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賞味期限について話し合ってみました。
みんなの実感は、

・お店で買うときは、一応日付の新しいものを買ったりしてしまうけど、自宅の冷蔵庫の中で期限が過ぎても、食べることはよくある。

・偽装についてマスコミで騒いでいるほど、あまり気にならない。

・賞味期限の日付は、ある程度余裕を持ってつけているのにも関わらず(まだ食べれらるのに)、過ぎてしまったからといって大量に捨ててしまう現状は、とてももったいないこと!!今はまだいいけど、将来食料危機がきたらどうするんだろう?

・そもそも賞味期限って、あやしい。あやふやなもの…。

・食べられる目安は欲しいけど…(賞味期限がよいかは疑問)。
実際、賞味期限は加工品のみで、野菜等にはないし…
etc…

実際、どういうものが安心や安全と感じる?ということに対しては、食べ物が出来るまでの過程が分かるようなもの。いうような意見が出て、みんなが求める食への安全性や安心感と、賞味期限とは一致していないことが確認出来ました。

そもそも賞味期限の記載は、諸外国からの圧力で始まり、それは日本への市場参入のため。
ということは、消費者のためではなく生産者のために出来た規制なので、みんなの期待とズレているのは当たり前なのだと思います。

元々日本人は、もったいない気持ちや、無駄にしない、使い切る…という心を持っていたのに、アメリカ等からの市場原理主義や個人主義が入ってきて以来その心を忘れかけているようです。
それでもみんなの潜在思念にはその心が残っていて、赤福の社長も「勿体ないという意識だった」と語っていました。

1995年に賞味期限の記載を導入してから、
日本の生産者側は、規制に縛られ捨てるという無駄をし、それを破ったらマスコミに叩かれ会社が潰れるまでになる。また利益追求という課題もある。
消費者側は、個人主義の影響で要求主義になってしまっているところがあり、作り手の気持ちが分からなくなっている。
ひとたび生産者の偽装が発覚すれば、マスコミの執拗な報道で企業が悪いと思わされ、本当の実感とはズレたところで物事を考えるようになってしまっている。。。

賞味期限の問題だけでなく、様々な制度により異常にみんながいがみ合ったり怯えたり、本質とは違うところで思考しているように想います。
本来規範とは、みんなが充足するためのものなのに、今の法制度は、人や企業を取り締まる目的で出来ているよう。
このままだと益々殺伐とした世の中になってしまいます。

>現実(状況)を整除し、答えを示すためにあるべき観念が、
 現実から目を背け、答えを見えなくさせてしまっています。

みんなの期待や実感に合ったものはなにか?
答えを出してゆくためには、どうしたらいいか?ということを考えてゆくことが重要。。。
そのためには、
事実関係を知り、その構造を押さえてゆく。
一人では無理だけど、みんなで事実を出し合ったり調べたりして、共有し共通課題にすれば、共認(圧力)を形成してゆくことが可能になります。
それが今、最も必要なことなのだと想います。

 
宮谷和枝
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自分のイメージですが、可能性発の人は勉強しまくっています。社会問題に対してなんで?とかどーしてそうなるの?とか、常に理由や証拠、こたえを求めると同時に自分からとことん追求します。その人自身が構造を知りたくて、こたえをほしくてしょうがない。そして自分から勉強することができます。エネルギッシュで自主的。そんなイメージです。
たぶん、多くの人が社会問題に対してなんで?どーして?と思うのですがそこから先に展開できなくてあきらめます。可能性になりそうなものを引っ張ってきて「理想ですね」ですませます。私もそうなることが非常に多いです。ほとんどかもしれません。
勉強しまくると、社会不全の構造を認識できます。構造が認識できると、こたえを出せるかもしれないし期待が大きくなると思います。



ぺー

>人それぞれというからには、主張する中身がなくてはならない。しかし、
人それぞれだからという前に、もはや主張する中身がない??

これ、すごく気づきでした!
「そんなの人それぞれじゃん?」って、前まではよく聞いてたけど、
それで何にも結果が出ないこと、何も実現しないことにみんな気付いたのかも?

この状況ってすごい可能性を感じる。
「人それぞれ」に主張する中身がなくなったら、
みんなで「どうする?」を考えるしか道は残ってないと思います!

 
春風
外圧の衰弱→消滅が、意識潮流の変化の根本にあることが分かる。この外圧の衰弱は、内圧の衰弱=活力の衰弱や同化能力の貧弱さなど、様々な問題を生み出している。

1970年に外圧としての私権圧力が消滅した以上、共認圧力を自ら作り出さなければ、外圧はゼロのままである。

この共認圧力は、課題共認が成立して初めて形成される。課題共認の前段階での「問題意識の共認」では、共認圧力は形成できない。
例えば、大半の人は「今の社会は何かオカシイ」と問題意識を持っており、その問題意識を共認することも可能だ。しかし、「問題意識の共認」だけでは共認圧力は形成されない。他にも、大半の子どもが、イジメについての問題意識を共認している。しかし、本当にイジメを解決していこうとする共認圧力は未だ形成されていない。「これが問題だ」「こういう部分に問題がある」と発信し、問題意識を共認していても、共認圧力は形成されず、何も生み出せない。

問題意識を共認することは出来ているのに、課題を共認し、共認圧力を形成できないのは、なぜか?この断層を乗り越えられないのは、なぜか?
それは、課題を共認するためには、方針=答えが必要だからである。潜在思念が感じ取った問題意識は、方針=答えがあって初めて突破すべき課題として共認され、共認圧力が形成されていく。

 
内藤琢
今日、『こう考えている自分とはなにか?』という疑問を抱く人がいた。デカルトの時代でもなく、今の話である。その方の主観は、人間(自分)は観念によって物事を定義し、それを組み合わせて思考している、というものであった。

だから、例えば環境問題を考えていくにしても、その問題を定義した観念と、その組み合わせを行う思考が必要である。そして、そう思考する、自分自身は何者?で、自分の思考は正しいのか?ということ自体を考えないと、環境問題も解決しそうにない、という風に現状を捉えていた。

これは、デカルトの問いに似ているが、まったく違う構造であることがわかった。

まず、潜在思念は時代とともに転換し、環境問題も今世間で言われているような、議論ではうまく行きそうにないという自覚がある。しかし、人間は観念のみで世界を定義し、思考するという前提になっていて、かつ新旧概念の構造を知らない。

だから、うまく行かないと疑問に思う理由が、観念を操り判断する自分自身の不完全さにあるという錯覚に陥っていたのだ。

事実は、本能⇒共認⇒観念のとおり、感じたことが先にあり、それを整除し、明確にするために、感じたままを言葉にした観念があること。そして、人間は決して観念だけで考えているわけではないこと。

その上で、感じる潜在思念部に注目すると、すでに自分からみんなに転換しており、市場問題を含めた社会全体(みんな)の問題として捉えようとしている。しかし、使っているのは、権利や自由などの、要求主義的旧観念で、感じた潜在思念とのズレを孕んでくる。

彼は今まで、本能⇒共認⇒観念、潜在思念、旧観念の構造などを知らなかったから『こう考えている自分とはなにか?』という言葉の疑問が出てきただけであった。実際この説明をすると、彼は一気に疑問が解け、これから何を勉強して行けばいいのかに気がついた。

今は、構造認識があって初めて物を考える事が出来る時代であることを痛感した。潜在思念で感じている、もっとたくさんの人に伝えなければと思った。




本田真吾 
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