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市場のありとあらゆる取引全てまでは目が届きませんものね。インターネットの全てまでは管理できない現代的な構図と重ねられます。
でも一つだけ方法があるとすれば。
国家が私権統合の代表だとすれば人員も限られたはず。まさか私権なのに万人を内側に入れることはできなかったでしょう。市場も証券取引所が私営であることで分かるようにけっして公営ではないから万人を入れることはできません。対象範囲においては全国民をカバーする現代国家の方が器としては大きい。
インターネットは国籍も序列も関係なくさらに万人。国土や民族があって領地争いをしていた、言い換えれば領地争いの為に国土や民族を傘下に入れた(国家に民族が収束した)のとは真逆で、適応や共認で得られた価値(知恵)を守り育むためにインターネットを利用できるのだと思います。知恵の集合体として民族や国土や国益という言葉になった内容と、伝承する人々を守る。人々の意識を守る。ために国家というシステムは使われるのだと考えると認識(主体である人々とその認識道具と生産物)に国家も市場も収束することになります。
これは新しい意味での統合であり、万人の共認>一部の人の私権。一部の人の私権が社会全体を意のままにしようとした絶対権力や全体主義、その対外的衝突たる戦争を市場が共生取引しようとしたが結局は私権の過剰生産取引。この流れは環境破壊に到達し限界、縮小を迎えました。一部の人の私権を借りずに自分たちの手で社会を築けるのか。とても大きな課題を前にして共認の部分否定たる自我、私権も拡大限界が到来しました。
共認して⇒実現する、その繰り返し。市場原理は新市場に根こそぎ転換。国家は万人の認識の具現化に転換。観念的な指導者、実現上の指導者、いろいろな功労者、目立った活躍をする人々が多勢出てくるのを期待しますが、そのような人々にかぎって匿名性を保持したり、みんなのおかげといって私権にこだわらないから不思議です。そんな功績の主体から万人の共有財産へと育った知恵や感謝や尊敬が序列最上位になるのではないでしょうか。
佐藤英幸
でも一つだけ方法があるとすれば。
国家が私権統合の代表だとすれば人員も限られたはず。まさか私権なのに万人を内側に入れることはできなかったでしょう。市場も証券取引所が私営であることで分かるようにけっして公営ではないから万人を入れることはできません。対象範囲においては全国民をカバーする現代国家の方が器としては大きい。
インターネットは国籍も序列も関係なくさらに万人。国土や民族があって領地争いをしていた、言い換えれば領地争いの為に国土や民族を傘下に入れた(国家に民族が収束した)のとは真逆で、適応や共認で得られた価値(知恵)を守り育むためにインターネットを利用できるのだと思います。知恵の集合体として民族や国土や国益という言葉になった内容と、伝承する人々を守る。人々の意識を守る。ために国家というシステムは使われるのだと考えると認識(主体である人々とその認識道具と生産物)に国家も市場も収束することになります。
これは新しい意味での統合であり、万人の共認>一部の人の私権。一部の人の私権が社会全体を意のままにしようとした絶対権力や全体主義、その対外的衝突たる戦争を市場が共生取引しようとしたが結局は私権の過剰生産取引。この流れは環境破壊に到達し限界、縮小を迎えました。一部の人の私権を借りずに自分たちの手で社会を築けるのか。とても大きな課題を前にして共認の部分否定たる自我、私権も拡大限界が到来しました。
共認して⇒実現する、その繰り返し。市場原理は新市場に根こそぎ転換。国家は万人の認識の具現化に転換。観念的な指導者、実現上の指導者、いろいろな功労者、目立った活躍をする人々が多勢出てくるのを期待しますが、そのような人々にかぎって匿名性を保持したり、みんなのおかげといって私権にこだわらないから不思議です。そんな功績の主体から万人の共有財産へと育った知恵や感謝や尊敬が序列最上位になるのではないでしょうか。
佐藤英幸
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「超国家・超市場論」1~30までを週1回、約3ヶ月かけて勉強してきた。
世界的な金融危機の影響が激化する2008年後半~2009年1月という期間での勉強会であり、勉強している内容と、同時進行で起こっている金融危機の情報がタイムリーにリンクして理解を促進させる場面も多々あった。
自分の周りの20~30代を見ると、現在進行中の世界的な金融危機や政治・経済情勢に興味を持っている人は比較的多いが、「この先どうなるんだろう?」と先が見えずに不安を覚えている人が大半のようである。一方で、ネットサロンに集まって勉強しているメンバーで、そのような不安を持っている人はどうやら皆無のようで、むしろ「今後、既存のシステムが崩壊していき、ネットを使った認識形成を主体とする新たなシステムへと移行するのでは!」という期待の方が大きいようだ。さらに、現今の世界的な経済危機を事前に予測していたことも、現在の状況を「不安」と感じない原因かもしれない。事前に何かが起きることが予測できている場合、実際にそれが発生しても人はそれほど動じないものである。
最近、「一万年の旅路」という本を読み始めた。ネイティブ・アメリカンの人々が1万年以上前に、アフリカ大陸からベーリング陸橋を渡り、北アメリカ大陸へと歩きながら移住する壮大な口承史である。何かの本かサイトで紹介されていて感銘を受け、読み始めたものである。そのなかで、平和に暮らしていた一族が巨大地震と津波に襲われた結果、大半の人々を失い、さらには一族の知恵を保持していた知識階級の人々をも失った後、生き残った人々は北を目指して旅立つ箇所がある。そのとき、彼らは次のような決意を行う。「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぼう。眠っている間でさえ学ぼう。学びながら、兄弟が歩くところを見守ろう。彼が石ころだらけの険しい道を選んでも」と。
世界経済は今、「石ころだらけの険しい道」を邁進している。私は「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぶ」ことができるかどうか、正直自信はないが、世界的な金融危機が世界の政治・経済を大きく変動させつつある現在、「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぶこと」は、かつてなく重要になってきた。
今、多くの大人達は新聞や雑誌やネットの情報を受動的に受け取るだけで、自ら「学ぶこと」を放棄してしまった結果、危機的状況が発生しても「この先どうなるかわからない」という獏とした不安しか抱けないといった状況になってはいないだろうか。
「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぼう。眠っている間でさえ学ぼう。」という、1万年前にネイティブ・アメリカンが発見した知恵は、世界的金融危機に端を発する歴史的変動期にある21世紀初頭の現在において、我々自身の手で再度見つけ出さなければならない貴重な知恵なのではないだろうか。
daisuke
世界的な金融危機の影響が激化する2008年後半~2009年1月という期間での勉強会であり、勉強している内容と、同時進行で起こっている金融危機の情報がタイムリーにリンクして理解を促進させる場面も多々あった。
自分の周りの20~30代を見ると、現在進行中の世界的な金融危機や政治・経済情勢に興味を持っている人は比較的多いが、「この先どうなるんだろう?」と先が見えずに不安を覚えている人が大半のようである。一方で、ネットサロンに集まって勉強しているメンバーで、そのような不安を持っている人はどうやら皆無のようで、むしろ「今後、既存のシステムが崩壊していき、ネットを使った認識形成を主体とする新たなシステムへと移行するのでは!」という期待の方が大きいようだ。さらに、現今の世界的な経済危機を事前に予測していたことも、現在の状況を「不安」と感じない原因かもしれない。事前に何かが起きることが予測できている場合、実際にそれが発生しても人はそれほど動じないものである。
最近、「一万年の旅路」という本を読み始めた。ネイティブ・アメリカンの人々が1万年以上前に、アフリカ大陸からベーリング陸橋を渡り、北アメリカ大陸へと歩きながら移住する壮大な口承史である。何かの本かサイトで紹介されていて感銘を受け、読み始めたものである。そのなかで、平和に暮らしていた一族が巨大地震と津波に襲われた結果、大半の人々を失い、さらには一族の知恵を保持していた知識階級の人々をも失った後、生き残った人々は北を目指して旅立つ箇所がある。そのとき、彼らは次のような決意を行う。「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぼう。眠っている間でさえ学ぼう。学びながら、兄弟が歩くところを見守ろう。彼が石ころだらけの険しい道を選んでも」と。
世界経済は今、「石ころだらけの険しい道」を邁進している。私は「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぶ」ことができるかどうか、正直自信はないが、世界的な金融危機が世界の政治・経済を大きく変動させつつある現在、「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぶこと」は、かつてなく重要になってきた。
今、多くの大人達は新聞や雑誌やネットの情報を受動的に受け取るだけで、自ら「学ぶこと」を放棄してしまった結果、危機的状況が発生しても「この先どうなるかわからない」という獏とした不安しか抱けないといった状況になってはいないだろうか。
「目が覚めているあらゆる瞬間から学ぼう。眠っている間でさえ学ぼう。」という、1万年前にネイティブ・アメリカンが発見した知恵は、世界的金融危機に端を発する歴史的変動期にある21世紀初頭の現在において、我々自身の手で再度見つけ出さなければならない貴重な知恵なのではないだろうか。
daisuke
>人々は、これまで無数の常識(規範とか観念。現在もっとも支配的な観念は、自由とか個人とか人権だと云って良いでしょう)に則って家庭生活を営み、あるいは経済生活を営んできました。しかしその結果が、先進国における全面的な行き詰まり(世界バブル・財政破綻・環境破壊・精神破壊)であり、崩壊の危機であるとすれば、それらを導いてきた常識群の根幹部が(従って、大部分の常識が)根本的に間違っているからだと考えるしかありません。(「大転換期の予感と事実の追求」)
この“間違った常識群の根幹部”は、序列原理に基づく序列規範群と、市場原理を導いた近代思想群発の諸観念の2群に分けられる。これらはいずれも私権時代に生み出された“常識群”であると同時に、いずれも(タイムラグはあるが)1970年の貧困の消滅に伴い消滅しつつある。
■間違った常識群①・・・序列規範群
代表的には江戸時代には教科書としても使われた論語や、それに基づく規範群(“目上の人を敬う”“敬語”)、あるいは家族制度、会社制度などの私権集団システム。
これらは、集団統合原理(ゆえに必要)であるが、生存圧力に対応すべく生み出された(性闘争本能⇒)序列本能を下敷きにしているゆえ、貧困の消滅=生存圧力の消滅によってあっと言う間に衰退した。(既に機能しないという意味で“間違って”いる。)
その結果、統合原理の喪失→家庭、学校、会社、国家などの私権集団の機能不全や、拠るべき規範喪失による活力衰弱、存在不安(→うつ、自殺)などの精神破壊が進行中。
■間違った常識群②・・・近代思想発の諸観念群
明治開国以降入ってきた近代思想である自由、平等、人権(中核は個人主義)は、1970年以降、より多くの人々の共認が得られるよう、まず「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」に形を変え、更に最近は「人それぞれ」「自分を大事に」「他人に迷惑をかけてはいけない」「自己責任」「自分の夢・やりたいこと」など、より(根無し草でバラバラの個人に)受け入れやすい言葉に変異しつつ延命し続けている(→無意識にすり込まれ“常識化”している)。
これらは、市場拡大のために捏造された本能原理に全く基づかない完全な欺瞞観念であり、集団や社会の統合を破壊し人類を滅亡に向かわせる極めて危険で有害な観念群と言える。財政破綻、金融破綻、環境破壊、精神破壊・・・の直接原因。
貧困の消滅以降も、繰り返されるマスコミなどの統合階級による染脳の結果延命しているが、①バブル崩壊や金融破綻(→新“自由”主義の破綻)が明らかになったこと、②現実の人間関係に共認充足の可能性が開かれつつあること、③マスコミをはじめ“現代の神官”たる“特権的統合階級”の共認支配力が明らかに低下しつつあることなどによって、近い将来消滅する運命にある。
■間違った常識群=固定観念を捨てて事実の追求へ
従って、事実に基づく理論追求により狂った近代思想群(旧観念)に代る新たな認識体系を構築し、もって旧観念群を意識的に完全否定する(→息の根を止める)と同時に、序列原理に代る新たな(人類本来の)統合原理である共認原理を顕在化させること(具体的には「自己中は敵」などの新たな規範観念群の共認を形成すること)が急務となる。
越見源
この“間違った常識群の根幹部”は、序列原理に基づく序列規範群と、市場原理を導いた近代思想群発の諸観念の2群に分けられる。これらはいずれも私権時代に生み出された“常識群”であると同時に、いずれも(タイムラグはあるが)1970年の貧困の消滅に伴い消滅しつつある。
■間違った常識群①・・・序列規範群
代表的には江戸時代には教科書としても使われた論語や、それに基づく規範群(“目上の人を敬う”“敬語”)、あるいは家族制度、会社制度などの私権集団システム。
これらは、集団統合原理(ゆえに必要)であるが、生存圧力に対応すべく生み出された(性闘争本能⇒)序列本能を下敷きにしているゆえ、貧困の消滅=生存圧力の消滅によってあっと言う間に衰退した。(既に機能しないという意味で“間違って”いる。)
その結果、統合原理の喪失→家庭、学校、会社、国家などの私権集団の機能不全や、拠るべき規範喪失による活力衰弱、存在不安(→うつ、自殺)などの精神破壊が進行中。
■間違った常識群②・・・近代思想発の諸観念群
明治開国以降入ってきた近代思想である自由、平等、人権(中核は個人主義)は、1970年以降、より多くの人々の共認が得られるよう、まず「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」に形を変え、更に最近は「人それぞれ」「自分を大事に」「他人に迷惑をかけてはいけない」「自己責任」「自分の夢・やりたいこと」など、より(根無し草でバラバラの個人に)受け入れやすい言葉に変異しつつ延命し続けている(→無意識にすり込まれ“常識化”している)。
これらは、市場拡大のために捏造された本能原理に全く基づかない完全な欺瞞観念であり、集団や社会の統合を破壊し人類を滅亡に向かわせる極めて危険で有害な観念群と言える。財政破綻、金融破綻、環境破壊、精神破壊・・・の直接原因。
貧困の消滅以降も、繰り返されるマスコミなどの統合階級による染脳の結果延命しているが、①バブル崩壊や金融破綻(→新“自由”主義の破綻)が明らかになったこと、②現実の人間関係に共認充足の可能性が開かれつつあること、③マスコミをはじめ“現代の神官”たる“特権的統合階級”の共認支配力が明らかに低下しつつあることなどによって、近い将来消滅する運命にある。
■間違った常識群=固定観念を捨てて事実の追求へ
従って、事実に基づく理論追求により狂った近代思想群(旧観念)に代る新たな認識体系を構築し、もって旧観念群を意識的に完全否定する(→息の根を止める)と同時に、序列原理に代る新たな(人類本来の)統合原理である共認原理を顕在化させること(具体的には「自己中は敵」などの新たな規範観念群の共認を形成すること)が急務となる。
越見源
今、新聞は世界的な印刷媒体の出稿量・発行部数の低下、無料のインターネットニュースに読者を奪われています。かって機能していた新聞のビジネスモデルはもはや成立しない現実に対し、これから新聞はどこに向かっていくのかを紹介します。
以下引用スタート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
米国の新聞は決断した 「紙が減ってもウェブ中心でやる」
(連載「新聞崩壊」第5回/アルファブロガー・田中善一郎さんに聞く)
_____________________________________________
販売も広告も先行き下り坂。ネット戦略に生き残りをかけるしかない。日本の新聞社はそう考えているように見える。ところが、先行している米国の様子を見ると、新聞社のウェブサイトは苦戦している。出稿される広告も減少に転じた。米国のメディア事情をアルファブロガーの田中善一郎さんに聞いた。
Q:米国と日本の新聞社のサイトはどこが違うのでしょう。
A:まず英語圏なので、最初からグローバルな展開を視野に入れられる強みがあります。だから、ユニークユーザー数も多い。内容面で言うと、ニューヨーク・タイムズは、紙面に掲載されている記事のほとんどがウェブにも掲載されている。ネットに先に配信する「ウェブ・ファースト」も徹底しています。ネットのコンテンツは速報性もあるし、行数に制約がないし、時には映像も付く。記事一つ一つに厚みがあります。各記事から、関連する外部サイトの記事へのリンクが張られ、開放化に向かっているのも大きな特徴です。
<中略>
Q:そのほかに特徴は?
A:ソーシャルメディア化が進んでいること。例えばRSS。カテゴリー分けが非常に細かい。たいていの新聞社サイトでは200種ぐらいのRSSフィードを配信しています。ニッチなトピックスでもRSSフィードになっているし。複数の新聞社サイトを対象に特定分野の情報をRSSリーダーで収集する場合、効率よく行えます。特に、仕事に関する専門分野の情報収集環境が、日本とは全然違います。
サイトの基本設計に関しては、3~4年前まで日本の新聞社と大差なくて、紙の焼き直しに過ぎませんでしたが、急に状況がかわってきました。「まずはトップページに来てもらう」というやり方が行き詰まってきたからです。検索エンジンの進歩とRSSフィードの普及で、「まずは1面から読む」という紙媒体的な情報提供だけではユーザーが満足しなくなってきたのです。記事1本1本が検索対象になってきました。web2.0的な流れが生まれてきて、ユーザーの情報接触が「パッケージされたコンテンツを読む」から「読みたい記事だけを読む」というように変化が出てきています。
<中略>
Q:新聞社サイト内で提供されているブログについてはいかがでしょう。
A: いわゆる「記者ブログ」でも、日本と米国とでは様子が全然違います。日本では多くが、単にコラムをブログという形で掲載しているに過ぎませんが、米国ではブロガーとなる記者がブログの世界にうまく入り込んでいます。一般の記事に比べて、規制の少ない自由な視点でブログ記事を書いており、外部ブログとやり取りをしながら、一緒により良い記事を作り上げていこうとしています。つまりコンテンテンツをマッシュアップしていくプロセスが見られるのがおもしろいですね。さらに最近では、外部の有力ブログとライセンス契約を結び、外部ブログ記事を新聞社サイトでも掲載し始めています。
Q:こうした試みで、確かに情報の価値が上昇しました。問題は、その結果「儲かるか」です。
A: 紙媒体では儲からないという結論を下し、儲かるかわからないネット媒体にシフトしているのが現状です。そこで米国の新聞社がどう変化してきたかを振り返る必要があります。実は、1970年ぐらいから読者の減少が始まっています。米国の人口が2億から3億に増えているにもかかわらずです。つまり、「新聞を読む人の割合」が、劇的に減った。それでも、指導者層の新聞に対する信頼は揺らがなかった。「信用できるニュースがいつでも得られる」メディアとしては、当時は新聞しかなかったからです。そのため、部数が落ち込んでも、新聞広告費が70年から2000年までの30年間で6倍以上も伸びたんです。「広告は上向きだったので、危機感を持つのが遅れた」と言う面があります。
ところが、ブログなどのソーシャルメディアが普及しだした3~4年前から、新聞広告が急に落ち込み始めました。この頃が転換期だと思います。06年~07年にかけて、広告は大幅に落ち込んだ。世間一般の景気がいい時でしたので、新聞社も「これはまずい」と受け止めた。みんなが「新聞が消える」と言い出したのはこの頃です。部数と広告が減少する負のスパイラルが加速化し、止まりそうもない、というのが現状です。これに金融危機が加わって、まさに踏んだり蹴ったりの状態です。
Q:ウェブと紙媒体の住み分けはできるのでしょうか。
A:今までと逆に、紙はウェブの補完となっていくでしょう。頭が痛いのは、ウェブを充実させると、紙媒体の販売収入が減ってしまうこと。ニューヨーク・タイムズが、最も典型的な例でしょう。それでも、「紙を減らしてでも、ウェブをやるべき」という決断をした。収益性が悪くても、やらざるを得ない。
Q:日本の新聞社は、まさにその入り口にさしかかっていると言えそうですね。
A:さらに米国の新聞社にとって具合が悪いのが、収入の7~8割を広告に依存していることです。それが年率で15%ぐらい落ち込んでいる。特にクラシファイド広告(求人広告など)の落ち込みがひどくて、ニューヨーク・タイムズでもこの1年で3割近く落ち込んでいる。これらの広告はネットに流出してしまったので、紙媒体に戻って来ることは絶対にありません。ネット広告がV字回復し,ネット事業が新聞社のけん引車になるまで、米新聞社の何社が持ちこたえられるかどうか。淘汰は避けられないでしょう。
<中略>
Q:そうなると、中長期的にはジリ貧なのでは。
A:確かにそうですが、「新聞が危ない」のではなくて「紙媒体が危ない」ということでしょう。新聞が提供してきたニュース記事のニーズがなくなっているのではない。何だかんだ言っても、いずれ紙媒体の時代は終わって、ネットが中心になっていきます。「質が高くて信用できるニュースメディアは新聞」と主張する人もいますが、「それが紙でないといけない」理由はどこにもありません。米国では、著名な記者がブロガーに続々と転身しています。多くの優秀な記者がネットメディアにはり付いていけば、ニュースペーパーは消えてもペーパーでない新聞が生き続けるのでは。
リンゴヨーグルト
以下引用スタート
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米国の新聞は決断した 「紙が減ってもウェブ中心でやる」
(連載「新聞崩壊」第5回/アルファブロガー・田中善一郎さんに聞く)
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販売も広告も先行き下り坂。ネット戦略に生き残りをかけるしかない。日本の新聞社はそう考えているように見える。ところが、先行している米国の様子を見ると、新聞社のウェブサイトは苦戦している。出稿される広告も減少に転じた。米国のメディア事情をアルファブロガーの田中善一郎さんに聞いた。
Q:米国と日本の新聞社のサイトはどこが違うのでしょう。
A:まず英語圏なので、最初からグローバルな展開を視野に入れられる強みがあります。だから、ユニークユーザー数も多い。内容面で言うと、ニューヨーク・タイムズは、紙面に掲載されている記事のほとんどがウェブにも掲載されている。ネットに先に配信する「ウェブ・ファースト」も徹底しています。ネットのコンテンツは速報性もあるし、行数に制約がないし、時には映像も付く。記事一つ一つに厚みがあります。各記事から、関連する外部サイトの記事へのリンクが張られ、開放化に向かっているのも大きな特徴です。
<中略>
Q:そのほかに特徴は?
A:ソーシャルメディア化が進んでいること。例えばRSS。カテゴリー分けが非常に細かい。たいていの新聞社サイトでは200種ぐらいのRSSフィードを配信しています。ニッチなトピックスでもRSSフィードになっているし。複数の新聞社サイトを対象に特定分野の情報をRSSリーダーで収集する場合、効率よく行えます。特に、仕事に関する専門分野の情報収集環境が、日本とは全然違います。
サイトの基本設計に関しては、3~4年前まで日本の新聞社と大差なくて、紙の焼き直しに過ぎませんでしたが、急に状況がかわってきました。「まずはトップページに来てもらう」というやり方が行き詰まってきたからです。検索エンジンの進歩とRSSフィードの普及で、「まずは1面から読む」という紙媒体的な情報提供だけではユーザーが満足しなくなってきたのです。記事1本1本が検索対象になってきました。web2.0的な流れが生まれてきて、ユーザーの情報接触が「パッケージされたコンテンツを読む」から「読みたい記事だけを読む」というように変化が出てきています。
<中略>
Q:新聞社サイト内で提供されているブログについてはいかがでしょう。
A: いわゆる「記者ブログ」でも、日本と米国とでは様子が全然違います。日本では多くが、単にコラムをブログという形で掲載しているに過ぎませんが、米国ではブロガーとなる記者がブログの世界にうまく入り込んでいます。一般の記事に比べて、規制の少ない自由な視点でブログ記事を書いており、外部ブログとやり取りをしながら、一緒により良い記事を作り上げていこうとしています。つまりコンテンテンツをマッシュアップしていくプロセスが見られるのがおもしろいですね。さらに最近では、外部の有力ブログとライセンス契約を結び、外部ブログ記事を新聞社サイトでも掲載し始めています。
Q:こうした試みで、確かに情報の価値が上昇しました。問題は、その結果「儲かるか」です。
A: 紙媒体では儲からないという結論を下し、儲かるかわからないネット媒体にシフトしているのが現状です。そこで米国の新聞社がどう変化してきたかを振り返る必要があります。実は、1970年ぐらいから読者の減少が始まっています。米国の人口が2億から3億に増えているにもかかわらずです。つまり、「新聞を読む人の割合」が、劇的に減った。それでも、指導者層の新聞に対する信頼は揺らがなかった。「信用できるニュースがいつでも得られる」メディアとしては、当時は新聞しかなかったからです。そのため、部数が落ち込んでも、新聞広告費が70年から2000年までの30年間で6倍以上も伸びたんです。「広告は上向きだったので、危機感を持つのが遅れた」と言う面があります。
ところが、ブログなどのソーシャルメディアが普及しだした3~4年前から、新聞広告が急に落ち込み始めました。この頃が転換期だと思います。06年~07年にかけて、広告は大幅に落ち込んだ。世間一般の景気がいい時でしたので、新聞社も「これはまずい」と受け止めた。みんなが「新聞が消える」と言い出したのはこの頃です。部数と広告が減少する負のスパイラルが加速化し、止まりそうもない、というのが現状です。これに金融危機が加わって、まさに踏んだり蹴ったりの状態です。
Q:ウェブと紙媒体の住み分けはできるのでしょうか。
A:今までと逆に、紙はウェブの補完となっていくでしょう。頭が痛いのは、ウェブを充実させると、紙媒体の販売収入が減ってしまうこと。ニューヨーク・タイムズが、最も典型的な例でしょう。それでも、「紙を減らしてでも、ウェブをやるべき」という決断をした。収益性が悪くても、やらざるを得ない。
Q:日本の新聞社は、まさにその入り口にさしかかっていると言えそうですね。
A:さらに米国の新聞社にとって具合が悪いのが、収入の7~8割を広告に依存していることです。それが年率で15%ぐらい落ち込んでいる。特にクラシファイド広告(求人広告など)の落ち込みがひどくて、ニューヨーク・タイムズでもこの1年で3割近く落ち込んでいる。これらの広告はネットに流出してしまったので、紙媒体に戻って来ることは絶対にありません。ネット広告がV字回復し,ネット事業が新聞社のけん引車になるまで、米新聞社の何社が持ちこたえられるかどうか。淘汰は避けられないでしょう。
<中略>
Q:そうなると、中長期的にはジリ貧なのでは。
A:確かにそうですが、「新聞が危ない」のではなくて「紙媒体が危ない」ということでしょう。新聞が提供してきたニュース記事のニーズがなくなっているのではない。何だかんだ言っても、いずれ紙媒体の時代は終わって、ネットが中心になっていきます。「質が高くて信用できるニュースメディアは新聞」と主張する人もいますが、「それが紙でないといけない」理由はどこにもありません。米国では、著名な記者がブロガーに続々と転身しています。多くの優秀な記者がネットメディアにはり付いていけば、ニュースペーパーは消えてもペーパーでない新聞が生き続けるのでは。
リンゴヨーグルト
「農村(ムラ)の幸せ、都会(マチ)の幸せ――家族・職・暮らし――」
(徳野貞雄 著/NHK出版)より
---------------------直接引用開始-------------------
日本のムラでは、ただ単に家族、親族、近隣の人たちが相互に助け合うという本源的な相互扶助を行なっているだけではありません。ある共通課題に対して、ムラ中が集団的にまとまり、資金調達も含めて組織化され、高度な計画を作り、井戸やため池、林道、農道、ついでに集会施設や学校まで作ってしまいます。そのための共同訓練も、ムラでは日々行なわれてきました。それは、田植えや稲刈りの共同作業だけでなく、溝さらえや道普請の共同苦役であり、共有林の共同下刈りでした。その活動資金として、村落費も徴収します。ムラがひとつの法人的性格を持ち、ある目標に向かって機能的に動きます。
日本のムラは、非常に発達した地域機能共同体だと言えます。(中略)
このムラの機能的共同原理と行動様式を、日々子どもたちや若者に継承し、訓練するための仕組みがあります。それが祭りです。(中略)
ムラが壊れるということは、単に農業や農村が衰退していくことではありません。日本人が、日本社会の持っている機能的共同性が、弱体化することなのです。
----------------------引用終了------------------
徳野氏は、
「江戸時代の旗本はいわば国家公務員。○○藩の武士は地方公務員。武士の仕事の内容は、殆どが農政関係の仕事。幕府や藩を維持するために、米を軸とした年貢の徴収から河川の改修、新田開発や特産品の開発に注力した。その管理・監督が武士の仕事だった。」
と捉えていますが、引用文のムラは、現代における地方自治体の在り様を示しているようでもあります。「農」の分野に企業が参入してネットワークを形成しながら同様の機能を担うなら、その社会統合活動の成果に応じて『支援金』を出すことに、同意を得ることは可能だと思われます。
このような「新しい『農』のかたち」も成立するのではないでしょうか?!
小圷敏文
(徳野貞雄 著/NHK出版)より
---------------------直接引用開始-------------------
日本のムラでは、ただ単に家族、親族、近隣の人たちが相互に助け合うという本源的な相互扶助を行なっているだけではありません。ある共通課題に対して、ムラ中が集団的にまとまり、資金調達も含めて組織化され、高度な計画を作り、井戸やため池、林道、農道、ついでに集会施設や学校まで作ってしまいます。そのための共同訓練も、ムラでは日々行なわれてきました。それは、田植えや稲刈りの共同作業だけでなく、溝さらえや道普請の共同苦役であり、共有林の共同下刈りでした。その活動資金として、村落費も徴収します。ムラがひとつの法人的性格を持ち、ある目標に向かって機能的に動きます。
日本のムラは、非常に発達した地域機能共同体だと言えます。(中略)
このムラの機能的共同原理と行動様式を、日々子どもたちや若者に継承し、訓練するための仕組みがあります。それが祭りです。(中略)
ムラが壊れるということは、単に農業や農村が衰退していくことではありません。日本人が、日本社会の持っている機能的共同性が、弱体化することなのです。
----------------------引用終了------------------
徳野氏は、
「江戸時代の旗本はいわば国家公務員。○○藩の武士は地方公務員。武士の仕事の内容は、殆どが農政関係の仕事。幕府や藩を維持するために、米を軸とした年貢の徴収から河川の改修、新田開発や特産品の開発に注力した。その管理・監督が武士の仕事だった。」
と捉えていますが、引用文のムラは、現代における地方自治体の在り様を示しているようでもあります。「農」の分野に企業が参入してネットワークを形成しながら同様の機能を担うなら、その社会統合活動の成果に応じて『支援金』を出すことに、同意を得ることは可能だと思われます。
このような「新しい『農』のかたち」も成立するのではないでしょうか?!
小圷敏文
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