×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
>認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収束(全的な答え欠乏)が顕在化する。
>しかし、最初の答え(に近い言葉)だけでは、未だ充分ではない。最終的には外向仲間=認識仲間を結集させる場が必要である。認識仲間の結集核とも拠点ともなるその場こそ、認識形成サイトに他ならない。その様な場が与えられて初めて、認識仲間が協働して答え(新しい認識)を紡ぎ出し織り上げてゆく事が可能になり…
社会における日々の流動的な現象事実群は、個人的な視点で捉えると一見極めて雑多であり、それらの現象群から共通した意味を直感レベルで把握し、また、それらの個々の把握内容を関係付け(≒構造化し)、整理する事は一個人の視点では極めて難しい。
そもそも直感レベルで捉えた意味を客体化するのには、明確な言葉化が必要であり、多くの労苦を伴う難作業だと思う。
また、社会の構造が不変でない以上、変化する社会を捉える言葉もそれに対応して常に新たに造語されていかなければならない。
言葉を紡ぎだす≒新認識を構築する…この難作業に果敢に真正面から挑んだのが「るいネット」だと思う。
日本橋
>しかし、最初の答え(に近い言葉)だけでは、未だ充分ではない。最終的には外向仲間=認識仲間を結集させる場が必要である。認識仲間の結集核とも拠点ともなるその場こそ、認識形成サイトに他ならない。その様な場が与えられて初めて、認識仲間が協働して答え(新しい認識)を紡ぎ出し織り上げてゆく事が可能になり…
社会における日々の流動的な現象事実群は、個人的な視点で捉えると一見極めて雑多であり、それらの現象群から共通した意味を直感レベルで把握し、また、それらの個々の把握内容を関係付け(≒構造化し)、整理する事は一個人の視点では極めて難しい。
そもそも直感レベルで捉えた意味を客体化するのには、明確な言葉化が必要であり、多くの労苦を伴う難作業だと思う。
また、社会の構造が不変でない以上、変化する社会を捉える言葉もそれに対応して常に新たに造語されていかなければならない。
言葉を紡ぎだす≒新認識を構築する…この難作業に果敢に真正面から挑んだのが「るいネット」だと思う。
日本橋
PR
今日の認識仲間との議論の中で、外向収束と答え欠乏は同じじゃないのか?という疑問が出されたので、整理してみたい。
例えば、「社会不全」を起点とした、この二つの流れを見てみよう。
社会不全=>外向収束
∥
∨
答え欠乏
外向収束とは?
・周りの人々、意識、状況などの探索(みんなどーなん?)
答え欠乏とは?
・不全に対する、答えそのものを求める意識潮流
いずれも、不全から探索へと向かう流れとして生じてくる。
では、この二つの収束軸はその後どう進んでいくと考えられるか?
ここで、外向収束と答え欠乏は、どのような相関関係になっているのかを考えてみる。
例えば、我々が近年体験した阪神大震災を例に考えてみよう。
突然の大震災=>皆は大丈夫か?=>力を合せて助け合おう!
∥ ∥
∨ ∨
なんとかして!=>災害の原因は?=>ワークグループを組んで追及
∥
∨
新たな耐震基準や災害対策検討
と言った具合に、人と答えが徐々に課題を生み出し、新たな人の繋がりが場を生み出す流れが顕在化してくる。
上記の流れを、元の投稿( 新しい潮流10~12) に当てはめると、
社会不全=>外向収束=>人収束
∥ ∥
∨ ∨
答え欠乏=>認識欠乏=>外向仲間収束
∥
∨
認識仲間収束
と言った形で、徐々にではあるが、人と答えが一体となったまつり場の形成へと向かって行く。
人は、共認動物(集団動物)であり、観念動物でもある。要するに、常に周りの意識(共認内容)を羅針盤にしながら、答えを追及し共認して、外圧へと適応してきたのだ。これは即ち、人という生き物が外圧に適応する為の普遍構造(自然の摂理)なのではないかと思う。
なるほど、この閉塞しきった社会には、やはり『人と答えが一体となる場』⇒認識形成サイトというネットワークが必要ですね。
川井孝浩
例えば、「社会不全」を起点とした、この二つの流れを見てみよう。
社会不全=>外向収束
∥
∨
答え欠乏
外向収束とは?
・周りの人々、意識、状況などの探索(みんなどーなん?)
答え欠乏とは?
・不全に対する、答えそのものを求める意識潮流
いずれも、不全から探索へと向かう流れとして生じてくる。
では、この二つの収束軸はその後どう進んでいくと考えられるか?
ここで、外向収束と答え欠乏は、どのような相関関係になっているのかを考えてみる。
例えば、我々が近年体験した阪神大震災を例に考えてみよう。
突然の大震災=>皆は大丈夫か?=>力を合せて助け合おう!
∥ ∥
∨ ∨
なんとかして!=>災害の原因は?=>ワークグループを組んで追及
∥
∨
新たな耐震基準や災害対策検討
と言った具合に、人と答えが徐々に課題を生み出し、新たな人の繋がりが場を生み出す流れが顕在化してくる。
上記の流れを、元の投稿( 新しい潮流10~12) に当てはめると、
社会不全=>外向収束=>人収束
∥ ∥
∨ ∨
答え欠乏=>認識欠乏=>外向仲間収束
∥
∨
認識仲間収束
と言った形で、徐々にではあるが、人と答えが一体となったまつり場の形成へと向かって行く。
人は、共認動物(集団動物)であり、観念動物でもある。要するに、常に周りの意識(共認内容)を羅針盤にしながら、答えを追及し共認して、外圧へと適応してきたのだ。これは即ち、人という生き物が外圧に適応する為の普遍構造(自然の摂理)なのではないかと思う。
なるほど、この閉塞しきった社会には、やはり『人と答えが一体となる場』⇒認識形成サイトというネットワークが必要ですね。
川井孝浩
テレビ業界に身をおく中で、テレビは社会全体に不必要かつ社会の進歩を阻害する障害物であるという結論に至り、テレビ業界を去った方が、マスメディアというシステムの核心について述べられていましたので、全文引用紹介しておきます。
////////引用開始////////
何だかんだ言ってもネット空間の情報ソースはほぼすべてマスコミだ、と先日コメント欄で発言なされていた方がいました。だからやっぱりマスコミにはがんばってもらわねばならぬ、と。このような印象を持っている人は多いと思うので、今回はそれについて少し書きます。
まず最初に言っておくと、情報ソースとしての役割はマスメディアというシステムの核心ではありません。
例えばテレビの夕方のニュースで送り手側のトップにいるのは、呼び方はいろいろありますが、いわゆる編集長です。きょうはこの未成年による殺人事件のニュースをトップにすえよう。同じ未成年の暴走ということで2番目のニュースはこれ。社会が壊れているのに遊んでる国会の様子が3番目。中国のこのニュースはボツだな・・・と<ニュース献立>を決める役職です。
マスメディアの核心はここにあります。どの情報をトップニュースにしてふくらませ、どの情報を落とすか、いわば情報に値段をつけることこそマスメディアの力の源泉であり、それに比べれば取材する能力などオマケにすぎません。取材力を一切持たないマスメディアは存在しますが、編集長のいないマスメディアは存在しないし、ありえないのです。
それに対してネットの特徴は、まさにこの編集長を必要としないところにあります。例えばグーグルニュースは編集長の役割をコンピュータに任せますし、ソーシャルブックマークなどは個々のユーザーが編集長になることに他なりません。ネットの発展は、マスコミが独占していた編集長の役割を解体していく過程といっていいかもしれません。
ぼくがマスメディアは退場すべきだと訴えるとき、頭にあるのはこの編集長としてのマスメディアです。再販制で守られた大新聞や電波を占有するテレビ局は、不特定多数の人々に情報を配信する手段がそれしかないという技術的理由で、社会における編集長の地位を独占してきました。しかし今やそれは唯一の選択肢ではなく、もともと危険で有害なシステムなので、この機会におとなしく去るべきだ、と確信するに至ったから、ぼくはテレビを捨てたのです。
ネットの世界が情報ソースを既存のマスメディアに頼っていることは、何ら負い目を感じることではありません。テレビだって、かつては独自のコンテンツ制作能力をほとんど持たず、ニュースなら新聞、エンターテイメントなら映画界に頼り切っていました。だからテレビ業界は、もちろん独自の取材力と制作能力を高めることに力を注いではきましたが、結局テレビをマスメディアの王様の地位に押し上げたのは、取材力や制作能力で新聞や映画界を追い越したからではなくて、圧倒的な露出力により、テレビに映るものに価値を与える権威をえたからです。
テレビニュースの取材者は、今も情報ソースを雑誌や新聞、そしてネットにも頼っています。そして「これはテレビ向きだ」と思うネタに取材をかけて放送します。するとその情報に価値があると見なされるようになるのです。大新聞にしても同様です。新聞の紙面でインパクトを持ちやすい情報は価値を与えられ、新聞で紹介しにくい情報は価値を持ちません。情報とはそういうものです。
ですからマスコミがいまだ巨大な権力を持っている現在、価値があるとされる情報がマスコミ起源になるのは仕方ありません。なにしろほとんどの情報は、そもそもマスコミに伝えられることによって価値を持つわけですからね。マスコミが退場すれば、どの情報に価値があるのかは、不特定多数の<ネット編集長>次第になります。そうなれば自然と情報をマスコミに頼る必要はなくなるはずです。
今マスコミにがんばってもらう必要は、一切ありません。
「情報ソースとしてのマスコミ」マイネザッへより
////////引用終了////////
マスコミに対しては、その膨大な情報発信量に目を奪われて、それ故にマスコミにも存在価値があると思い込んでしまいそうですが、それが誤りであることが明確に分かります。
情報に価値付けをする編集長権限を独占することで、共認を支配しているのがマスコミの実態です。
“不特定多数の<ネット編集長>”は、我々一人一人です。
人々が個々の<ネット編集長>に留まらず、みんなにとって必要かの価値判断を事実に基づき協働して行っていくことで、まっとうな共認が形成される社会を創っていけるのだと思います。
西村秀彦
////////引用開始////////
何だかんだ言ってもネット空間の情報ソースはほぼすべてマスコミだ、と先日コメント欄で発言なされていた方がいました。だからやっぱりマスコミにはがんばってもらわねばならぬ、と。このような印象を持っている人は多いと思うので、今回はそれについて少し書きます。
まず最初に言っておくと、情報ソースとしての役割はマスメディアというシステムの核心ではありません。
例えばテレビの夕方のニュースで送り手側のトップにいるのは、呼び方はいろいろありますが、いわゆる編集長です。きょうはこの未成年による殺人事件のニュースをトップにすえよう。同じ未成年の暴走ということで2番目のニュースはこれ。社会が壊れているのに遊んでる国会の様子が3番目。中国のこのニュースはボツだな・・・と<ニュース献立>を決める役職です。
マスメディアの核心はここにあります。どの情報をトップニュースにしてふくらませ、どの情報を落とすか、いわば情報に値段をつけることこそマスメディアの力の源泉であり、それに比べれば取材する能力などオマケにすぎません。取材力を一切持たないマスメディアは存在しますが、編集長のいないマスメディアは存在しないし、ありえないのです。
それに対してネットの特徴は、まさにこの編集長を必要としないところにあります。例えばグーグルニュースは編集長の役割をコンピュータに任せますし、ソーシャルブックマークなどは個々のユーザーが編集長になることに他なりません。ネットの発展は、マスコミが独占していた編集長の役割を解体していく過程といっていいかもしれません。
ぼくがマスメディアは退場すべきだと訴えるとき、頭にあるのはこの編集長としてのマスメディアです。再販制で守られた大新聞や電波を占有するテレビ局は、不特定多数の人々に情報を配信する手段がそれしかないという技術的理由で、社会における編集長の地位を独占してきました。しかし今やそれは唯一の選択肢ではなく、もともと危険で有害なシステムなので、この機会におとなしく去るべきだ、と確信するに至ったから、ぼくはテレビを捨てたのです。
ネットの世界が情報ソースを既存のマスメディアに頼っていることは、何ら負い目を感じることではありません。テレビだって、かつては独自のコンテンツ制作能力をほとんど持たず、ニュースなら新聞、エンターテイメントなら映画界に頼り切っていました。だからテレビ業界は、もちろん独自の取材力と制作能力を高めることに力を注いではきましたが、結局テレビをマスメディアの王様の地位に押し上げたのは、取材力や制作能力で新聞や映画界を追い越したからではなくて、圧倒的な露出力により、テレビに映るものに価値を与える権威をえたからです。
テレビニュースの取材者は、今も情報ソースを雑誌や新聞、そしてネットにも頼っています。そして「これはテレビ向きだ」と思うネタに取材をかけて放送します。するとその情報に価値があると見なされるようになるのです。大新聞にしても同様です。新聞の紙面でインパクトを持ちやすい情報は価値を与えられ、新聞で紹介しにくい情報は価値を持ちません。情報とはそういうものです。
ですからマスコミがいまだ巨大な権力を持っている現在、価値があるとされる情報がマスコミ起源になるのは仕方ありません。なにしろほとんどの情報は、そもそもマスコミに伝えられることによって価値を持つわけですからね。マスコミが退場すれば、どの情報に価値があるのかは、不特定多数の<ネット編集長>次第になります。そうなれば自然と情報をマスコミに頼る必要はなくなるはずです。
今マスコミにがんばってもらう必要は、一切ありません。
「情報ソースとしてのマスコミ」マイネザッへより
////////引用終了////////
マスコミに対しては、その膨大な情報発信量に目を奪われて、それ故にマスコミにも存在価値があると思い込んでしまいそうですが、それが誤りであることが明確に分かります。
情報に価値付けをする編集長権限を独占することで、共認を支配しているのがマスコミの実態です。
“不特定多数の<ネット編集長>”は、我々一人一人です。
人々が個々の<ネット編集長>に留まらず、みんなにとって必要かの価値判断を事実に基づき協働して行っていくことで、まっとうな共認が形成される社会を創っていけるのだと思います。
西村秀彦
>一方、制度は社会共認の結果として出来上がる。であるなら、今の制度が変わっていかないのも社会共認が変わっていないから(顕在化していないから)とも言えると思います。
>みんなの認識さえ変われば結果として制度は変わる。逆に制度をいくら変えても万人の認識が変わらなければ社会は変わらない。初めに認識ありきなのです。
その通りだと思いました。社会共認が制度を作る。本来、きまりごととはそうあるべきですよね。けれど、社会共認が顕在化していない・・・。
なにかおかしいとか、無駄だなぁと感じることは多いけれど、それが変えられるという期待は、薄い。
期待ができないと、関係も薄れてしまう気がします。
みんなの認識だけでは足りなくて、「変えられるんだ」という期待と、「変えていこう」という発信を、持てることが必要なのだと思います。
だから、露店という場には、可能性があるのだと思います。
共認→充足→期待 に、なりそうで。
倉田慈満
>みんなの認識さえ変われば結果として制度は変わる。逆に制度をいくら変えても万人の認識が変わらなければ社会は変わらない。初めに認識ありきなのです。
その通りだと思いました。社会共認が制度を作る。本来、きまりごととはそうあるべきですよね。けれど、社会共認が顕在化していない・・・。
なにかおかしいとか、無駄だなぁと感じることは多いけれど、それが変えられるという期待は、薄い。
期待ができないと、関係も薄れてしまう気がします。
みんなの認識だけでは足りなくて、「変えられるんだ」という期待と、「変えていこう」という発信を、持てることが必要なのだと思います。
だから、露店という場には、可能性があるのだと思います。
共認→充足→期待 に、なりそうで。
倉田慈満
交換関係といえば、市場。
しかし、等価交換などは存在せず、常に一方的な利益の移動が前提となっている。
もっと言えば、交換関係にエネルギーを費やすほど、そのエネルギーは序列のトップに集約されていく収奪の関係となっており、庶民は働けど儲からず、という格差ばかりが拡大して行く。
しかし、ここでの大きなポイントは、消費の為の生産活動に大きなエネルギーが費やされるものの、常にその消費とは発散、すなわち新たなエネルギー(活力)を生み出すことなく、消え失せてしまうという事。
それが故に、市場拡大、あるいは私権闘争とは常に限られたパイの奪い合いにしかならず、必然的に拡大限界が訪れる事になる。
しかも、大量のエネルギーが一方的に消費されるだけなので、この奪い合いは時に国力や人々の活力をも同時に奪っていく、とても性質の悪いシステムであり、かつ環境破壊の第一原因になっている事も、ほぼ間違い無いと言えるだろう。
このような欠陥だらけのシステムに未だしがみ付いている国家には、最早展望は無い。
では、この不出来なシステムに変わるものとして提案されている協働関係とは?
協働関係を構築する為の条件は、現実の当事者となり、認識形成という生産活動に携わる事。
現実を対象化すれば、働く事も消費する事も、全ては生きる為に必要な活動であり、特定の誰かが担えば良い、という物ではない。
すなわち、交換関係の中で成立する2者対立の世界ではない事が前提となる。
さらに、協働によって生産されるエネルギーとは、共認充足や評価圧力の形成といった、常にお互いに還元されていくエネルギーである為、エネルギーが大きければ大きいほど、より大きな活力が生み出される仕組みとなって行く。
この双方向性こそが、私権や市場を越えたエネルギーとして、新しい社会統合システムを実現する軸となって行く。
なるほど、既に市場は誤魔化しの限界を向かえ、金融バブルの破綻、あるいはババを引くのは誰だ?と言わんばかりの出し抜き闘争に向かっているが、普通の人々にとっては既にどうでも良い事になっている感がある。そんなところに向っても、全く活力が出ない、という事を既に悟っているかのように。
しかし、黙っている限りは市場の誤魔化し・抜け駆け闘争は国家や庶民を蝕んでいく事は間違いない。だからこそ、認識闘争という闘いの舞台に立ち、大きな無限の協働エネルギーを創出して、市場を淘汰してやる必要があるのだろう。
川井孝浩
しかし、等価交換などは存在せず、常に一方的な利益の移動が前提となっている。
もっと言えば、交換関係にエネルギーを費やすほど、そのエネルギーは序列のトップに集約されていく収奪の関係となっており、庶民は働けど儲からず、という格差ばかりが拡大して行く。
しかし、ここでの大きなポイントは、消費の為の生産活動に大きなエネルギーが費やされるものの、常にその消費とは発散、すなわち新たなエネルギー(活力)を生み出すことなく、消え失せてしまうという事。
それが故に、市場拡大、あるいは私権闘争とは常に限られたパイの奪い合いにしかならず、必然的に拡大限界が訪れる事になる。
しかも、大量のエネルギーが一方的に消費されるだけなので、この奪い合いは時に国力や人々の活力をも同時に奪っていく、とても性質の悪いシステムであり、かつ環境破壊の第一原因になっている事も、ほぼ間違い無いと言えるだろう。
このような欠陥だらけのシステムに未だしがみ付いている国家には、最早展望は無い。
では、この不出来なシステムに変わるものとして提案されている協働関係とは?
協働関係を構築する為の条件は、現実の当事者となり、認識形成という生産活動に携わる事。
現実を対象化すれば、働く事も消費する事も、全ては生きる為に必要な活動であり、特定の誰かが担えば良い、という物ではない。
すなわち、交換関係の中で成立する2者対立の世界ではない事が前提となる。
さらに、協働によって生産されるエネルギーとは、共認充足や評価圧力の形成といった、常にお互いに還元されていくエネルギーである為、エネルギーが大きければ大きいほど、より大きな活力が生み出される仕組みとなって行く。
この双方向性こそが、私権や市場を越えたエネルギーとして、新しい社会統合システムを実現する軸となって行く。
なるほど、既に市場は誤魔化しの限界を向かえ、金融バブルの破綻、あるいはババを引くのは誰だ?と言わんばかりの出し抜き闘争に向かっているが、普通の人々にとっては既にどうでも良い事になっている感がある。そんなところに向っても、全く活力が出ない、という事を既に悟っているかのように。
しかし、黙っている限りは市場の誤魔化し・抜け駆け闘争は国家や庶民を蝕んでいく事は間違いない。だからこそ、認識闘争という闘いの舞台に立ち、大きな無限の協働エネルギーを創出して、市場を淘汰してやる必要があるのだろう。
川井孝浩
カウンター
カレンダー
最新記事
(01/24)
(01/24)
(12/11)
(12/10)
(12/08)
最新コメント
[04/03 神崎]
[11/18 埼玉新聞読者]
[11/18 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
ブログ内検索
最古記事
(09/02)
(09/11)
(09/12)
(09/13)
(09/14)
P R