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社会意識が高く、色々と勉強して自分の考えを拡げようとしている人々に会う機会が増えた。彼らの基本的な論調は「世の中の~がおかしい。だから私は・・・すべきだと思う」というものである。その活動の中心には知力、行動力ともに優れた人がいるケースが多いのだが、その手ごたえを問うと「周りはあまりついてきてくれない」という。その原因について考えていた時、以下の文章が目に留まった。

>『可能性を感じさせる、深い=新しい認識』こそ、実現派を主対象とする「運動」に相応しい目的である。
それに対して、不全発の「変革の必要」では、否定意識に閉ざされた思想派しか集まらず、全く可能性が感じられない。しかも、否定意識や不可能視に囚われているので、『新しい認識』が与えられても半信半疑のままで終始し、必要な行動に至らない。

ここで気づいたのは、上記の人々の主張は「不全発の変革の必要」ではないか、ということである。「みんなどう思ってる?」ではなく、自分が妙だと思う事象のみを取り上げて「ここがおかしい!だからこうしよう!」となる。傍から見れば独りよがりな主張なのかもしれない。「自分」が不満に思うことを「自分」の理想に変革しようとするのだから、どんなに本人が声高に主張をしても、それに可能性を感じられない人が多いのは自明の理だろう。

しかし冷静に考えてみれば、人に必死に押し付けなくても理解してもらえるような意見こそが現在求められているのではないだろうか?それこそが「可能性を感じさせる、深い=新しい認識」であり、主張の前に必要なものだと思われる。

そう、必要なのは「変革」を声高に主張する態度ではなく、新しい認識を必要だと感じ、皆で一緒に追求していく姿勢である。皆で「何がおかしい?」「なんでおかしい?」「どうすればいい?」を考え抜いた先に、可能性のある認識があるはずである。
声を荒げて独りよがりの変革を主張するよりも、皆で新しい認識を追求するという過程を経る方が「真の変革」に繋がるのではないだろうか。





小西良明
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『寄り合い』と現代日本の『政治(国会)』の違いを仲間と考えてみた。

★村落共同体の寄り合い          
・何で? :共同体が適応するため。集団統合のため。
・いつ? :必要に応じて。
・どの様に:合議。
・決定方法:最良の内容だと参加者全員が評価したもの。
      (最終判断は長老に委ねられる事もある)
・人数は?:少数。全てが深く課題共認できる人数規模。
・意識は?:当事者。
・運営原理:共認原理。

★現代日本の国会
・何で? :国を統合するため。
・いつ? :概ね決まっている期間。国民は選挙の時だけ政治参加。
・どの様に:基本的に合議だが、多くは多数決。
・決定方法:最終的には多数決。
・人数は?:大人数。万人が中身を深く共認するのは難しい規模。
・意識は?:国民は傍観者。4年に1回、誰か(の案)を選ぶ。
・運営原理:序列原理。

※現代の国会や選挙という「民主主義」に基づく政治システムは、共認原理による「寄り合い」を下敷きにして、全員参加の手段になっているかのように見えるが“欺瞞”である。「民主」とは名ばかりで、庶民を傍観者に陥れ、統合者が“支配”するのに都合が良い仕組みになっている。多数決という数による序列原理で運営されているのが実態である。





佐藤賢志
最近友達に遊びに誘われると、嬉しいような、面倒くさいような、微妙な心境になる。
確かに遊びに行きたい気持ちはあるし、誘われた事に対して嬉しい気持ちも自身の中にあるように感じる。
しかし、同時に「遊ぶのめんどいなぁ・・・」「遊ぶ時間をもっと有意義に使えんかなぁ・・・」と思っている自分もいる。
結局、誘いを断りたくないので遊ぶのだが、遊んでいる最中でさえ「早く帰りたい」とか考えてしまっていたりする。

思うに、「解脱では社会不全は統合できない」という事を、既に潜在思念が捉えているのだと思う。

それに最近は遊びに誘ってくる友達でさえも、「気楽に遊んでいて良いのだろうか?」みたいな事を言っている。

解脱収束から外向収束、外向仲間収束、そして認識仲間収束へと転換していくのは、もはや時間の問題なのだと思った。







匿名希望
るいネットに可能性はあるのか。ちょっと実現論を引用しますね。

>我々の提起が、どこまでの共認闘争圧力を作り出せるかは、実践してみなければ分からない。新たな共認圧力は、新たな認識パラダイムを構築し得た者が、敢えて共認上の乱を興すことによってしか、形成されてゆかないが、正直なところ、それが我々であるのかどうかは大いに疑問である。言うまでもなく、それは我々でなくても、答えを見付けた人なら誰でも良い。それは天のみが知るところである。しかし、これまでのところ、どこからも提起はなく、何の運動も興っては来なかった。しかも、事態は切迫している。とすれば、我々が共認上の乱を興すしかない。成るか成らないかは、誰にも分からない。しかし、可能性がそれ以外になく、かつそこに僅かでも可能性があれば、それは必然となる。それが、実現の原理である。(実現論4_5_08)

だから同類他者をたくさん作りだす必要があるのですね。何とかしたいと想うからこそ、現在のるいネットおよびそのベクトルに可能性がるのか≒あってほしいと想って投稿するんですよね!

私は、私も自分かどうかは大いに疑問ですが、誰かが何とかしてくれると期待するだけでは不充分なので、建設的に同類他者になろうと考えています。同類他者になるのって、肯定視⇒共認回路再生⇒観念機能!!なので、観念機能からの肯定視はなかなか難問だよ。(それで、否定を否定するという、一次元低い課題で観念機能を使います☆)

ところで潜在思念は、自我でも共認でも発達します。旧い共認を新しい自我が塗り替えることもあると思う。しかし、それを実現するのは、古い現実の真っただ中に忽然ともっとよい方法を提示した、そしてそれが受け入れられたということなのです。

つまり、新しい自我が受け入れられる前に旧い現実の不全を解決するための可能性を提示するための、共認の場にいたということです。

肯定視が必要な理由は、共認の摂理です。

「肯定視しなければ、不全はまったく見えてこない。なぜならば、肯定視の地平に人類の期待があるから」だと考えています。





佐藤英幸
>しかし、万人が主権を行使する場は4年に一度の選挙しかない。誤魔化しも甚だしい。思想・表現の自由はマスコミに共認形成の場を支配され、思考停止に陥って機能していない。
「共認原理の政治的表現」としての民主主義は、幻想に過ぎないと言うのが現実なのだ。

まさにその通りだと思います。
現実は、4年に一度の投票すらあやしい・・・。
というのもそもそも一般に人には政治が遠い存在になってしまっているから。というのは・・・。

>しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。

・・・だから。
マスコミ・学者・政治家が全く答えを出せない=全面閉塞状況となってしまった今、違和感や実感を出し合い人々が自ら考えて答えを出していく以外に可能性は残されていないですね。みんなが当事者となり、事実認識を元にして答えを出していく本来の共認原理の政治=民主主義は、まさにこれから始まろうとしているのではないだろうか。





渡邊真也
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