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何に収束するか考えてみました。
まず、リスクの少ないことに収束する。
リスクとは何か。
●消費的なリスク・・・国家が借金800兆円を作ってしまったことに象徴されますが、果実を先に収穫してしまっているので、これ以上の先取り行為は自重すると思われます。
●投資的なリスク・・・先行投資、開発は慎重になると思われます。教育も先行投資の一種と言えます。より確実に努力(感)に見合った成果が期待されます。
●総量規制・・・何事も足るを知ることによって支出の総量は自主規制されます。そして総量が自主規制されると可能性に支出が始ると思います。
次に、節約に収束する。
●健全だと、今あるものを長く使ったり、今いる人材を育成したりして、がっちり脇を固めます。そうすると消費は減り、採用も減り、経済はますます縮小します。
●企業における採用減は企業における少子化であり、家庭における少子化と相まって、適正値に近づくと考えられます。
そして、反転する!
●60年代から70年代の水準で貧困克服の量的実感は得られているので、
●今度は私権獲得の可能性ではなく、共認社会の実現というはかり知れない生産量が待っています。
共認社会を実現するためには、共認機能の向上が核心で、これには本能⇒共認⇒観念の3ステージを実現しなればなりません。個々の具体的なイメージを統合する観念がどうしても必要になります。政治、哲学、自然観察、社会観測、それこそあらゆる英知が必要になります。あまりにも量が多いので学者では無理です、まかせるとまた根拠のない論説文が大量生産され神格化されます。
日本国民みんなで生産して、みんなで分け合う。社員1億3000万人の会社(共同体経営)ができたら、世界のどこにも負けません。
佐藤英幸
まず、リスクの少ないことに収束する。
リスクとは何か。
●消費的なリスク・・・国家が借金800兆円を作ってしまったことに象徴されますが、果実を先に収穫してしまっているので、これ以上の先取り行為は自重すると思われます。
●投資的なリスク・・・先行投資、開発は慎重になると思われます。教育も先行投資の一種と言えます。より確実に努力(感)に見合った成果が期待されます。
●総量規制・・・何事も足るを知ることによって支出の総量は自主規制されます。そして総量が自主規制されると可能性に支出が始ると思います。
次に、節約に収束する。
●健全だと、今あるものを長く使ったり、今いる人材を育成したりして、がっちり脇を固めます。そうすると消費は減り、採用も減り、経済はますます縮小します。
●企業における採用減は企業における少子化であり、家庭における少子化と相まって、適正値に近づくと考えられます。
そして、反転する!
●60年代から70年代の水準で貧困克服の量的実感は得られているので、
●今度は私権獲得の可能性ではなく、共認社会の実現というはかり知れない生産量が待っています。
共認社会を実現するためには、共認機能の向上が核心で、これには本能⇒共認⇒観念の3ステージを実現しなればなりません。個々の具体的なイメージを統合する観念がどうしても必要になります。政治、哲学、自然観察、社会観測、それこそあらゆる英知が必要になります。あまりにも量が多いので学者では無理です、まかせるとまた根拠のない論説文が大量生産され神格化されます。
日本国民みんなで生産して、みんなで分け合う。社員1億3000万人の会社(共同体経営)ができたら、世界のどこにも負けません。
佐藤英幸
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社会の土台をなすのは生産様式であり、生産力の転換によってでしか社会の構造は変わりません。
事実、過去の歴史を振り返っても、生産様式と社会構造には一定の法則が見出せます。始原人類は採取生産を営み、共同体社会を形成してきました。農業生産へと移行すると、土地の奪い合いに決着を付ける力である武力が制覇力となり、武力によって支配される社会へと移行します。産業革命によって工業生産に移行したことにより、機械を備えるための資本力が制覇力となり、資本主義社会となりました。そして1970年に豊かさが実現したことで物的な欠乏が飽和限界に達し、意識生産へと移行しました。
しかし、それまで封鎖されてきた私権拡大の可能性が一気に開かれたこともあって、1970年以降主要に生産されたきた”価値”は、如何に楽に金を儲けられるかでした。ここでは、相手をだまして幻想を共認する事が生命となります。よって、だまし能力(幻想価値を生み出す能力)に長け、かつ大きな利益を生む資本を持つ金融が金融資本主義社会を形作ってきました。
2008年のリーマンショックに代表される金融資本主義の崩壊が近づくにつれ、幻想ではない事実を、より本質を求める意識が強まってきました。それを受けて、物事の本質を見極める認識を生み出す「認識生産」の時代へと移行しつつあるのではないかと考えています。より本質を突いた本物の中身を生み出す社会へ。
物事の本質は、歴史を遡っての徹底的な事実の追求がその基盤となります。これは、自然と人間を別のものとみなすキリスト教世界では到底不可能です。共同性が保持され、自然と人間とを同一視する機能が未だ残存している日本人にこそ、認識生産の可能性は与えられているのではないでしょうか。
内藤琢
事実、過去の歴史を振り返っても、生産様式と社会構造には一定の法則が見出せます。始原人類は採取生産を営み、共同体社会を形成してきました。農業生産へと移行すると、土地の奪い合いに決着を付ける力である武力が制覇力となり、武力によって支配される社会へと移行します。産業革命によって工業生産に移行したことにより、機械を備えるための資本力が制覇力となり、資本主義社会となりました。そして1970年に豊かさが実現したことで物的な欠乏が飽和限界に達し、意識生産へと移行しました。
しかし、それまで封鎖されてきた私権拡大の可能性が一気に開かれたこともあって、1970年以降主要に生産されたきた”価値”は、如何に楽に金を儲けられるかでした。ここでは、相手をだまして幻想を共認する事が生命となります。よって、だまし能力(幻想価値を生み出す能力)に長け、かつ大きな利益を生む資本を持つ金融が金融資本主義社会を形作ってきました。
2008年のリーマンショックに代表される金融資本主義の崩壊が近づくにつれ、幻想ではない事実を、より本質を求める意識が強まってきました。それを受けて、物事の本質を見極める認識を生み出す「認識生産」の時代へと移行しつつあるのではないかと考えています。より本質を突いた本物の中身を生み出す社会へ。
物事の本質は、歴史を遡っての徹底的な事実の追求がその基盤となります。これは、自然と人間を別のものとみなすキリスト教世界では到底不可能です。共同性が保持され、自然と人間とを同一視する機能が未だ残存している日本人にこそ、認識生産の可能性は与えられているのではないでしょうか。
内藤琢
新聞ってなんでとっているの?
気軽におしゃべりしてみました。
「おくやみ欄があるので」
「チラシがはいっているので」
「テレビ欄があるので」
以上です。
本当にこれしかないの?考えてもこれしか出てきませんでした。
新聞はテレビ欄を見るため。=テレビは新聞記事を動画で見るため。
新聞はチラシを読むため。=テレビはCMを見るため。
すると、おくやみ欄を読むことしか実質的な意義はありません。
おくやみがあればぜひお伝えしたい気持ちや言葉がありますし、祭祀もありますので現実に必要なローカルな速報性はおくやみに限られるということです。
生殺与奪にかかわる戦時中ならともかく、個別事件の共時性は共認支配をする側にしか意味がありません。商品情報の遅れが致命的になることもないでしょう。致命的になるのは売る側つまりスポンサーです。
大量生産計画の見通し、原料輸入、機械稼働率、総賃金、など大量に売る側だけにメリットがあるのがマスコミです。それぞれの集団がそれぞれの広報をすることには限界があるので、広報を一手に引き受けたマスコミが市場における第一権力になったとすれば、貧困の消滅以後の芸能界の衰退や視聴率の低下は当然であり、今ではCGを駆使してありえない世界を描く為に莫大な制作費をかけたり、雲の上のほうにいた大学者を連れてこないと見てくれません。40年前なら視聴率100パーセントに限りなく近い数字を残せたのでしょうね。
今はまだFM放送にとどまっているローカル速報が、ネットワークを形成しつつPC及び携帯にネット配信するようになったらマスコミはお終いです。
マスコミの下請けはもうそつぎょう。下からの共認形成=ローカルネットワークです。
日本だけみても(およそ)
国家 1
地方政府 47
市町村 1800
地域 30000
企業 6000000
人々 130000000
マスコミ
日刊紙(新聞) 121
民放連(テレビ等)201
●国家と国家の二国間共認形成は150の二乗で22500
●市町村と市町村では日本国内で324万
●人と人がおしゃべりすれば1億3000万人の二乗で1京6900兆
みんながみんなと話すことは無理かもしれないけれど、20人の人が20人と話す(20人が話し合う)だけで、かるくマスコミは突破します。るいネット(ひろくインターネット)は本当はもうマスコミを超えているんです。
佐藤英幸
気軽におしゃべりしてみました。
「おくやみ欄があるので」
「チラシがはいっているので」
「テレビ欄があるので」
以上です。
本当にこれしかないの?考えてもこれしか出てきませんでした。
新聞はテレビ欄を見るため。=テレビは新聞記事を動画で見るため。
新聞はチラシを読むため。=テレビはCMを見るため。
すると、おくやみ欄を読むことしか実質的な意義はありません。
おくやみがあればぜひお伝えしたい気持ちや言葉がありますし、祭祀もありますので現実に必要なローカルな速報性はおくやみに限られるということです。
生殺与奪にかかわる戦時中ならともかく、個別事件の共時性は共認支配をする側にしか意味がありません。商品情報の遅れが致命的になることもないでしょう。致命的になるのは売る側つまりスポンサーです。
大量生産計画の見通し、原料輸入、機械稼働率、総賃金、など大量に売る側だけにメリットがあるのがマスコミです。それぞれの集団がそれぞれの広報をすることには限界があるので、広報を一手に引き受けたマスコミが市場における第一権力になったとすれば、貧困の消滅以後の芸能界の衰退や視聴率の低下は当然であり、今ではCGを駆使してありえない世界を描く為に莫大な制作費をかけたり、雲の上のほうにいた大学者を連れてこないと見てくれません。40年前なら視聴率100パーセントに限りなく近い数字を残せたのでしょうね。
今はまだFM放送にとどまっているローカル速報が、ネットワークを形成しつつPC及び携帯にネット配信するようになったらマスコミはお終いです。
マスコミの下請けはもうそつぎょう。下からの共認形成=ローカルネットワークです。
日本だけみても(およそ)
国家 1
地方政府 47
市町村 1800
地域 30000
企業 6000000
人々 130000000
マスコミ
日刊紙(新聞) 121
民放連(テレビ等)201
●国家と国家の二国間共認形成は150の二乗で22500
●市町村と市町村では日本国内で324万
●人と人がおしゃべりすれば1億3000万人の二乗で1京6900兆
みんながみんなと話すことは無理かもしれないけれど、20人の人が20人と話す(20人が話し合う)だけで、かるくマスコミは突破します。るいネット(ひろくインターネット)は本当はもうマスコミを超えているんです。
佐藤英幸
インターネットの双方向性のやり取りに可能性を感じている人々はたくさんいる。mixiやQ&Aサイトはその収束先だろう。一見、新しい関係性を築いているように見えるが、実はこれらの既存コミュニティーサイトはいまだ、市場原理で成り立っている事に気付く。
これらのコミュニティーサイトに無料で参加できるカラクリは、以下の三つの取引関係で構成されているからだ。
・スポンサーとコミュニティーサイトとの広告の取引
・無料で場を利用する利用者と(広告つきの)場を提供するコミュニティーサイトとの取引
・スポンサーと利用者との商品取引
要は、無料でコミュニティーサイトの利用ができるということは、市場の取引関係に乗っかっていることになってしまう。しかもこのような場に参加しているうちは、この構造に目も行かず、市場の本質に気づくことも出来ない。
したがって、無料で参加できる(広告で成り立っている)コミュニティーサイトは、場の「提供者」と「利用者」という取引関係しか構築できず、認識形成サイトのように課題を共認して協働する場になることはできないのではないでしょうか。
萱間直
これらのコミュニティーサイトに無料で参加できるカラクリは、以下の三つの取引関係で構成されているからだ。
・スポンサーとコミュニティーサイトとの広告の取引
・無料で場を利用する利用者と(広告つきの)場を提供するコミュニティーサイトとの取引
・スポンサーと利用者との商品取引
要は、無料でコミュニティーサイトの利用ができるということは、市場の取引関係に乗っかっていることになってしまう。しかもこのような場に参加しているうちは、この構造に目も行かず、市場の本質に気づくことも出来ない。
したがって、無料で参加できる(広告で成り立っている)コミュニティーサイトは、場の「提供者」と「利用者」という取引関係しか構築できず、認識形成サイトのように課題を共認して協働する場になることはできないのではないでしょうか。
萱間直
>マスコミがどう取り上げるかによって国民の意向が大きく変わってしまう。そういう意味では現在の社会システムは「マスコミによる支配」だと言える。
遅ればせながら、近代日本文学の傑作と言われる作品を読んだ。あちこちでクスリ、となったが、思わず太ももを叩いてしまうくだりがあった。
>校長なんて狸の様な顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すれば又悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事もできないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんなものなら、一日も早くぶっ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、すっぽんに喰いつかれるとが似たり寄ったりだと今日只今狸の説明に因って始めて承知つかまった。
~夏目漱石「坊ちゃん」(1906年、明治39年発表)より
日露戦争が終結した1905年(明治38年)、全国の新聞発行部数は163万部に達したという。1990年のピーク時7300万部からみれば大した数字ではないが、当時、すでに漱石は、新聞≒マスコミの持つ暴力性を十分認識していたようだ。
にもかかわらず、翌年、朝日新聞社に入社し、周囲を驚かせている。学者、もっと具体的には東大教授になることが最高の栄誉とされた時代、エリート中のエリートとみなされていた漱石の行動は「英断」とまで評されたらしい。
>大学は名誉ある学者の巣を喰っている所かもしれない。尊敬に価する教授や博士が穴籠りをしている所かも知れない。二三十年辛抱すれば勅任官になれる所かも知れない。其他色々便宜のある所かも知れない。成程そう考えてみると結構な所である。赤門を潜り込んで、講座へ這い上がろうとする候補者は―勘定して見ないから、幾人あるか分からないが、一々聞いて歩いたら余程ひまを潰す位に多いだろう。(略)
新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差だけである。
夏目漱石「入社の辞」(1907年、明治40年)より
要するに大学屋も新聞屋も「目くそ、鼻くそを笑う」、というところだったのだろう。あるいは御上の庇護がないだけ新聞屋がマシということか。
では、御上をも牛耳る現代のマスコミの姿と、それに対する生活者たちのネットでの反撃を、どう見るだろうか?
>近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。教える為め、又は修養の為め、書物も読まなければ世間へ対して面目がない。(同上より)
人間生活を営むとは発信し受信することに他ならない、これなくしては生きているとはいえない。そのことを明晰に理解していた漱石は、万人に開かれた認識形成の場を大歓迎するにちがいない。
阿部佳容子
遅ればせながら、近代日本文学の傑作と言われる作品を読んだ。あちこちでクスリ、となったが、思わず太ももを叩いてしまうくだりがあった。
>校長なんて狸の様な顔をして、いやにフロック張っているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせる事が出来ない。あんまり腹が立ったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると云ったら、それはいかん、君が談判すれば又悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事もできないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんなものなら、一日も早くぶっ潰してしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、すっぽんに喰いつかれるとが似たり寄ったりだと今日只今狸の説明に因って始めて承知つかまった。
~夏目漱石「坊ちゃん」(1906年、明治39年発表)より
日露戦争が終結した1905年(明治38年)、全国の新聞発行部数は163万部に達したという。1990年のピーク時7300万部からみれば大した数字ではないが、当時、すでに漱石は、新聞≒マスコミの持つ暴力性を十分認識していたようだ。
にもかかわらず、翌年、朝日新聞社に入社し、周囲を驚かせている。学者、もっと具体的には東大教授になることが最高の栄誉とされた時代、エリート中のエリートとみなされていた漱石の行動は「英断」とまで評されたらしい。
>大学は名誉ある学者の巣を喰っている所かもしれない。尊敬に価する教授や博士が穴籠りをしている所かも知れない。二三十年辛抱すれば勅任官になれる所かも知れない。其他色々便宜のある所かも知れない。成程そう考えてみると結構な所である。赤門を潜り込んで、講座へ這い上がろうとする候補者は―勘定して見ないから、幾人あるか分からないが、一々聞いて歩いたら余程ひまを潰す位に多いだろう。(略)
新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差だけである。
夏目漱石「入社の辞」(1907年、明治40年)より
要するに大学屋も新聞屋も「目くそ、鼻くそを笑う」、というところだったのだろう。あるいは御上の庇護がないだけ新聞屋がマシということか。
では、御上をも牛耳る現代のマスコミの姿と、それに対する生活者たちのネットでの反撃を、どう見るだろうか?
>近来の漱石は何か書かないと生きている気がしないのである。教える為め、又は修養の為め、書物も読まなければ世間へ対して面目がない。(同上より)
人間生活を営むとは発信し受信することに他ならない、これなくしては生きているとはいえない。そのことを明晰に理解していた漱石は、万人に開かれた認識形成の場を大歓迎するにちがいない。
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