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周りからは認識収束していると見られている26歳の女子社員から、若者の認識収束、社会収束の数々の実態と共に、「今年の新人は認識収束、社会収束が著しく、さらに認識収束しなければ時代に取り残される危機感を感じた」という話があった。

>この認識闘争の圧力が最末端をも貫く圧力にまで成長すれば、それに応える『認識闘争の場』は人類の最先端機能となり、全てをその下に収束させた社会統合機能となる。

この「最末端」に位置し、『認識闘争の場』づくりの障壁になっているのは、中途半端な認識収束しかできていない中高年だったことに、同席していた私たち中年連中は鮮明に気づいた。

認識収束している新人たちにどのように応えることができるのだろうか。

そう考えると心許ないと思ってしまう現実を受け入れるところから始めなくてはならない、そして、新人たちの認識欠乏に応えられるよう、ひとつひとつ確かな認識を吸収していかなければならない、と思った。

現実と理論が繋がり、さらにそれが自分たちに突きつけられた事実であることに気づかされたなんでやサロンであった。



前上英二
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『超国家・超市場論24 必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆく』

を図解化して、とても大事な意識構造に気付いた。

┏━━━━━━━━━━━┓
┃生物に不可欠の生存機能┃
┃  『必要か否か』  ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
      ∥
      ∨
┏━━━━━━━━━━━┓
┃ 真っ当でシンプルな ┃
┃  『判断の土俵』  ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
      ∥
      ∨
┏━━━━━━━━━━━┓
┃ どれだけ多くの人が ┃
┃ 必要と認めたか?  ┃
┃ 評価指標:『人数』 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛

単純だ。必要か否かというシンプルで迷いのない意識は、誰にでも備わっている。

だから、よけいな観念さえなければ、この判断機能が働くはず。

しかし、社会は多くの人々の意識の集合体である。

『判断の土俵とは、人々の潜在思念が作り出した共認圧力の場』

このるいネットのような場が判断の土俵をつくり、みんなにとって何が『必要か否か』?。評価されていくのだと思う。




澤根和治
とある工業組合の講演会に参加した時の事。

昨今のクレーム社会、及び連日のマスコミによる企業叩きの報道に対し、先手を打って安全対策の自主基準を策定し、業界全体が一体となって商品の信頼性を勝ち取るための手立てを打とう!というのが大きな目的でした。

主に中小企業の集まりであり、一つ一つは本当に小さな製造業の方々。
単体では微小なれども、組合として資金や技術を提供しあいながら、実験を重ね、現実にマッチングした基準の作成が行なわれていると感心しました。

が、それ以上に共感を呼んだのが、企業としての闘う姿勢!

上記にあげた通り、現在消費者の身になんらかのトラブルが起こると、即座にマスコミによる企業叩きが行なわれます。

しかも、その殆どが末端の生産者・製造業者等に対する集中砲火となる。超巨大企業が即座に叩かれる事例など、全く無いと言っても良いだろう。

そして、あたかも生産者に全ての責任があるかのような報道が行なわれれば、それが仮説であろうともその叩かれた企業は瞬時に虫の息となってしまう。元々、企業としての利益は実体経済のベースとほぼ同等であり、本当に作り出したものが売れた分だけで、生産基盤を守っているような所です。一度集中砲火を受け、ほんの一ヶ月でも業務停止となれば、商売上がったり、もう継続不可能なくらいに、マスコミの影響力は大きい。

このようなマスコミの姿勢に対し、自らが力を合せて事前にお客様への安全対策を講じている事を発していく。本当に、お客様の事を考えて生産に取り組んでいる、という姿勢を打ち出していく。

その姿こそが、本当に期待に応えんとする生産者達の姿勢であろう。

マスコミが巨大な権力を持っているからと言って、ひるむ事は無い。
最後に勝つのは、事実なのだから。

であるならば、事実こそ、積極的に発信していく。それこそが、素人にとって必要不可欠な、仕事への姿勢である。そして、これからはそのような素人達が力を合せて、巨大な権力へ立ち向かっていく認識闘争の時代なのだと、改めて実感しました。




川井孝浩
>しかし、新しい認識は、誰か一人の天才や学者etcの専門家が創り出すのではない。新しい認識は、他に専業を持つ普通の人々の協働の中で作られ整えられてゆく。つまり、外向仲間収束=認識仲間収束の母胎(=NW)の中で、新しい認識は紡ぎ出され織り上げられてゆく。

 かつて、国際共通語の代表格である「エスペラント語」は、創案されてから1世紀程経つが、使用している人は全世界10万人程度である。
 ポーランドの天才が創案した人工的な言語は今後、広まることもなく、減少していくと予想されている。

 言語はどんな天才が作ったとしても、実用的でないと使われないし、広まる事はない。
 逆に、広まってしまえば日本人が日本語を使うのは当たり前すぎるし、日常的には、ほとんど意識しない。

 一方、私権時代に創られた近代思想は、創り出した天才の頭の中にある幻想社会を言語化しただけで、現実社会を対象化したものではない。
 一般の人々が目先の私権だけに目が向いている時は輝きを持っていたが、貧困が消滅し、現実の社会に目が向くようになると一気に色褪せてしまった。

 これからの新しい認識の創造は、自然言語が作り出される過程に近似している。
 現実に即していないと使えないだろうし、多くの人が共認すれば意識しないで使うようになる。
 
 母国語と言われる自然言語は長い歴史の中で、多くの人に揉まれながら進化してきた。
 これからも、使われながら進化(変化)して行くであろう。

 新しい認識も外向仲間収束=認識仲間収束の母胎(=NW)の中で、紡ぎ出され織り上げられてゆく。に違いない。

 

坂本日出夫
「社会」という言葉に違和感や嫌悪感を覚える人は、数年前より格段に少なくなっていると感じます。

最近では、小中学生でも「環境問題」「国の借金」といったお題に興味を示しますし、逆に「自分探し」「恋愛~」等を話す人は激減しているように感じます。
彼らも別に恋愛や異性に全く興味が無いと言う訳では無いのですが、こうした個人的な課題よりも社会的な問題の方によほど興味を感じている様です。

過去、個人主義華々しい時代はこんな事は考えられませんでした。
個人主義は、突き詰めれば自分以外は興味がないという意識。「社会」などという言葉は「自分」の対極に位置する言葉で、そんなものには全く興味を覚えなかった。
しかし今は、その意識が逆転しているように感じます。

もっと正確に言うと、「社会」に収束しているというより、「事実」に収束している、という印象を受けます。
「社会を変えたい!」という意識ではなく「事実を知りたい!」という意識。
前述の個人主義が魅力を失った事に加え、ネット等の普及が万人に事実追求の可能性を開き、結果既存マスコミの情報が実は信用できない、という事実に気付いてしまった、という事は大きいと思います。(その一方、そう思いながらも知らす知らずマスコミに洗脳されているというのもまた事実です。)


しかし、この事実を知りたい、という意識は、突き詰めて行くと「社会」に直結します。この事が最も重要な点だと思います。

「事実の共認」は、どんなに巧緻巧妙な観念よりもずっと収束しやすい。
独り頭の中でこねくり回した観念より、皆で追求、発信した事実の方がよほど収束力があり魅力的です。
この事実の共認が、「新しい認識を紡ぎ出す」土壌になるのだと思います。




山田孝治
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