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朝日新聞を含めた、マスコミ記者は自分達には記事の「編集権」=報道の自由があると、まるでそれを金科玉条のごとく言い立てます。
その根拠とするのが、「人権」です。

「自分たちは社会の公器の一翼を担うものとして、人々の「人権擁護のため、権力者(政府、警察、裁判所、大企業等)からなんら干渉を受けず、記事の自由=編集権が補償されている、編集権を犯す記事の事前検閲や、記事内容への注文など持ってのほか」というわけです。

しかしそもそも、この「人権」こそ、実に怪しい。人権は「自由」や、「平等」と同様、元々は絶対的な私権圧力の中で生まれた否定意識に源を持ちます。
現実の可能性が無いので、幻想化された観念を作りだしたわけです。

その幻想観念を根拠にしていることが、朝日・マスコミの一連の捏造の、震源では無いかと思います。

つまり現実に基盤を置かず、まさに頭の中だけで捏造した「人権」を根拠にした「編集権」を行使する記者の恣意性にその「権利」の行使が委ねられることになります。
これほど恐ろしいことは無い。

百歩譲ってマスコミに報道の自由を認めるとしても、>「報道の自由」は決して無制限なのではなく、その報道姿勢や報道内容が、客観性(それが事実であること)及び中立性を保持している場合にのみ認められるという点である。<

であり、この編集権=報道の自由、が許されるのは、徹底した中立性=事実の追及を行う者のみに対してである。

従って、朝日・マスコミを糾弾することは単に記事の正誤を正すことにとどまらず、今回、実感としても明らかになった、社会の第一権力者たる朝日・マスコミに巣食う旧い幻想観念をあぶり出し、今や人々の潜在意識下では潮流となりつつある,事実収束の思いを開放する闘いでもある。

庄恵三
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るいネットになじんでくると、投稿者に「ファン」ができてくる。「このひとの投稿はいいな。しっくりくるな。」「何を置いても、まずこのひとの投稿は読もう」というもの。ファン投稿者の名前を一覧に見つけたら、秀作・佳作・一般投稿に関係なく目を通す。

それらファン投稿者は複数人いて、難しいことを投稿するひともいるし、いつも平易な投稿者もいる。表現方法や文章の組み立て方はさまざまで、同じひとでも、社会現象への激しい怒りに貫かれているときもあれば、事実認識を丹念に積み上げて、鮮やかに構造化しているときもある。

ひとつだけ共通項がある。

清澄ー。

文章から漂ってくる匂いというか、空気というか、伝わってくるものに一点の曇りも感じられないということ。だから引き寄せられる。文章の巧拙は関係ない。

逆に同じようなことを書いていても、「怪しい」と感じてしまう投稿もある。高尚なことを書いていても、巧くまとめて書いてくれても「実際は、どうなんだか」とこちらを斜に構えさせる投稿もある。

こういう感覚は、投稿(者)に対するスキキライという次元で、受け取る私の方にこそ問題があるのだろうと思っていた。

ネットサロンで話題にしてみた。

驚いたことに全員が同じような感覚を持っていた。至極当たり前のことだとも言われた。

潜在思念に踏みとどまって認識収束した投稿は、例外なくひとの心を打つ。迫力がある。観念の先っぽで駆使された文章にはだれでも邪なものを感じる。投稿=文章というのは、対面よりむしろ、その「ひと」が透けてくるのではないか。

>外向仲間収束の中核を成す「まず人(人に価値あり)」という価値意識こそ、本源価値の中心内容に他ならない。

「まず人(人に価値あり)」というのはよくわかる。しかし、ネットでそれが可能なのか?とも思っていた。やはり最後は対面ではないか?と。

さにあらず。

ネットはスゴイ!同時にコワイ、と思った。

阿部佳容子
    <'02年私権統合の終焉以降の意識潮流上の変化>

・02年の私権統合の終焉により無効化していた序列規範が消滅
               ↓
・統合原理を完全に失ってしまった大衆は深層の共認収束(≒答え欠乏)を抱える。
               ↓
・深層の共認収束により答えを求めてみんな収束
               ↓
・マジ話復活(潜在思念の事実収束)

※また一方の秩序収束の流れとしての事実収束(「捏造は悪」)も根底に存在している。


         <70年以降のマスコミ>

・第一権力化を果たした後、人権観念など自らの立脚する感応観念の法制化を達成する。また叩く対象が消滅。

(法制化・感応観念化事例)  '80 嫌煙権訴訟
              '85 男女雇用機会均等法成立     
              ↓
・企業や宗教・個人を異様視し叩き始める。さらに事象や歴史事実を捏造。

(異端叩き事例)  '89 リクルート事件
         '89~オウム報道
         '91~幸福の科学報道
         '95 ヤマギシ会報道

(捏造事例)    '84 南京「大虐殺」報道
         '89 朝日珊瑚事件
         '94 従軍慰安婦報道
             

以上のように事実に向かう意識潮流と事実を隠す、もしくは向き合わないマスコミとのズレが拡大し「批判するだけしか能がない」という反マスコミ気運が盛り上がりを見せる。'05の小泉翼賛報道で反マスコミの潮流が決定的となる。
'07の「あるある大辞典」、TBSの不二家叩き捏造で反マスコミ共認闘争が顕在化する。

新里勝一郎
>職業的に取材を行い、記事を売って商売にしている新聞はその存在自体に危機感を抱いているのは紛れもない事実である。そんな中で、新聞が売り物にできることがあるとすれば「うちの記事は信用できるよ」という信用の部分だけになってきている。「2チャンネルは、嘘も数多く入っているから信用できない」というセリフはよく聞かれる。だが、次第にネットに慣れた人々が、ある程度まで真偽を判断する力を持てたなら、それは新聞という業種の終焉を意味する。<

ネットVSマスコミ!オークラ出版より

ネットとマスコミの信用度が計れるアンケートはないが、それでも調べると、今や、テレビや新聞などのマスコミの利用が下降しており、インターネットの利用度が上昇しているのは事実といっていいだろう。
特にインターネットと新聞の利用時間においては2003年辺りでインターネットが逆転している。

私事になるが、私は少し前まではやはり、多少の偏向報道は気になりつつも新聞(一般紙)のほうを信用していた気がする。今も新聞は取っている。しかしパソコンを利用するようになって7~8年になるが、仕事で利用する時間を除いても、新聞を読む時間に比べ、圧倒的にインターネットを利用する時間が多くなっている。当然新聞はその分だけ読まなくなっている。

また信用度という点においても、お金を払ってとっている、新聞1誌の記事を読むより、同じ記事をネットで3~4媒体を読み、また記事によっては、検索でもっと多くの媒体を検索し、情報収集したほうがより事実がつかめると判断するように習慣事態が変わってきていることに気が付いた。

最近とみにそうなってきたのは、ネット自体、探せば、相当の事実追及度の高い質の高いネットが増えてきているという事実。
それと相反して、頻繁に発生する捏造記事ややらせで、新聞やマスコミが信用できなくなってしまった。

これは私だけではなく、そう思っている人が多くなってきているのではないだろうか。
今や、新聞だからといって社会の公器などと,特別視する必然はない。今まで人々が新聞に期待してきたであろう役割は今、終焉しつつあるのではないだろうか。

TAB
>何であれ、現実を否定すれば自己欺瞞(そして意識と存在の断絶・分裂)に陥る。だが今、その現実は自我・私権を残存させつつ、充足基調から本源収束へと根底的な地殻変動を起こしつつある。つまり、今ようやく肯定可能な現実基盤が形成されようとしている。
ただ、その潮流は、欺瞞観念にフタをされて出口を見つける事が出来ず、その結果、社会不全(危機と閉塞)が高まっている。そして、高まった本源収束と社会不全のマグマは、出口を求め、可能性収束⇒答え欠乏を上昇させつつある。

 近代社会のように体感共認を超えた超肥大集団のおいては、上記の現実と観念とつなぐ位相に社会共認の形成を担う機関である「マスコミ」の存在を無視できない。

 現実が自我・私権衰弱⇒本源収束へとパラダイム転換し、大衆の下部意識(潜在思念)は社会不全の上昇⇒可能性収束⇒答え欠乏へと収束しつつある。にもかかわらず、相変わらず現実否定の欺瞞観念(自由、平等、人権)を撒き散らすマスコミが社会共認を牛耳っている。ただ、旧来からのマスコミの反体制、否定の報道内容だけではマスコミ離れがすすんでゆくため、マスコミは「正義(都合の良い価値観念)」という欺瞞観念を掲げ、「社会的弱者を守る」「企業、官僚の不正を叩く」「環境にやさしい」などの報道姿勢に転換していく。 

 社会が豊かになり虐げられる序列弱者(貧困、差別、公害被害者等)が少なくなると、今度はマスコミは自らの報道によって新たな弱者を捏造する。それが「殺人犯の人権を守れ」「ホームレス(働けるにも関わらず働かない人たち)への保護をせよ」「ニートへの就職支援を整備せよ」などさまざまな主張につながっていく。そうして、それらの弱者を守るマスコミという立場(共認形成者という既得権)を守ろうとする。環境問題においても、マスコミが企業や政府を叩くべく自ら捏造したに近い。

 しかし、私権収束さえ崩壊し、本源収束、答え欠乏が上昇することによって、さらに大衆のマスコミ離れが進む。マスコミは部数を稼ぐ為に、あるいは紙面を埋めるためにさらに捏造を繰り返し、ついに現実がその報道被害によって破壊されていく。

 もはや、マスコミは「事実」よりも「思い込み観念(事実に基づかず一方的な主張による)」を重視する権力者でしかない。可能性の流れをせき止め、何ら役に立つ事実情報さえ報道しないとすれば、そのような機関は社会によって全く役に立たない存在でしかない。

 そのようなマスコミに代わり、自分達の共認形成の場とそれを可能にする理論(事実の共認、構造認識)が不可欠になってきたのだと思う。

匿名希望
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