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>このまつり場(認識形成の場)は、参加する人々が増えるにつれて、科学から芸能までを包摂した人類の鑑(かがみ。知の結晶)に成長してゆく。そして、それは最終的には万人をその下に収束させた人類の最先端機能となり、同時に人類の最大の圧力源=活力源となる。
そして、それこそが、新しい社会統合機構(の中核)となる。
認識形成サイトから統合サイトへと脱皮した新しい社会統合機構では、言語化された投稿(=認識)が評価対象となる。ただ、次のような疑問が湧くのも尤もではある。
つまり、投稿=言語によるコミュニケーションだけで、果たして新たな事実認識を形成し社会統合化していけるのだろうか、という点である。
例えば職人が長い修練を経て会得した身体知、優秀な開発者が時に閃きとして発現させる暗黙知など、言語化し難い知=観念は実は数多あると予想される。
実際、IT分野ではナレッジマネジメントと称し、出来る営業マンの業務内容を皆で共有し営業力を高めようとするソリューションの売込みが以前より行なわれている。しかし、当の営業マンが自身の優位性をライバルに知られる事に拒否反応を示すという事の他に、業務内容をオープンにし真似をしようとも、それは表面的な形式知=言語化された部分だけである為、多様な場面での応用が利かず簡単に営業力を高めることには繋がらないといった話も聞く。
更に言葉は地域性が大いに反映されており、世界事象の分節方法が異なる為に概念の有無や分解能自体が大きく異なってくる。卑近な例でいえば太陽光線のスペクトルを日本では7色と捉えるが、英語では6色で区切り、西アフリカのリベリアの言語では2色にしか区切らないといった違いがある。
では、この様な書き言葉によるコミュニケーション上の制約をどの様に捉えていけばよいのか。
一つは言葉以前のもの(=語り難いもの)だとしても、出来る限り潜在思念を駆使して言語化し構造化しようと試みることだろう。事実であれば必ず捉え得る、そのように真摯に向き合う中でこそ新しい認識が生まれるといえよう。
いま一つは、やはり体感共認、対面共認といったものを絡めていくことである。その在り方の1つが露店やネットサロン、なんでや劇場での対話であり、インターネットサイトだけでは十分に伝わり難いコミュニケーションの壁を越えていく術といえる。
逆に言えば、それ位事実に迫るとは奥深いものともいえる。分かった気になどならず、素朴な疑問、捨象していた事実にどんどん向き合ってく。それこそが本物のフィロソフィである。
松岡隆
そして、それこそが、新しい社会統合機構(の中核)となる。
認識形成サイトから統合サイトへと脱皮した新しい社会統合機構では、言語化された投稿(=認識)が評価対象となる。ただ、次のような疑問が湧くのも尤もではある。
つまり、投稿=言語によるコミュニケーションだけで、果たして新たな事実認識を形成し社会統合化していけるのだろうか、という点である。
例えば職人が長い修練を経て会得した身体知、優秀な開発者が時に閃きとして発現させる暗黙知など、言語化し難い知=観念は実は数多あると予想される。
実際、IT分野ではナレッジマネジメントと称し、出来る営業マンの業務内容を皆で共有し営業力を高めようとするソリューションの売込みが以前より行なわれている。しかし、当の営業マンが自身の優位性をライバルに知られる事に拒否反応を示すという事の他に、業務内容をオープンにし真似をしようとも、それは表面的な形式知=言語化された部分だけである為、多様な場面での応用が利かず簡単に営業力を高めることには繋がらないといった話も聞く。
更に言葉は地域性が大いに反映されており、世界事象の分節方法が異なる為に概念の有無や分解能自体が大きく異なってくる。卑近な例でいえば太陽光線のスペクトルを日本では7色と捉えるが、英語では6色で区切り、西アフリカのリベリアの言語では2色にしか区切らないといった違いがある。
では、この様な書き言葉によるコミュニケーション上の制約をどの様に捉えていけばよいのか。
一つは言葉以前のもの(=語り難いもの)だとしても、出来る限り潜在思念を駆使して言語化し構造化しようと試みることだろう。事実であれば必ず捉え得る、そのように真摯に向き合う中でこそ新しい認識が生まれるといえよう。
いま一つは、やはり体感共認、対面共認といったものを絡めていくことである。その在り方の1つが露店やネットサロン、なんでや劇場での対話であり、インターネットサイトだけでは十分に伝わり難いコミュニケーションの壁を越えていく術といえる。
逆に言えば、それ位事実に迫るとは奥深いものともいえる。分かった気になどならず、素朴な疑問、捨象していた事実にどんどん向き合ってく。それこそが本物のフィロソフィである。
松岡隆
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対面共認の世界を超えた社会空間になれば、社会を統合するうえで「評価指標」が必要になり、その評価指標をもとにした場のシステムが必要になる。
それが、力の序列原理で国家が強力に統合されている時は、その評価指標は「身分」であり、官僚システムである。
市場社会になると、評価指標として「お金」が登場し、中央銀行を中心とした銀行システムが市場社会を秩序化して統合してきた。
そして、’70年に貧困が消滅して序列原理が崩壊し身分の評価指標が無効になり、そして今やお金という評価指標も無効になってきた。
もはや私権時代の評価指標では社会を統合する評価指標になりえない。
そして、私権原理から共認原理に変われば、自ずと評価指標は『人⇒人数』しかない。
しかし、新しい評価指標の『人数』も、それで社会を統合する場が共認しきれず、状況は古い評価指標とシステムが形骸化しながらも残り続けている。(例えば、新しい教育システムの場がないゆえに学校が形骸化しながらも残る)
とすると、新しい評価指標は明確なのだから、残るはそれにより社会を統合する共認形成の場が構築されれば一気に、私権原理から共認原理に変わる社会に進む。
だから、私たちの役割は、その場である認識形成サイトに協働者を誘導する発信をして新しい場の共認域を広げ、協働者と一緒に新しい認識を紡ぎ、新しい評価指標に基づく社会統合のシステムを構築することになる。
麻丘東出
それが、力の序列原理で国家が強力に統合されている時は、その評価指標は「身分」であり、官僚システムである。
市場社会になると、評価指標として「お金」が登場し、中央銀行を中心とした銀行システムが市場社会を秩序化して統合してきた。
そして、’70年に貧困が消滅して序列原理が崩壊し身分の評価指標が無効になり、そして今やお金という評価指標も無効になってきた。
もはや私権時代の評価指標では社会を統合する評価指標になりえない。
そして、私権原理から共認原理に変われば、自ずと評価指標は『人⇒人数』しかない。
しかし、新しい評価指標の『人数』も、それで社会を統合する場が共認しきれず、状況は古い評価指標とシステムが形骸化しながらも残り続けている。(例えば、新しい教育システムの場がないゆえに学校が形骸化しながらも残る)
とすると、新しい評価指標は明確なのだから、残るはそれにより社会を統合する共認形成の場が構築されれば一気に、私権原理から共認原理に変わる社会に進む。
だから、私たちの役割は、その場である認識形成サイトに協働者を誘導する発信をして新しい場の共認域を広げ、協働者と一緒に新しい認識を紡ぎ、新しい評価指標に基づく社会統合のシステムを構築することになる。
麻丘東出
今日のサロンでは、農業に携わっている人も交えてこれからの農業の可能性について話し合ってみた。
「超国家・超市場論13 人類の新たな活力源=圧力源」 四方勢至
>また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、環境その他の人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。
貧困が消滅して以降、それまでのように生きるための食糧を生産するという課題は希薄になっていく。食べるだけならば、世界中から安く農産物が輸入されてくる。人件費が日本の1/10、あるいは規模において数百倍以上の大規模農業の効率性と比較すれば、単純にコスト競争では歯が立たない。しかし、多くの人はだからといって国内の農業をやめてしまっていいわけではないと感じている。
しかし、そこが鮮明になっていないが故に、結局は安い商品に淘汰され、結果として利益もほとんど残らず、農業は儲からないというようなマイナスイメージとなってしまっている。
ただ、実際に農業をやっている方の意見としては、儲からないのは市場原理の中、価格競争圧力によって低価格構造から脱しきれなかったり、豊作や不作で需給バランスが崩れ価格が大きく乱高下することも計画的に経営を続けていくことが難しい原因となっているとのこと。
要は、安定した価格(別に高額でなくともよい)で継続的に購入してくれる顧客さえいれば、農業は今でも充分に成立するはず。そのためには安定した販路を構築する必要があるわけですが、そこで評価されるのは商品そのものというよりは、作り手の姿勢であり、その背後にある状況認識や課題設定にあるのではないか。
その状況認識と課題共認によって追求され導き出された「答え」に人々は共鳴し、その作り手の事業を応援したくなる(つまりは、農産物を購入する事で)。そういった信任関係にまで高められなければ、結局は価格が安いという「金銭的メリット」だけで様々な小売店や直売ネットと比較され、安定した関係にはいたらない。
とすれば、信認に基づく販路開拓とはすなわち、「農業を取り巻く社会状況認識→課題共認→答えの追求→実現態としての農業事業」という認識を発信し、その内容に共鳴共感し協働してくれる人たちの共認域を拡大していくことと同義なのではないか。
よって、もっとも重要なのは「何の為に農業をやっているのか」「社会にとって何故農業が必要なのか」への答えなのではないかと思います(商品の売り方や営業方法などはその前提の上に議論されるべき課題)。
>つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
上記の観点に立って考えれば、農業とは人類が狩猟採集生産に続いて営み続けてきた本源的な事業であって、近代になってから発展した諸事業(工業品=車や電化製品、印刷やマスコミ業、外食産業等)とは歴史が違う。人類の集団にとって切っても切り離せない食糧生産を担う事業であり、これは貨幣によって取引されるはるか以前から存在していたものであるといえる。
例えば、医療や教育、介護などと同じように市場原理だけでは統合できない集団課題という位相にあるのではないか。だから、市場原理に任せるだけでは、需給バランスの変動によって価格が大きく下落や高騰したりするといった問題構造を常にはらんでしまう。
では、これは国によって管理すればいいのかというとそういうわけではない。現在の医療や教育、介護と同様に財政悪化の要因となるだけだと考えられる。つまりは、「(集団にとって)必要か否か?」というみなの共認圧力(評価圧力)のもとに晒されなければ、品質低下や非効率、あるいは価格吊り上げなどの問題を防げない。また、共認圧力(外圧)不在では携わっている人の活力(内圧)も上がらない。
農業はモノ(食糧)の生産業ではなく、それを行なうことを通じて活力を再生していく「活力再生事業(=集団再生事業)」と同じなのではないか。その萌芽は、露店においてこれからの社会に必要とされる仕事の筆頭として介護や農業が挙げられたり、若者や定年後の人たちの就農意識の高まりにも見られるように思う。
農業とは、人類や集団にとっては不可欠なものであって、事業そのものが自然に親しみ(自然循環系を再生し景観や保水力を維持するという点ではもっとも有効な環境保全=環境対策ともいえる)、そして種を蒔いて収穫するという人類の本源的な充足に直結し、その共同作業を通じてお互いの共認充足も得られ、また子供や老人というように世代を超えてともに働く(役に立つ)実感も得られ、何よりも命にとって必要な日々の糧をまかなっていく余業をもって代えがたい本源的な営みなのではないかと思います。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
市場原理の統合限界(価格価値以外の安全性の問題、食糧自給確保という国家防衛、近代工業型農業による土壌汚染=化学肥料や農薬多用)が顕在化し、このままでは永続できないというところが顕在化しつつある。市場原理にそぐわない農業こそ、市場原理に代わる共認原理(「自分からみんなへ」「必要か否か?」等)によって運営することが求められている「社会事業」なのではないかと思います。
浅野雅義
「超国家・超市場論13 人類の新たな活力源=圧力源」 四方勢至
>また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、環境その他の人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。
貧困が消滅して以降、それまでのように生きるための食糧を生産するという課題は希薄になっていく。食べるだけならば、世界中から安く農産物が輸入されてくる。人件費が日本の1/10、あるいは規模において数百倍以上の大規模農業の効率性と比較すれば、単純にコスト競争では歯が立たない。しかし、多くの人はだからといって国内の農業をやめてしまっていいわけではないと感じている。
しかし、そこが鮮明になっていないが故に、結局は安い商品に淘汰され、結果として利益もほとんど残らず、農業は儲からないというようなマイナスイメージとなってしまっている。
ただ、実際に農業をやっている方の意見としては、儲からないのは市場原理の中、価格競争圧力によって低価格構造から脱しきれなかったり、豊作や不作で需給バランスが崩れ価格が大きく乱高下することも計画的に経営を続けていくことが難しい原因となっているとのこと。
要は、安定した価格(別に高額でなくともよい)で継続的に購入してくれる顧客さえいれば、農業は今でも充分に成立するはず。そのためには安定した販路を構築する必要があるわけですが、そこで評価されるのは商品そのものというよりは、作り手の姿勢であり、その背後にある状況認識や課題設定にあるのではないか。
その状況認識と課題共認によって追求され導き出された「答え」に人々は共鳴し、その作り手の事業を応援したくなる(つまりは、農産物を購入する事で)。そういった信任関係にまで高められなければ、結局は価格が安いという「金銭的メリット」だけで様々な小売店や直売ネットと比較され、安定した関係にはいたらない。
とすれば、信認に基づく販路開拓とはすなわち、「農業を取り巻く社会状況認識→課題共認→答えの追求→実現態としての農業事業」という認識を発信し、その内容に共鳴共感し協働してくれる人たちの共認域を拡大していくことと同義なのではないか。
よって、もっとも重要なのは「何の為に農業をやっているのか」「社会にとって何故農業が必要なのか」への答えなのではないかと思います(商品の売り方や営業方法などはその前提の上に議論されるべき課題)。
>つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
上記の観点に立って考えれば、農業とは人類が狩猟採集生産に続いて営み続けてきた本源的な事業であって、近代になってから発展した諸事業(工業品=車や電化製品、印刷やマスコミ業、外食産業等)とは歴史が違う。人類の集団にとって切っても切り離せない食糧生産を担う事業であり、これは貨幣によって取引されるはるか以前から存在していたものであるといえる。
例えば、医療や教育、介護などと同じように市場原理だけでは統合できない集団課題という位相にあるのではないか。だから、市場原理に任せるだけでは、需給バランスの変動によって価格が大きく下落や高騰したりするといった問題構造を常にはらんでしまう。
では、これは国によって管理すればいいのかというとそういうわけではない。現在の医療や教育、介護と同様に財政悪化の要因となるだけだと考えられる。つまりは、「(集団にとって)必要か否か?」というみなの共認圧力(評価圧力)のもとに晒されなければ、品質低下や非効率、あるいは価格吊り上げなどの問題を防げない。また、共認圧力(外圧)不在では携わっている人の活力(内圧)も上がらない。
農業はモノ(食糧)の生産業ではなく、それを行なうことを通じて活力を再生していく「活力再生事業(=集団再生事業)」と同じなのではないか。その萌芽は、露店においてこれからの社会に必要とされる仕事の筆頭として介護や農業が挙げられたり、若者や定年後の人たちの就農意識の高まりにも見られるように思う。
農業とは、人類や集団にとっては不可欠なものであって、事業そのものが自然に親しみ(自然循環系を再生し景観や保水力を維持するという点ではもっとも有効な環境保全=環境対策ともいえる)、そして種を蒔いて収穫するという人類の本源的な充足に直結し、その共同作業を通じてお互いの共認充足も得られ、また子供や老人というように世代を超えてともに働く(役に立つ)実感も得られ、何よりも命にとって必要な日々の糧をまかなっていく余業をもって代えがたい本源的な営みなのではないかと思います。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
市場原理の統合限界(価格価値以外の安全性の問題、食糧自給確保という国家防衛、近代工業型農業による土壌汚染=化学肥料や農薬多用)が顕在化し、このままでは永続できないというところが顕在化しつつある。市場原理にそぐわない農業こそ、市場原理に代わる共認原理(「自分からみんなへ」「必要か否か?」等)によって運営することが求められている「社会事業」なのではないかと思います。
浅野雅義
>共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。
人類は進化史上の直接的な祖先である原モグラ時代(約5500万年前)の逆境期に対応すべく共認機能を育み、カタワの猿となった500万年前には更に凄まじい生存圧力の中で、自然との応合を試み観念機能を獲得し高めてきた。
こうした進化過程を持つ人類=共認動物にとって、皆の期待・応望(応合)の中に生きるとは、即ち可能性発・充足発を生きることである。
つまり、最先端機能である観念機能を駆使して皆の事実課題に迫り、新たなる認識を示し評価される、その行為自体に喜びがあり活力が湧き上がるという善循環に至る。
従って自身が旧い私権原理に囚われず、また自身のうちにある共認機能に素直に向き合う限り、そこに真の敗者はいない。
ただ、観念機能をフル稼働させて皆の課題に応えられているか、といった内省がより求められることも事実であろう。
自分の仕事は果たしてより多くの人、より長期的な視座からの真っ当な期待(=解決すべき事実課題)を捉え、しっかりと応えられているだろうか。仕事のあり方、日々の生活を省みて、もっともっと変えていかねばと心に誓わずにおれない。
松岡隆
但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。
人類は進化史上の直接的な祖先である原モグラ時代(約5500万年前)の逆境期に対応すべく共認機能を育み、カタワの猿となった500万年前には更に凄まじい生存圧力の中で、自然との応合を試み観念機能を獲得し高めてきた。
こうした進化過程を持つ人類=共認動物にとって、皆の期待・応望(応合)の中に生きるとは、即ち可能性発・充足発を生きることである。
つまり、最先端機能である観念機能を駆使して皆の事実課題に迫り、新たなる認識を示し評価される、その行為自体に喜びがあり活力が湧き上がるという善循環に至る。
従って自身が旧い私権原理に囚われず、また自身のうちにある共認機能に素直に向き合う限り、そこに真の敗者はいない。
ただ、観念機能をフル稼働させて皆の課題に応えられているか、といった内省がより求められることも事実であろう。
自分の仕事は果たしてより多くの人、より長期的な視座からの真っ当な期待(=解決すべき事実課題)を捉え、しっかりと応えられているだろうか。仕事のあり方、日々の生活を省みて、もっともっと変えていかねばと心に誓わずにおれない。
松岡隆
○指揮系統を成立させてきた基盤は大きく2つある
一つは、この指揮系統に従わないと痛い目に会う、極端な場合は死に到るかも知れないという、物理的な力(私権の強制圧力)です。
もう一つは、指揮系統を遵守することが集団の中の成員としての勤めであるという、その集団の成員が共通に抱く意識=「共認」です。
今や私権の衰弱により、指揮系統を守らねばならない物理的な強制力は実は殆ど存在しません。
むしろ国家そのものがタレこみを奨励さえする時代です。
指揮系統に背くと痛い目に会うという恐怖を抱く必要は、国家や自治体を支える官僚にさえ殆ど無くなっているはずです。
とすれば未だに指揮系統が残存する基盤は、もう一つの「共認」です。
従来のこの共認は私権による強制共認ですが、物理的な強制力が衰弱した以上、自分の頭=認識を、旧来の共認(旧観念)から事実に基ずく「新認識=構造認識」に切り替えたらしまいです。
「残る観念は、頭で塗り替えたら終い」
とすればこの新認識を獲得する人々が増えていき、この「新認識」が新しい世の中の「共認」になって行けば自ずと国家(官僚)もその新認識に染まらざるを得ず、指揮系統は崩れていくことになるはずです。
庄恵三
一つは、この指揮系統に従わないと痛い目に会う、極端な場合は死に到るかも知れないという、物理的な力(私権の強制圧力)です。
もう一つは、指揮系統を遵守することが集団の中の成員としての勤めであるという、その集団の成員が共通に抱く意識=「共認」です。
今や私権の衰弱により、指揮系統を守らねばならない物理的な強制力は実は殆ど存在しません。
むしろ国家そのものがタレこみを奨励さえする時代です。
指揮系統に背くと痛い目に会うという恐怖を抱く必要は、国家や自治体を支える官僚にさえ殆ど無くなっているはずです。
とすれば未だに指揮系統が残存する基盤は、もう一つの「共認」です。
従来のこの共認は私権による強制共認ですが、物理的な強制力が衰弱した以上、自分の頭=認識を、旧来の共認(旧観念)から事実に基ずく「新認識=構造認識」に切り替えたらしまいです。
「残る観念は、頭で塗り替えたら終い」
とすればこの新認識を獲得する人々が増えていき、この「新認識」が新しい世の中の「共認」になって行けば自ずと国家(官僚)もその新認識に染まらざるを得ず、指揮系統は崩れていくことになるはずです。
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