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京都外大の学園祭で、お題として「開発援助が途上国を苦しめるってホント?」をトップにかかげたところ、早速、フィリピンでNGO活動をしているという学生さんがお題を聞いてくれた。
だいたいの内容はこんな感じ。
==========================================
欧米(特にアメリカ)による途上国からの搾取構造の原型は、帝国主義時代のプランテーションにある。
①自給自足的な地域共同体を破壊し、カネが無くては生きていけない状況に人々を追いやる。
②地元に傀儡を立て、地元民を低賃金で雇って本国で売れる単一作物を作らせる(あるいは、天然資源を開発させる)。天然ゴム、タバコ、コーヒー、パーム油、茶葉、綿花など、趣向品が多く、もっぱら食糧にならない作物が多い。それらを安く買いたたき本国に持ち帰って高く売る。
③逆に、生活必需品などは、多国籍企業が安価に大量生産したものを提供する(途上国の人々は金を出して買うしかない)。食糧についても、本国の余剰生産物を売りつけることによって、途上国の農業生産を根底から破壊する。
④学校、教育機関などを整備して、「自由」「個人主義」などを洗脳し、共同体破壊を促進。さらに、グローバルスタンダードの社会的ルール(「法律・時間・規則などは守るべき」など)を叩き込む。つまり労働者としての従順なメンタリティー(奴隷根性)を植えつけ、労働市場の基盤整備をする。
⑤道路・流通網、ダムなどのインフラ整備。当然、土木事業は本国のゼネコン土木業者等が受注し、地元の低賃金労働者を遣う。インフラ整備自体も、多国籍企業が参入し儲けやすい基盤を整備することが真の目的である。
アメリカなどの先進国は、このような途上国社会の破壊を「開発援助」という美名のもとに行っていく。
その典型的事例が、1960年代から1970年代にかけて盛んに行なわれた「緑の革命」である。
「開発を援助する」というのは、自分たち資本主義陣営に途上国を取り込み、そこから搾取するための方便であった。
実際には「緑の革命」は、ほんの一時期のみ生産量を上げただけにとどまり、その地域の共同体を破壊し、農業を破壊し、環境も破壊(砂漠化など)、結果的に途上国の人々をますます貧困に追いやることになった。
世銀などが途上国に金を貸しつけ、その投資の殆どはUターンしてアメリカのゼネコンや化学・薬品メーカー、農機具メーカー、種苗会社、などの利益になった。
そして「緑の革命」の失敗のつけは、途上国政府の多額の負債という形で、全て押し付けられたのである。
「開発援助」というのは響きは美しいが、内実はこんなものなのである。
しかし、マスコミは決してこのような実情を報道することはない。
「日本はもっと途上国の支援に金を出すべきである」という論調ばかりである。
マスコミに代わる共認形成の場を構築し、真に途上国に必要なのは何なのかをみんなで考えていく必要がある。
===============================================
学生さん本人は、フィリピンの現地を5回ほど訪れ、フェアトレードを促進する活動を行う中で、上に書いた矛盾にぶつかって悩んでいたようだ。
「多国籍企業が農地を独占し、農地を奪われた人々を不当な低賃金で雇ってこき使っている。日本は最近格差社会になったといわれるが、フィリピンはずっと前からそうだ。しかもその状況をつくっているのは先進国だ。これは私たち自身の問題だと思う」と語った。
彼自身、NGOの活動に身を投じながらも、その活動の限界を強く感じているようだった。
NGOの活動は、確かに目の前で苦しんでいる人々を助ける活動なのかもしれない。しかし、現地の人々にとっては、「先進国の連中は我々の生活を思いっきり破壊しておきながら、いまさら“助ける”なんてよく言うよ。欺瞞だろ。それより我々の生活を破壊するのを止めて出て行ってくれ」というのが本音だろう。
このような体制補完運動の「開発援助」や「NGO活動」ではなく、多国籍企業や国際金融機関などによる途上国への暴力と搾取を止めさせることそのものを考えなくてはならない。
にもかかわらず、マスコミは相変わらず「開発援助」はいいことだ、というトーンで情報を垂れ流すだけである。
これらの洗脳を打ち破って、私たちが共認形成の場を自分達の手でつくっていく必要性をあらためて感じた。
tanvool
だいたいの内容はこんな感じ。
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欧米(特にアメリカ)による途上国からの搾取構造の原型は、帝国主義時代のプランテーションにある。
①自給自足的な地域共同体を破壊し、カネが無くては生きていけない状況に人々を追いやる。
②地元に傀儡を立て、地元民を低賃金で雇って本国で売れる単一作物を作らせる(あるいは、天然資源を開発させる)。天然ゴム、タバコ、コーヒー、パーム油、茶葉、綿花など、趣向品が多く、もっぱら食糧にならない作物が多い。それらを安く買いたたき本国に持ち帰って高く売る。
③逆に、生活必需品などは、多国籍企業が安価に大量生産したものを提供する(途上国の人々は金を出して買うしかない)。食糧についても、本国の余剰生産物を売りつけることによって、途上国の農業生産を根底から破壊する。
④学校、教育機関などを整備して、「自由」「個人主義」などを洗脳し、共同体破壊を促進。さらに、グローバルスタンダードの社会的ルール(「法律・時間・規則などは守るべき」など)を叩き込む。つまり労働者としての従順なメンタリティー(奴隷根性)を植えつけ、労働市場の基盤整備をする。
⑤道路・流通網、ダムなどのインフラ整備。当然、土木事業は本国のゼネコン土木業者等が受注し、地元の低賃金労働者を遣う。インフラ整備自体も、多国籍企業が参入し儲けやすい基盤を整備することが真の目的である。
アメリカなどの先進国は、このような途上国社会の破壊を「開発援助」という美名のもとに行っていく。
その典型的事例が、1960年代から1970年代にかけて盛んに行なわれた「緑の革命」である。
「開発を援助する」というのは、自分たち資本主義陣営に途上国を取り込み、そこから搾取するための方便であった。
実際には「緑の革命」は、ほんの一時期のみ生産量を上げただけにとどまり、その地域の共同体を破壊し、農業を破壊し、環境も破壊(砂漠化など)、結果的に途上国の人々をますます貧困に追いやることになった。
世銀などが途上国に金を貸しつけ、その投資の殆どはUターンしてアメリカのゼネコンや化学・薬品メーカー、農機具メーカー、種苗会社、などの利益になった。
そして「緑の革命」の失敗のつけは、途上国政府の多額の負債という形で、全て押し付けられたのである。
「開発援助」というのは響きは美しいが、内実はこんなものなのである。
しかし、マスコミは決してこのような実情を報道することはない。
「日本はもっと途上国の支援に金を出すべきである」という論調ばかりである。
マスコミに代わる共認形成の場を構築し、真に途上国に必要なのは何なのかをみんなで考えていく必要がある。
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学生さん本人は、フィリピンの現地を5回ほど訪れ、フェアトレードを促進する活動を行う中で、上に書いた矛盾にぶつかって悩んでいたようだ。
「多国籍企業が農地を独占し、農地を奪われた人々を不当な低賃金で雇ってこき使っている。日本は最近格差社会になったといわれるが、フィリピンはずっと前からそうだ。しかもその状況をつくっているのは先進国だ。これは私たち自身の問題だと思う」と語った。
彼自身、NGOの活動に身を投じながらも、その活動の限界を強く感じているようだった。
NGOの活動は、確かに目の前で苦しんでいる人々を助ける活動なのかもしれない。しかし、現地の人々にとっては、「先進国の連中は我々の生活を思いっきり破壊しておきながら、いまさら“助ける”なんてよく言うよ。欺瞞だろ。それより我々の生活を破壊するのを止めて出て行ってくれ」というのが本音だろう。
このような体制補完運動の「開発援助」や「NGO活動」ではなく、多国籍企業や国際金融機関などによる途上国への暴力と搾取を止めさせることそのものを考えなくてはならない。
にもかかわらず、マスコミは相変わらず「開発援助」はいいことだ、というトーンで情報を垂れ流すだけである。
これらの洗脳を打ち破って、私たちが共認形成の場を自分達の手でつくっていく必要性をあらためて感じた。
tanvool
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【政治に関心が出ないのはなんで?】
【日本をどうしようという課題が共有されないのはなんで?】
というお題。
まず、整理すると、私たち人間は、本能(≒体)⇔共認(≒心)⇔観念(≒頭)は、つながっていないと、生きてゆけない構造にあります。ある外圧状況下で、当然、どこかに断層があったりするとそれを埋めよう(=欠乏を充足させよう)として、一生懸命考えたり、捨象したり、解脱したりして、統合し、現在の状況や環境に適応しようとします。当然、断層を抱えたまま継続されると、架空にその充足を想像して観念上で作り上げることも出来ます。例えば、宗教。平和とか平等とか自由とかの観念=近代思想も実現した為しなく、同じものです。うつ病なんかもその充足欠損なのでしょうね。
さて、このような個体レベルから顔の見える集団の範囲内であれば、なんとか、対面で話し合い、理解しあい、その断層を埋めることができたはずですが、一旦、集団対集団という顔の見えない環境に入ると、なかなか一人一人に同化して共認を形成してゆくことが不可能になっていきます。さらに、国家や社会や世界といった系では、殆ど、対面でみんなの共認をはかることは困難です。そこで、新しい秩序が必要になってきたのです。
それが、今の政治システムや法体系、市場システムで、顔の見えない人々に一定の秩序を与えて、肥大社会や世界や国家を統合しています。(実際はほころんでいますが・・・)
政治とか経済とか法律などの秩序・統合システムとそのほころびなどの環境問題や精神破壊などの課題は、顔の見える範囲では全く解らないもので、数値や論理整合をもって初めて、理解し、その危機感や不全が明確になってゆくのです。顔の見える集団では、誰かが、奇声を上げれば、だれもが気づく状況にありますが、顔の見えない環境下では、何がおこっているのかすらわかりません。
だから、興味がわかないし、政治に関心がわかない理由の一つであると思います。
もう一つ、明確にあるのは、1970年頃から、みんなが豊かになって、私権獲得競争を必要としなくなり、私権獲得競争をベースとした理論や哲学や政治思想が、明らかに、不毛であり、無意味であるということを僕たちは悟ったのです。無思想・無関心・無感動などといわれた世代が私たちの中年世代です。また一方で、いまの若者は、共認による充足を取り戻そうと可能性を見ています。それが仲間収束、人収束、役に立ちたいという気持ちです。そちらの可能性に収束していくがゆえ、今までのほころびはじめた、共認原理とは全く逆の観念・思想・政治に関心が向かないのも現実です。
【自分一人さえよければ】⇒【みんなが充足するには】
に転換しているのです。その意味で今の政治には関心が向かないのでしょう。
しかし、今の日本は、観念を使って理解するととんでもないことになっています。どの集団も不正だらけ、政治も、学校も家庭もあらゆる集団や市場システムは崩壊、いまのまま、同じ状況を続ければ、全てを破壊しつくしてしまう社会不全を観取できると思います。
しかし、不全発の課題意識だけでは、空回り。若者の可能性発の必要意識(みんな充足するにはこれが必要!)という観点で、社会を見てみると、多くの可能性が見えると思います。それが、るいネットやサロンの試みです。今その入り口にいる、これらの若者にそこを期待し、次代の社会統合を担っていただく期待をしたいところです。そんな風に思っています。
彗星
【日本をどうしようという課題が共有されないのはなんで?】
というお題。
まず、整理すると、私たち人間は、本能(≒体)⇔共認(≒心)⇔観念(≒頭)は、つながっていないと、生きてゆけない構造にあります。ある外圧状況下で、当然、どこかに断層があったりするとそれを埋めよう(=欠乏を充足させよう)として、一生懸命考えたり、捨象したり、解脱したりして、統合し、現在の状況や環境に適応しようとします。当然、断層を抱えたまま継続されると、架空にその充足を想像して観念上で作り上げることも出来ます。例えば、宗教。平和とか平等とか自由とかの観念=近代思想も実現した為しなく、同じものです。うつ病なんかもその充足欠損なのでしょうね。
さて、このような個体レベルから顔の見える集団の範囲内であれば、なんとか、対面で話し合い、理解しあい、その断層を埋めることができたはずですが、一旦、集団対集団という顔の見えない環境に入ると、なかなか一人一人に同化して共認を形成してゆくことが不可能になっていきます。さらに、国家や社会や世界といった系では、殆ど、対面でみんなの共認をはかることは困難です。そこで、新しい秩序が必要になってきたのです。
それが、今の政治システムや法体系、市場システムで、顔の見えない人々に一定の秩序を与えて、肥大社会や世界や国家を統合しています。(実際はほころんでいますが・・・)
政治とか経済とか法律などの秩序・統合システムとそのほころびなどの環境問題や精神破壊などの課題は、顔の見える範囲では全く解らないもので、数値や論理整合をもって初めて、理解し、その危機感や不全が明確になってゆくのです。顔の見える集団では、誰かが、奇声を上げれば、だれもが気づく状況にありますが、顔の見えない環境下では、何がおこっているのかすらわかりません。
だから、興味がわかないし、政治に関心がわかない理由の一つであると思います。
もう一つ、明確にあるのは、1970年頃から、みんなが豊かになって、私権獲得競争を必要としなくなり、私権獲得競争をベースとした理論や哲学や政治思想が、明らかに、不毛であり、無意味であるということを僕たちは悟ったのです。無思想・無関心・無感動などといわれた世代が私たちの中年世代です。また一方で、いまの若者は、共認による充足を取り戻そうと可能性を見ています。それが仲間収束、人収束、役に立ちたいという気持ちです。そちらの可能性に収束していくがゆえ、今までのほころびはじめた、共認原理とは全く逆の観念・思想・政治に関心が向かないのも現実です。
【自分一人さえよければ】⇒【みんなが充足するには】
に転換しているのです。その意味で今の政治には関心が向かないのでしょう。
しかし、今の日本は、観念を使って理解するととんでもないことになっています。どの集団も不正だらけ、政治も、学校も家庭もあらゆる集団や市場システムは崩壊、いまのまま、同じ状況を続ければ、全てを破壊しつくしてしまう社会不全を観取できると思います。
しかし、不全発の課題意識だけでは、空回り。若者の可能性発の必要意識(みんな充足するにはこれが必要!)という観点で、社会を見てみると、多くの可能性が見えると思います。それが、るいネットやサロンの試みです。今その入り口にいる、これらの若者にそこを期待し、次代の社会統合を担っていただく期待をしたいところです。そんな風に思っています。
彗星
日本にたくさんの借金があることは小学生でも知っているけど、借金をしてまでアメリカの借金の穴埋めをしていることは、知らない。
もしその事実を知れば、小学生でも(むしろ子供ほど)「それはおかしい」と気がつくに違いない。
だから、そんな事実をどんどん伝えていくことが、社会を変えることになるんだと確信します。
西知子
もしその事実を知れば、小学生でも(むしろ子供ほど)「それはおかしい」と気がつくに違いない。
だから、そんな事実をどんどん伝えていくことが、社会を変えることになるんだと確信します。
西知子
もしかするとマスコミも社会不安が大きいほうが儲かるのではないか?
市場拡大に必要なもの
の国際金融家と似た構造だ。
>論理的に考えても、市場とは序列統合のすきまを突いた‘抜け道’であり、万全な国家体制は市場にとってはむしろ邪魔者です。つまり、市場拡大には序列統合内に一定の‘ひび割れ’があることが不可欠であり、極論するなら、市場とは不安定期の方が拡大しやすいと言えます。<
マスコミも、誰もが社会や自身の生活に満足してしまっていては、退屈しのぎ以上の意味を持たない。
逆に、社会不安が大きいときほど、その不安を煽る事で、社会共認を誘導することができる。
考えてみれば、マスコミの共認支配が出来上がってきたのも、貧困が消滅して、私権統合が崩壊していく過程と歩みを共にしていると見ることもできるのではないか。
生活は楽になっていくけど、何が社会の統合軸なのか?どうすればよいのか?という疑問に対する答えを、マスコミは、最初は取り残された社会的弱者層を取り上げ、福祉第一を叫び、国家へ要求し続けた。
次に、社会的弱者層が減ってくると、遊び第一、自分第一の価値観を煽り、娯楽全般へ人々の意識を向けた。
そして、バブル崩壊後は、ひたすら社会の不安を煽っているともいえる。
そうしてマスコミは、第一権力へとのし上がった。
しかし、市場に拡大限界があるように、マスコミにも限界はある。
マスコミが煽る不安が増大する一方で、目先の答えすらマスコミは示せなくなってきており、すでに事実をまともに報道することなく、捏造、虚報、誤報等で、話題の目先を目まぐるしく散らすことで精一杯なのではないか?
その背景には、インターネットの普及があるのだと思う。
ネットによって、事実は良質な素人の発信によって伝えられるようになってきている。
そうした発信に対して、共感を呼ぶ場が出来つつある。
彼らの不安を煽る戦略は、限界を迎えたといって良いのではないかと思う。
梵
市場拡大に必要なもの
の国際金融家と似た構造だ。
>論理的に考えても、市場とは序列統合のすきまを突いた‘抜け道’であり、万全な国家体制は市場にとってはむしろ邪魔者です。つまり、市場拡大には序列統合内に一定の‘ひび割れ’があることが不可欠であり、極論するなら、市場とは不安定期の方が拡大しやすいと言えます。<
マスコミも、誰もが社会や自身の生活に満足してしまっていては、退屈しのぎ以上の意味を持たない。
逆に、社会不安が大きいときほど、その不安を煽る事で、社会共認を誘導することができる。
考えてみれば、マスコミの共認支配が出来上がってきたのも、貧困が消滅して、私権統合が崩壊していく過程と歩みを共にしていると見ることもできるのではないか。
生活は楽になっていくけど、何が社会の統合軸なのか?どうすればよいのか?という疑問に対する答えを、マスコミは、最初は取り残された社会的弱者層を取り上げ、福祉第一を叫び、国家へ要求し続けた。
次に、社会的弱者層が減ってくると、遊び第一、自分第一の価値観を煽り、娯楽全般へ人々の意識を向けた。
そして、バブル崩壊後は、ひたすら社会の不安を煽っているともいえる。
そうしてマスコミは、第一権力へとのし上がった。
しかし、市場に拡大限界があるように、マスコミにも限界はある。
マスコミが煽る不安が増大する一方で、目先の答えすらマスコミは示せなくなってきており、すでに事実をまともに報道することなく、捏造、虚報、誤報等で、話題の目先を目まぐるしく散らすことで精一杯なのではないか?
その背景には、インターネットの普及があるのだと思う。
ネットによって、事実は良質な素人の発信によって伝えられるようになってきている。
そうした発信に対して、共感を呼ぶ場が出来つつある。
彼らの不安を煽る戦略は、限界を迎えたといって良いのではないかと思う。
梵
>置かれた環境を貫く闘争圧力が、(個体を構成する各機能であれ、あるいは集団を構成する各個体であれ)最末端まで貫通した圧力として働いているからこそ、その圧力に適応する最先端機能へと(各機能や各個体が)収束し、全体が統合されるのであって、この圧力がなければ、最先端機能も統合機能として働かない。
製造日偽装問題に端を発し、創業300年の和菓子メーカーが無期限営業禁止に追い込まれました。立ち入り調査に入った農水省が改ざん方法を事前に知っていたことから、内部告発があったのであろうとされています。
需要の少ない時に余剰分をストックしておき、供給が追いつかなくなる時に放出するというのは、限られた生産設備を有効に利用するという点で市場原理的には正しい選択だと思います。私権圧力下ではそうした闘争圧力が末端まで働いていたのかもしれませんが、社会圧力の中心が私権圧力→共認圧力に変化してくると、製造年月日を打ち替えてまで実行することに末端では疑問を持つようになったのでしょう。もはや私権圧力で企業を統合することは不可能になりつつあります。
「トップの闘争圧力は私権、末端の闘争圧力は共認」といった闘争圧力が末端まで貫通していない企業からは、これからもこうした不祥事が出てくるのではないかと思います。
Mr.カトー
製造日偽装問題に端を発し、創業300年の和菓子メーカーが無期限営業禁止に追い込まれました。立ち入り調査に入った農水省が改ざん方法を事前に知っていたことから、内部告発があったのであろうとされています。
需要の少ない時に余剰分をストックしておき、供給が追いつかなくなる時に放出するというのは、限られた生産設備を有効に利用するという点で市場原理的には正しい選択だと思います。私権圧力下ではそうした闘争圧力が末端まで働いていたのかもしれませんが、社会圧力の中心が私権圧力→共認圧力に変化してくると、製造年月日を打ち替えてまで実行することに末端では疑問を持つようになったのでしょう。もはや私権圧力で企業を統合することは不可能になりつつあります。
「トップの闘争圧力は私権、末端の闘争圧力は共認」といった闘争圧力が末端まで貫通していない企業からは、これからもこうした不祥事が出てくるのではないかと思います。
Mr.カトー
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