくることまで、全て『みんな』が羅針盤となり、『みんな』で作り上げることを鑑としていることに気づきます。

 当然、社会の役に立つ為には、社会の全ての人々に受け入れられるものである必要があり、仕事と同じく、期待に応えるという『共認』の人間本来の機能の中心部をなしているもののが、その『みんな』だからだと思います。

 全ては、『みんな』という視点がない限り、ずれた思考となり、現在のマスコミの捏造を繰り返す構造となるのだと思いました。


彗星
どちらかというと行動的な方、だと言われてきた。「腰が軽い」と言い換えてもいい。「これやって」とか「こうしよう」と言われたら、「アイヨ」って感じで引き受ける=乗りかかる。「あたらしもの好き」というのかもしれない。そんな私が、どうしても乗りかかれない船=活動がある。

社会運動ー。

ポスターをはったり、ビラを巻いたり、時には街頭に立って拡声器で訴えたり。環境運動にせよ、募金活動にせよ、趣旨はよくわかるのだが、どうしても乗れない船だった。

何か違う。
何か恥ずかしい。
理屈以前の違和感、忌避感。

ひとにどう見られているか?ということに大して頓着しない方だが、その運動に参加する、活動する、ということ自体が恥ずかしかった。だから、るいネットで「チンケな運動」という言葉を見つけたとき、すぐに合点がいった。

文学者の手になる別の表現に出会った。

>たとえば基督教の運動に「救世軍」と云うのがある。私はその事業なりそれに携わる人々に対して敬意をこそ抱け、決して反感や悪意を蔵するものではない。しかしその動機の如何に拘わらず、ああ云う風に街頭に立って、激越な、早口な、性急な口調で説教したり、自由廃業の援助に奔走したり、貧民窟を軒並みに叩いて慰問品を贈ったり、一人一人行人の袂を捉えて慈善鍋への寄附をすすめビラを配ると云うような、せせこましい、瑣々屑々(ささせつせつ)たる遣り方は、不幸にして甚だ東洋人の気風に合わない。それは理窟を超越した肌合いの問題であって、東洋人にはお互いに解っている筈の心理である。ああ云う運動を見せられると、われわれは足元から追い立てられるように忙しい気持ちがするばかりで、少しもしんみりした同情心や信仰心が湧いて来ない。

~谷崎潤一郎 「陰翳礼賛~懶惰の説」昭和5年5月

日本人なら、たいていのひとは「わかる、わかる」とうなづくのではないだろうか?

社会運動、社会奉仕というのは西洋からの輸入もの。布教活動にしても「鎌倉時代の日蓮宗や蓮如時代の真宗がいかに積極的、能動的であったと云っても、帰するところは七文字の題目や六字の名号にあって、ああ云う風に現世的な枝葉のことにまで係わっていたのではあるまい」(同上)。

一代の文学者は、昭和初期に、日本人(東洋人)に通底する潜在思念を掬い上げた。70年余の時を経て現在、その根本にある原因(奥の奥)を追求し、社会の諸現象を包摂して、明快に構造化しようとする場がるいネット。

共認革命という一見静かで地道だが(決して勢いや激情ではない)着実な活動こそ、日本人によってなされるべき活動なのだと思う。




阿部佳容子
『1990年半ば以降、「報道被害」が多発する現状を受けて、一般市民からマスコミへの風当たりは非常に強くなってきた。司法の世界でも「表現の自由」よりメディアによる「報道被害」の問題を重視する傾向が強まっている。』(151982)
2007年1月下旬以降、納豆ダイエット法を紹介したテレビ番組の放送内容に関連し、マスコミ界もさすがに上記潮流を無視できない状況下になった。
マスコミ内部の監視圧力を高める為に、「放送倫理・番組向上機構(BPO、2003年7月の発足)」内に、新たに【放送倫理検証委員会】を2007年5月12日付で設立することを明らかにした。

要するに、新たな行政処分を盛り込んだ放送法改正案に反対するマスコミ界のポーズであり、行政処分を逃れる逃げ道である。

2007年5月10日21時10分 読売新聞より以下『 』内は引用
『番組捏造(ねつぞう)の審理などを行う「放送倫理検証委員会」には、評論家の立花隆さんら10人の委員で構成。委員長には、川端和治・大宮法科大学院大学教授が就任する。

委員会では、番組に虚偽の疑いがあるとの指摘があった場合に審理を開始。放送倫理上の問題があれば勧告を行い、1か月以内に再発防止計画を提出するよう放送局に求める権限も持つ。専門家で構成する特別調査チームを設置したり、当該放送局に外部調査委員会を設けさせ、調査するよう勧告したりもできる。

 飽戸理事長は「BPOは裁判所のような処罰を与える機関ではない」としながらも、民放連の広瀬道貞会長は「勧告は命令と取ってもらっていい。違反した場合には(民放連の)会員資格停止や除名に結びつく」と、検証委員会の実効性を強調した。』

このBPO内の機関が本当に上手い事機能するかは極めて怪しいと思った。司法の監視圧力を交わす為の一時措置でしかない。

BPOのサイトリンクより、以下引用
【放送倫理検証委員会 委員長】プロフィール
川端和治氏(かわばたよしはる)
弁護士、大宮法科大学院大学教授
1945年12月生まれ。68年東京大学法学部卒業。70年弁護士登録。現在、朝日新聞社コンプライアンス委員会社外委員    

朝日新聞社コンプライアンス委員会社外委員ということらしいが、朝日新聞社内の何処を法令遵守していたのだろうか?
昨今の朝日関連の問題を垣間見るに、この委員会も単なる飾り物であるように思えてならない。

更には、【放送倫理検証委員会の委員】には、市川森一、上滝徹也、里中満智子に吉岡と既存(BPO)の「放送番組委員会」リンクからの横滑りが十人中四人というのも視聴者を愚弄するものだ。
この旧委員会が機能していれば新組織はいらなかったはずなのに、なぜ無能な委員が再選なのか疑問だ。

放送倫理・番組向上機構(BPO)内の委員の構成は、マスコミにゆかりのある人物ばかりであり、委員長になる学者もマスコミ御用学者が多い。このような状況下で、まともに放送倫理を検証できるとは思えない。第三者機関としての役割をまっとうするには到底遠い存在ではないか?

放送法改正に反対声明 BPOの有識者委員 朝日新聞
リンク
『テレビは「みんなが自由な考えを自由に交わしあえる言葉の広場」だとし、放送法でしばるのではなく、「みんなの広場の問題はみんなの知恵と力で何とかしていくのが一番」と訴えた。』との事であるが、みんなの広場であるならば、いち早くその特権的身分を解体するのが早道のように思う。
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参考ブログ
マスコミ不信日記
これはひどい!論功行賞と横滑りだらけのBPO新委員会(前)
これはひどい!論功行賞と横滑りだらけのBPO新委員会(後)

 
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