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>「関わらない」としてしまっていることに、「これまでは」私も残念な想いをしていました。でも08年金融危機が顕在化した今、多くの人が「関わらない」⇒勉強に向かい始めたことを感じています。
(『09年 勉強収束⇒ネットによる共認形成の場への参加が加速する!?』)

関わらないでいられないですものね。勉強しなければならない=勉強したい。前者は義務感じゃなくて必要感です。後者は必要感から充足感へと繋いでいます。イコールになると境界が曖昧になり一体化して地肉化します。金融危機は関わらないでやり過ごすことの出来ないほどの危機を新市場の必要にまで押し上げる圧力を生じさせてくれました。必要なことをやってみたときの充足感はこれまでの限定的な関わりから得られる充足感よりも限りなくでっかいですよね。

何やれば良いのだろう?→これやれば良いのかも。

やりたいこと=農業、やりたいこと=勉強、やりたいこと=男女別学
この一ヶ月だけでもるいネットではこれやれば可能性がありそうと思える投稿が山ほど出ています。新聞やテレビと全然違う。みんな現場で頑張っている人々だからこそ現場のプロをもうならせるような投稿ができるんだと思います。

祭りはどなたが太鼓をたたいてもみんなノリノリです。ここにきて投稿=太鼓の音が胸に響き渡ります。プロしか出演できなかったのが素人でも出演できるようになった。この知らず知らずのうちの共認支配からの解放は底知れぬ活力の回復に直結します。みんなに役立つためだったら自分のためだけでないから○○ができる→関わって良いし、しゃべって良いしという場面が増えます。関わらないで本当は我慢していたのならば我慢しなくて良いということにもなります。





佐藤英幸
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>金融破綻などにより、
不安は広まっているものの、
それに対する行動は人それぞれになり、
その多くは現在の経済体制を前提条件とした
行動になるのではないかと思う。

>るいネットでは、市場原理、近代思想そのものを
旧観念として、共認革命の必要性へと結びついているけれども、
現時点ではその前提の上に政府も企業も動いている中で、
どう共認により変わっていけるのか。

私権による統合の結果が金融破綻も含め、様々な側面で大きな社会不全として顕在化しているのはご存知の通りです。
ですから、既成の観念の延長で対処しても、何ら改善していかないのは自明だと思います。

また大衆の意識も政治には期待していないし(首相や政権は誰がとっても変わらないという諦めの意識の蔓延)、世論という共認を支配出来うるマスコミにさえも信憑性はガタ落ちの状態です。誰もが活力衰弱してしまった状況にあると思います。

ですから、これだけの社会不全が表面化し、これらを打開する新しい答え(認識)に対する欠乏が顕在化しており、例えばちまたの書店にあふれるやる気を出すためのハウツー本が無数に並んでいることもその一つでしょう。



みんなが求める、これらの社会不全を突破するあたらしい認識は

>人類の最先端機能は観念機能であり、従って答え(に近い認識)こそが、人々の意識を統合すると共に、その答えが人々に活力を生み出し、その認識が人々の全ゆる行動の指標(モノサシ)となるからである。従って、答え(となる認識)は、まぎれもなく最先端価値であり、その下に全てを収束させる統合価値ともなり、全ゆる行動を導く指標価値ともなる。


しかしそのためには認識競争の圧力と、認識形成の場が必要となります。

>人類の最先端機能は、最末端まで貫く同類闘争の圧力を大前提にしており、それなしには成立しない。
では、大前提となる次代の同類闘争圧力とは何か?それは既に、前稿で明らかにされている。即ち、人々の認識欠乏に応える認識競争の圧力こそ、まぎれもなく新たな同類闘争の圧力である。この認識闘争の圧力が最末端をも貫く圧力にまで成長すれば、それに応える『認識闘争の場』は人類の最先端機能となり、全てをその下に収束させた社会統合機能となる。
つまり、私権闘争・掠奪闘争を止揚した次代の人類の最先端機能とは、最先端の認識闘争=評価競争の場となる『認識形成の場』そのものに他ならない。

こうして初めて、共認を基盤とした社会を統合できる機能が成立することになると思います。

だからこそ、
>変化に期待はするけれども、
もう一歩、
興味のある人は参加するし、興味のない人とは壁がある状態から、
壁を薄くしていく工夫が生まれていく必要があるのではないかと感じる。

まつり場を形成するための盛り上がりが必要であるし、そのための投稿が大きな役割を担っています。にもあるように、実感をともなったものや成功体験などを含め、実現可能性や充足イメージを伝えていくことが必要なのでしょうね。






匿名希望
マスコミや学者からは到底出てこないような、大胆な仮説や新しい切り口を、いつも提示するためには、とても地道で細やかな思考の積み重ねによって、生まれています。

>皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます。

新しい認識といっても、妄想や独り言ではなく、現実に使える、あるいは(固定観念に囚われてさえいなければ)誰もが認めることの出来る新しい認識(構造や切り口)は、こうやって、少しずつ少しずつ、何度も何度も、論理整合性の検証を繰り返すことでしか創り出せません。
(そう考えると、生み出すというより、磨き続けるといった方がいいかもしれません。)

でも、だからこそ、大胆で初めて聞く言葉(構造)であるにもかかわらず、「そうそう!」「分かるぅ♪」「やっぱりそうか☆」と、すでに知っていたことのように、私たちの心と一体化するんだと思います!!





西知子
>性の再生可能性は「自我の性から本源の性への転換」しかないが、今現在は「自我の性のリセット中」という段階であり、しかも、私婚制度が残存する以上、この転換は容易ではない。従って、この経済恐慌は、決して一過性のものではなく、性意識の転換という最基底のパラダイム転換が起こるまで、物的市場は縮小を続けるしかない。

08年年末のなんでや劇場では、「商品市場の背後に性市場あり」「経済恐慌の最基底部にあるものは性の衰弱」の認識の下、性の衰弱現象から「自我の性から本源の性への転換」まで深く掘り下げて議論された。このなんでや劇場に参加して最も驚いたのは、参加者の恋愛、より根源的には「性」への意識が大きく変化していることである。

実現論及びるいネットでは、人類の最大の活力源である「性」の追求及び、集団・社会の統合システムとも言える「婚姻制度」について、徹底的に追求を行ってきた。
その追求の中から見えてきた事実は、現在我々が唯一絶対と信じ込んでいる1対1の婚姻制度=1対婚制度は、たかだか私権時代3000年程度の歴史しかないこと、そして、それ以前の人類は、自我・私権に基づく1対婚制度ではなく、集団全員が「性」を通して活力を得られる婚姻制度(首雄集中婚又は総偶婚制度 詳細は実現論1_8_03参照)によって集団を統合しており、そこでは”自分発”の自我の性ではなく、”相手発”の本源の性によって、文字通り皆が充足を得ることができていたことである。取り分け、日本の農村部においては戦後直後まで、この本源の性に基づいた婚姻(夜這い婚)が行われていた。

これらの認識は、市場原理・私権制度の先鋭とも言える識者・マスコミによって追求され、語られることは決してないが、在野の探求者達のフィールドワークや、数々の未開部族の研究によって紡ぎあげられた、紛れもない「(歴史)事実認識」である。

これらの「性」「婚姻制度」に関する事実認識は、現在の常識である「1対婚制度」及び「恋愛」に真っ向から反しているので、「事実追求」のスタンスに立たず、「価値意識」に捉われると、往々にして価値対立を招く。
ほんの数年前までは、性が衰弱したとは言え、恋愛観念が強固に残存していたので、価値対立に陥るケースは少なくなかった。

しかし、今回の年末なんでや劇場に参加した人々(初めて参加した人を含む)の反応は全く違った。価値対立を起こす人など皆無に等しく、皆がその事実認識に驚き、そして可能性を感じていた。劇場の後のサロンでの語らいでも、「婚姻の話しは凄く面白かった」「もっと深く知りたい」「本源の性に可能性を感じる」と言う声が多数聞かれた。

なんでや劇場に参加した人は、日本全体から見ればごくごく一部であるが、その多くは路上=社会空間で知り合った、見ず知らずの人々であり、ある意味でアトランダムに抽出された人々が皆、「本源の性」に可能性を感じたことは、真に注目に値する意識潮流である。

もはや人々は、自我の性・恋愛や1対婚制度には可能性がないことを、潜在的に強く感じているのだろう。今や30%に及ぶ離婚率、恋愛に冷めた若者の意識、セックスレス現象等を見ていれば、誰もがその限界性を感じ取っていても、全く不思議はない。
潜在思念で、その限界性を感じ取っているが故に、事実認識=新観念を得ることで、一気に可能性収束したのだと感じた。

市場が破綻し、性がとことん衰弱した現在、改めて人類本来の「性」のあり様と「婚姻制度」の歴史事実を追求し、事実認識を広めていくことが求められている、そしてそれが「性の再生」の可能性を開いていく、と強く感じたなんでや劇場だった。




西谷文宏
2008年を通じての若者の意識変化の最大のトピックは「本を読む大学生・20代の社会人が増えた」ことだった。
2007年末くらいから、論理的思考トレーニングやマインドマップに代表される「ものの考え方」や「記録の仕方」などのHowTo本が本屋にはたくさん並び、「読んだことがある」「興味がある」という若者に出会った。
そして、2008年春過ぎからの原油価格高騰、食糧価格高騰と夏~秋の金融危機を受けて、経済の本を読む若者が激増していく。現在の危機はどういったものなのか?を解説している(と思われる本)を読む人が増加していった。

本を読む彼らは「社会人である(社会に出る)限りは、これくらいのことは知っていないとまずい」とひしひしと感じている。特に誰に言われたわけでもなく、「社会のことを知らなければ」と彼ら自身が感じている。

「親の期待に応えたい」と成長してきた彼らも、高校生・大学生・社会人と成長する過程で捉える期待の範囲を伸ばし、社会の役に立ちたいと次第に思い始めていく。この社会的な役割欠乏から「少しでも社会のことを知りたい」と、現在の混迷する社会状況を鮮明に解説してくれていそうな本を手に取る。

しかし、そのような本を読む彼らからの感想は、「読めば読むほど混乱する」「結局、何が問題なのかが分からなくなっていく」という言葉が多い。
経済について書いてある新刊本に代表される「社会本」は、(専門家が書いているがゆえに)ある一面的な事実とそれについての解説が書かれているに過ぎない。ある本だけでスッキリする訳も無く、だからといって他の本に手を出せば、全く違う側面からの解説が書かれているため、読めば読むほど混乱していく。

一方、潜在思念発の実践行動における具体的な方法論が記述されているHowTo本は、旧理論が展開されている本よりは役に立つ。しかし、あくまで市場社会の中で(また、そこに放り込まれている企業の中で)どうやって効率よく生き残っていくかを主軸に書かれており、この混乱し続ける社会をどう捉えるかについて書かれているわけではない。

結局、若者の社会的課題収束を助ける本は、ほとんど存在しない。社会本もHowTo本も「社会的に役に立ちたい。そのための能力を身に付けたい」という彼らの欠乏の半分ずつしか満たすことはできていない。
何らかの本源的価値観とセットになった実践本≒実現本へと彼らの意識は向かい始めている。捉えどころのない「社会」に鮮明な切り口と構造を与え、実践的方法論まで踏み込んだ内容の書籍に、彼らの意識も向かっていくだろう。




内藤琢
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