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>D.もちろん、普通の人も少しは考えてみる。しかし、考えても→出来ない・難しい・苦しい・碌な事がないetc否定意識のオンパレードとなり、それが「考えたくない」「理論は敬遠」という拒絶に近い意識を生み出す。

答えを出せていないどころか、現代の多くの閉塞現象を産み出している旧観念(平等、権利etc.)に嫌気がさして、観念忌避に陥っている若者は少なくない。
さらには「実感することが大事(難しいことは不要)」などと倒錯思考と同じ構造で正当化さえされてしまう。

しかし、観念をまるっぽ否定してしまうのはもったいない。

>超越存在たる社会の構造に起因する危機や課題は、超越思考(構造認識)によってしか、把握することも解決することも出来ない。

>しかし、実践思考が主要に潜在思念を使う(内部意識も外部認識も)のに対して、簡単に実践できない⇒答えが見出せないが故に必要になる構造思考では、潜在思念の紡ぎ出す構造観念(主体や状況を構造化した観念)を使う。この普遍妥当する構造観念という位相は、社会(超越存在)を対象とする限り、必然的に求められる認識位相である。

 現代、最大の同類圧力は、もはや捨象しきれないほど積み上がった社会不全に対して「答えがほしい」というのがみんなの期待である。
そこに応えるためには、まず、社会の構造と人々の意識(欠乏)を正確に捉えることが不可欠となる。
 また、社会不全に対して答えを出していくためには、多くの人と課題共認していく必要がある。さらに成功体験を積み重ねを多くの人と共有するためには充足規範として言葉化⇒共認していく必要がある。
このように「みんな期待」に応えるためには、身の回りの人間を超えた対象=社会を構造的に捉え、成果を挙げる(実現)ためには広い対象と共認する必要がでてくる。そこにこそ「構造観念」の必要がある。

潜在思念の実践思考だけでは、せいぜい身の回りの人間に影響を与えるのが限界。その範囲を超えた広い対象の活力を引き上げ、成果も充足感も高めることができるのが観念化のもつ力なのだ。

可能性発のスタンスに立てば、みなの充足を高められる構造認識に素直に収束していくのであろう。
旧観念に対する忌避感から構造観念までも忌避してはもったいない。



清水昌広
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答えを出すためには、構造化が必要である。しかし、構造化というと、ついつい外部認識のみに意識が向かってしまう。しかし、本当の答えとは、外部認識(対象)と内部認識(欠乏、危機、課題)をつなぐ事が出来てこそのものなのだということを、今日改めて認識した。

金融危機に対しても、政府や金融機関が、国際会議を開いて声明を発表したり、対策として資本注入を行ったりしていた。恐らく、政府や金融機関は、これらの政策や対策によって、みんなに「大丈夫」と思い込ませようとしているのだろう。しかし、それらは人々の内部意識=欠乏に応える答えでは無いため、誰も可能性を感じることはできていない。

一方、下記を聞いた一般社会の人々は、可能性を感じることができたようだ。

>1.反米世界共認の拡がり  →アメリカ覇権の終焉
 2.反金貸し世界共認の拡がり→金貸し支配の終焉
   =私権原理から共認原理への真の転換の始まり

>この2点が見えれば、新秩序に向けて日本が何をなしていくべきか=「事実を伝えないマスコミに代わり、反米共認・反金貸し共認を形成していく」と、これからの市場がどのように転換し、その新市場に向けて、日本はどうしていけば良いか=「私権原理による金融経済から共認原理による実体経済への転換=”儲かるか否か”から”必要か否か”の新市場へ向けて、本物の生産力=技術力=組織力を構築していく」と言う大きな可能性が見えてくる。

これは、「私権原理から共認原理への真の転換」という、みんなが内部意識で感じている欠乏と、「アメリカ覇権の終焉」、「金貸し支配の終焉」という外部認識をしっかりと結びつけ、そこから答えを提示することができたからであろう。

今回の経済危機に対しても、表面的な経済政策だけでは答えは出せない。内部意識にまで踏み込んだ追求が必要なのだ。




匿名希望
・現在ほどグランドセオリーが必要とされている時代はないのでは?と思います。
社会全体がそういう空気になってきていると思います。
その理由を考えてみました。

・まず過去にグランドセオリーが必要と感じなくなったのは?
それは答えとなるべき構造認識が統合階級の商売道具となりはてたからであり、その結果人々は思考停止するようになったからである。
>・・・’70年以降、思想に対する無関心が一気に蔓延してゆく。そして’90年、社会主義の破綻とバブルの崩壊によって、遂に誤ったor無力な「構造認識」に対する不信が顕在化し、拒絶視されるに至った。・・・・<構造認識の現況2 

・さらに未だに《学者たち》がその答えが出せないのは?
学者と見られる人は、構造認識の一端を聞いた後によくこう尋ねてきます。『ところでこの認識は一体誰が書いているのですか?またどこで発表されているのですか?』
私はその質問に答えながらこう思いました。彼らは学会や講演会などの土俵で、どう評価されるかがすべてで、社会問題が本当に解決できるかは二の次なのであると。そしてそうなるのは自分の研究成果や記事が大事で、答えが出す必要も感じていない傍観者であるからだと。

・現在人々がグランドセオリーを必要としている理由?
>全文明史を覆すほどの大転換期だとすれば、歴史を遡って原始人類やサル社会や生物原理にまで目を向ける必要も出てくると思われます。しかし、それらは大部分が未明の領域であり、その解明の為には、固定観念に囚われることなく事実を素直に認める柔軟な頭と、大胆な仮説の提起が何よりも大切になります。<大転換期の予感と事実の追求

・止まらない環境破壊、短絡殺人の増加などの社会問題、そして現在の金融不安に対してどうしたらいいのか。
これほどの不全に対しては人々はもはや傍観者ではいられない。
さらに答えを出せない《学者たち》には期待できないこともわかっている。(学者全員がそうだとは思いませんが・・・)

・でどうするか?
今までの支配的な観念(無数の常識)に疑念の目を向け、生物原理まで遡って歴史構造の事実を解明する。
現実の真っ只中を生きる人々が必要とするのは、この新たな《使える》事実の認識体系の再構築である。
だから事実の新しい認識体系としてグランドセオリーが必要とされているのだと理解しました。




志水満
>現在のアカデミズム(学会など)や、マスコミに登場する学識、文化人の言動を見ていると、いかにグランドセオリー(あるいは統合理論)が無視されているかがよく分かります。(「新たなグランドセオリーとしての実現論2-傍観者、あるいは引きこもりとしてのアカデミズム」)

なぜ現在のアカデミズムは、社会の“統合”を捨象した傍観者ばかりになってしまったのか?

まず、彼らの源流は古代私権統合国家の「神官」にある。「神官」は、王の命に従い、国家を観念統合するための「観念」を作り出し、庶民を染脳する役割を与えられていた。(守護神信仰など・・・)
彼らは、国家によって身分を与えられ、それを職業とする特権階級(プロ)である。従って、当然の成り行きとして、飯を食うために己の特権=身分の保守を第一義に考えるし、そもそも染脳=騙し・誤魔化しのための観念能力なわけだから、社会の当事者には成り得ず、必然的に傍観者となっていく。

庶民はどうかと言えば、彼らも本質的には奴隷として統合階級の支配を受け、依存する存在であることと、私権の強制圧力によって目先の私権課題・自分課題に縛り付けられていることから、同様に社会傍観者と成らざるを得ない。

>社会に関する諸学は、極めて広大な領域を覆っているので、細分化はまぬがれないという部分があると思います。(「新たなグランドセオリーとしての実現論1-グランドセオリーとは何か」)

やがて、文明の発達に伴い認識領域が広がると、必然的に諸学問は専門分化してゆく。しかし、元々特権身分の保守にしか意識が向かない構造である以上、己の専門分野にタコツボ化するのも必然であり、結果グランド・セオリーを追求する者など出てくるはずもない。
因みに、これに近い構造を持つのが「官僚制度」であり、「特権身分第一」→「自己保身」→「傍観者」の基本構造ゆえ、まっとうに社会を統合することなどできない。

そして、1970年の貧困の消滅以降、私権の強制圧力は衰弱し、もはや目先の私権課題に囚われる必要は無くなった。
その結果、我々・・・普通の庶民の間では社会的関心~社会の当事者としての意識が急速に高まりつつある。

こうした流れに乗り遅れ、阻害するのが、現代のアカデミズム・・・学者や文化人であるが、傍観者としてタコツボ化を進めれは進めるほど、庶民の実感からズレた彼らの独りよがりの言説は無視され、影響力を失っていくものと思われる。




こうた
「08年 金融破綻と10年後~銀行国有化から国家紙幣を経て管理市場へ」は、数多くの新認識と可能性が提示され、非常に充足した内容だった。
その内容は詳細にレポートされているが、最大のポイントは、以下の2点と言えるだろう。

 1.反米世界共認の拡がり  →アメリカ覇権の終焉
 2.反金貸し世界共認の拡がり→金貸し支配の終焉
   =私権原理から共認原理への真の転換の始まり

この2点が見えれば、新秩序に向けて日本が何をなしていくべきか=「事実を伝えないマスコミに代わり、反米共認・反金貸し共認を形成していく」と、これからの市場がどのように転換し、その新市場に向けて、日本はどうしていけば良いか=「私権原理による金融経済から共認原理による実体経済への転換=”儲かるか否か”から”必要か否か”の新市場へ向けて、本物の生産力=技術力=組織力を構築していく」と言う大きな可能性が見えてくる。

以上の内容を営業先で展開したところ、これまでにない大きな反応を得た!

金融危機の中、ネットも含めて経済ニュースは日々飛び交っているが、あらゆる情報は「点」のままであり、そのような「点」を追いかけても、それぞれの繋がり、そして全体としてどのような構造になっているかは絶対に解らない。そのような状況では可能性を掴むことなどできず、不安になるばかり。
しかし、あらゆる情報の集約→構造化によって生み出された構造認識を持ってすれば、全ての「点」が繋がった先に、どうしていけば良いかと言う実現可能性が生み出される。

得られた大きな充足感、そしてその内容を展開した先で得られたかつてない反応は、まさに「点」と「点」が繋がった、構造化の先に見えた実現可能性への反応だろう。
金融破綻問題を通して、構造認識こそが、実現可能性を導くのだと言うことを、改めて強く実感している。





西谷文宏
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