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私権時代の外圧は一貫して私権圧力だった。しかし、共認原理に移行してからは、刻一刻と変化する人々の意識=社会の状況が第一の外圧(圧力源)となる。
そんな変化の激しい社会に対する答えは常に探索途中であり、現段階においての最先端可能性でしかない。
別の言い方をすると、いつまでも通用する答えなど無いということだ。
答えはその時々の外圧状況に適応するための先端可能性なのであれば、外圧が変われば塗り重ねていけば良いだけなのだ。

この時に、インターネットの【万人が参加できる場】と【双方向性】が活きてくる。
皆がネット空間で社会について議論し検証する、そのやり取りの中で、最先端の可能性は示されていく。

この答えを紡ぎ出し、織り上げていく場=認識形成の場(るいネット)に参加する事が皆が求めている答えになるのではないだろうか。


(※編集部一部中略)






竹田翔
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先日、自宅近くの商店街のお肉屋さんで買い物をしたら、店主さん(60代位の方)から品物と一緒に手紙を頂きました。
(その手紙はコピーしてあり「ちょっと読んどいてよ」と手早く袋に入れていたので、ほとんどのお客さんに渡していたのだと思います。)
B4の紙いっぱいに、今の世の中に対する不安や期待、店主さん自身の心境が詩になって書かれていました。

(一部紹介します)
「ー国民が下にいて雇われた役人や政治家が上で威張っている国は、民主主義を逆さまに吊るしたもの。もう一度正常に戻さなければならぬ。命にお金を掛けない政治は最悪である。
ーすべてはお年寄りが長生きしてよかったねと思える社会と、すべてはこれから生まれてくる子供たちが生まれて良かったねと思える社会はつながっていると僕はおもうがー」

そのお肉屋さんはいつも活気があり、店主さんは道行く人に元気な挨拶を欠かしません。自分のお店だけでなく、商店街とそこに住んでいる人達みんなをを元気にしたいという心意気を感じさせます。
毎日の仕事の合間に、自分の思いをこんな形で発信していて驚きました。

また、美容院でのこと。
おなじみの美容師さんとの会話で、景気どうよの話から始まり、若いスタッフの金銭感覚の話までしました。

美容師さん曰く「ー1ヶ月に1度来店してくれるお客さんが3ヶ月に1度になってしまった。正直あせります。“ヘアサロン”ってとこは必ずしも必要なとこじゃないですしねぇ。真っ先に削られちゃいます。。でもそこをなんとか、リニューアルしたりサービスの見直しとかで…
ー若いスタッフで貯蓄が趣味みたいなコが結構いて、毎日マメに弁当作ってきて“店長、ついに3ケタ貯まりました!”なんてゲーム感覚で報告してくるんですよ。最近のコはしっかりしてるのか、マジメなのか…?」

と、趣味やヘアカット後の予定etc個人的な話ではなく、美容師さんの周りでの出来事・周りの人の意識の話で、私の広告業界の話と織り交ぜ、真面目に語りあってしまいました。

業種も年齢も関係なく誰とでもいいから、今の状況を真剣に語りたい、どう思うか聞きたい、なぜか知りたい…
無意識に共認形成の場を求めていて、模索している感じがしました。






かりん
2002年の段階では、「新しい潮流4 言葉それ自体が引力を持ち得ない時代 」
として、共認非充足からくる異常な人収束と、外向収束からなる正常な人収束とが描かれていた。

思想不信から、言葉そのものは捨象され、とにもかくにも人へと収束して行く流れは、確かに顕在化した。

そして2009年。異常かどうかは別として、人収束はそのまま社会収束へと繋がり、社会収束は必然的に言葉そのものを使い始める契機と成り始めている。

より広い対象(人・社会)へと向かえば、当然ながら観念の必要な地平へと辿り着く。

現象面で言えば、
SNS系
・mixi
・モバゲータウン
・GREE

ミニブログ系
・twitter
・リアル

あるいは、漢字検定ブーム(H13年:180万人⇒H19年:270万人)等も含め、中身はさておき“日常的に”言葉そのものを積極的に使う流れは、明確に見て取れる。

方や、「入試に「異変」~東大に対する拘りが薄まった?~ 」
にも見られるように、所謂これまでの観念世界における権威の象徴でもあった東大神話が、根底から瓦解し始めているといった傾向も見られる。

この捻れは非常に面白い現象で、実は「既成観念を全的に否定=無能の自覚 」
の表れではないかと考えられる。

70年貧困の消滅以降、思想捨象→観念捨象が進み、仲間収束⇒人収束⇒社会収束へと進化。
一方で、社会収束の為には観念が必要だが、既成観念は使い物にならない。

これまでは、社会へ向けて言葉を発信する、という事自体普通の人々には縁の無い世界であった。
これこそが、マスコミの思惑通りに社会を動かすに都合の良い社会の基盤であったのだが、今や発信階級(学者・マスコミ・政治家etc.)こそが自覚無き無能の極地にあり、誰も彼らの発する言葉には可能性を感じていない。

そこで人々が向かった先が、自ら綴る具体的な言葉の発信、という現象面へと繋がるのではないかと思う。

現状では、発せられる言葉そのものに大きな意味合いが含まれているとは言い難い状況ではあるが、普通の人々が社会に向けて言葉を発する、その現象面だけでも、大きな転換が訪れたと見ることが出来る。これは、観念そのものの探索へと向かい始めている、と言い換える事が出来よう。

即ち、『言葉そのものが引力を持ち始めた』、と。

勿論、最先端では普通の人々による事実追求の流れも、年々深度を増してきている。これらの流れに導かれて、万人が観念を用いた社会参加という形は、既に顕在化。

しかし、社会を識るには、構造認識が不可欠だ。

そこで、普通の人々が無能の自覚をベースに、新概念・構造認識を学ぶ事で、社会収束⇒認識収束の流れを加圧して行く。更に、認識収束⇒旧発信階級との認識闘争は、地デジ戦略に躓いているマスコミを一瞬で凌駕する勢いを持つであろう。





川井孝浩
生産様式が社会の基底部に存在し、主要な生産力が社会構造を規定してきた。極限的(超動物的)な生存圧力におかれた始原人類は採取生産を営み、共同体社会を形成してきた。農業生産へと移行すると、土地の奪い合いに決着を付ける力である武力が制覇力となり、武力によって支配される社会へと移行する。産業革命によって工業生産に移行したことにより、機械を備えるための資本力が制覇力となり、資本主義社会となった。そして現在、意識生産という新しい生産様式の登場は、社会のあり様を大きく変えようとしている。

社会の土台をなすのは生産様式であり、生産力の転換によってでしか社会の構造は変わらない。新しい生産のあり方の提示は、社会を土台から変えていくことになる。例えば「なんで屋」のような新しい生産様式の模索は、新しい社会を形作っていくことに他ならない。





内藤琢
この前、学校の友人に悩み相談を受け、稚拙ながら新認識をもとに答えを提示したところ結構納得してくれて、また、自分とその友人とのやり取りを聞いていた第三者から、「すごい哲学的だね。それどこで習ったの?」と聞かれ、その後自分がどのような経緯でその認識を学んだのかという話から、例えば、具体的にはこんなことをやっているのだが・・・という話に繋がり、相手も非常に興味を示してくれたこともあり、結局倒錯回路の構造から、自身達の学校の構造、金貸しの話まで、新認識の内容をずっと語っていた。
相手も非常に納得してくれて充足してたし、自分も充足できた体験だった。

この出来事で、自分が気づいたことは主に二つある。

ひとつは、やはり、認識力は今や誰しもが欲しているという事。まず相談された人に新認識の内容を話したときに、その人は新認識を語る自分に対して全く否定の素振りを示さなかった。
仲間圧力下で認識を語るという事は、「お前何語ってんだよ(笑)」みたいな空気になるかと思っていたのだが、びっくりするほどすんなり受け止めてくれた。それほど収束不全とは甚大で、その答えも求められているのだろうと思った。
また、話かけて来た人も認識の内容に可能性を感じたからこそ、自身に話しかけてきたのだと思う。
おかげで、これからもより新認識を提示していっても問題がないという確信が持てた。

そしてもう一つだが、それは、否定を断ち切るにも新認識や課題の共認が必要だということである。
実は、自身達に話しかけてきた人は、仲間圧力下であまり評価を得られてない人であった。
仲間内でその人の評価は共認されているため、それに反する評価や、その人を擁護したりする事は、その共認を破壊することに繋がる。
だから(というと言い訳じみているが)、自身も話しかけられた時、ぶっちゃけその人に対して、否定視をしてしまった。「話しかけてくるなよ」と心の底で思っていた。
しかし、新認識について話している内に、前述した通り、自身もその人も非常に充足できていた。その時はもちろん自身もその人を否定していなかったと感じる。
面白いのは(というと不謹慎かもしれないが)、新認識を追及する「仲間」として話している時と、仲間圧力下における「仲間」として話している時で、その人に対し、あからさまに自身の対応が変わるのである。
認識について話している時は、その人に対する否定など微塵もない。しかし、その直後に普通の会話になったりすると、途端に自身の中に否定の意識が生起してくるのである。
思うに、普通の会話をしている時には周りの評価圧力が気になり、その人を否定してしまうのだが、新認識について話している時には、新しい統合軸となりうる共通の課題を互いに追求しているため、そのような仲間圧力を超越した「認識仲間」となり、否定視など発現しないのではないだろうか。と自身は考える。

考えてみれば、仲間圧力下で起こる「評価付け」や「いじめ」は、所詮は収束先が見つからないがための代償物であるし、そのために他人を否定するなどバカな話であって、本来なら、否定の対象の人物の構造を解明し、問題があるのであれば、それを直すべく周りも、できる事を模索するべきである。

なぜ、それができないのかというと、収束不全という現状があるわけだが、新認識の提示とはまさに「収束物の提示」である。
つまり、認識力を提示、共認、あるいは皆で追及していくことによって、仲間圧力による他者否定もなくなっていくのではないだろうかという事である。

学校の仲間圧力に限らず、自分達の周囲には否定、倒錯思考に繋がる共認内容(旧観念等)が非常に多いように思う。
そういったものを改善して行くためにも、新認識の提示、共認が必要なのではないかと思った。





越見太士
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