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図解
http://www.rui.jp/docs/link/okada010817.html
☆本当に、ネットとは別の、変革組織が必要なのか?そういう発想は、古いのでは?
①社会統合を担う中枢はネットであり、現状のネットは人々が社会探索を始めた段階(注目すべき人や活動や情報を探し始めた段階)で、未だ極めて流動的であるとすれば、現在は極めて緩やかな繋がり(=最も基礎的な認知共認)を形成してゆくこと(云わば、顔見知りになること)が、最も大切な段階だと見るべきだろう。
http://www.rui.jp/docs/link/okada010817.html
☆本当に、ネットとは別の、変革組織が必要なのか?そういう発想は、古いのでは?
①社会統合を担う中枢はネットであり、現状のネットは人々が社会探索を始めた段階(注目すべき人や活動や情報を探し始めた段階)で、未だ極めて流動的であるとすれば、現在は極めて緩やかな繋がり(=最も基礎的な認知共認)を形成してゆくこと(云わば、顔見知りになること)が、最も大切な段階だと見るべきだろう。
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多くの人が集い、互いに同じテーマを巡って意見を発信し合う。そんな”るいネット”を見ていて、「これは社会の雛型そのものかもしれない」と思えてきました。
「社会とは人の集まりである」と、今まで言葉ではよく聞かされていましたが、少なくても私にとっては、それは殆ど実感が伴ったものではありませんでした。
それはおそらく、「社会」という体感共認を越えた次元から人を見た場合、”都会の雑踏”に象徴される様に、各々がバラバラの個人であり、およそまとまりと秩序を伴ったものには見えなかったからだろうと思います。つまり人はいるが、共認も役割もない、そんなイメージでしょうか。
「社会とは人の集まりである」と、今まで言葉ではよく聞かされていましたが、少なくても私にとっては、それは殆ど実感が伴ったものではありませんでした。
それはおそらく、「社会」という体感共認を越えた次元から人を見た場合、”都会の雑踏”に象徴される様に、各々がバラバラの個人であり、およそまとまりと秩序を伴ったものには見えなかったからだろうと思います。つまり人はいるが、共認も役割もない、そんなイメージでしょうか。
誰もが潜在思念で本質や可能性を捉える。
その潜在思念を顕在化させるというときに、次は当然“観念化”の過程だと考えがちでした。
でもそうではなく、顕在化の第一歩は、集結(収束?結集?)させることなのではないかと感じ始めました。
そのきっかけは、二つです。
その潜在思念を顕在化させるというときに、次は当然“観念化”の過程だと考えがちでした。
でもそうではなく、顕在化の第一歩は、集結(収束?結集?)させることなのではないかと感じ始めました。
そのきっかけは、二つです。
>変革気運、社会感心の高まりの急激な上昇は、明らかであり、非常に可能性を感じます
『小泉氏の街頭演説に3万人が集まり、人気歌手の小柳ゆきが「首相に負けずに!」とコンサートを盛り上げる…。』昨日のスポーツ新聞の記事です。今や大衆にとって芸能界と政界は同レベルに来た感さえありますね。しかし…
>まず、その大半があくまでも観客的な評価者のレベルに留まっている点、また、
>その活力源たる”繋がりたい欠乏”には目を見張るものがあるが、問題意識→運動論が固定化(観念化)されていないがために、何らかの収束に向かう気配が感じられない・・・という点に問題を感じます。
かつて芸能スターは天上人でしたが、今は一億総芸能人時代と言われています。誰もがスターになれる“可能性”が開かれた時代、雨後の筍のように世の中は自称アーティストや素人タレントだらけですが、やっぱりそれなりに大衆評価のヒエラルキーは形成されているように思います。ひょっとして、今の芸能界が「自分たちの評価共認形成」に最も近い現存モデルなのかも知れません。
田中康夫、大橋巨泉氏など芸能人の政界進出や小泉氏の“国民的アイドル化”で、少なくとも政治という社会統合課題が大衆に身近なものになってきたのは間違いありません。今の小泉演説の盛り上がりをかつての美空ひばりのコンサートに例えれば、いずれは一億総“社会統合家”時代が訪れても良さそうなものですが、何が違うのでしょうか?
解脱と闘争という違い、課題の難易度の違いetcが考えられますが、敢えてここは、「本質的には同じである」という仮説に立ってみたいと思います。
大衆的「関心」においては芸能も社会統合も同じレベルに来たとします。次に、芸能人が大衆化したのは、クラブやホコ天などすぐに参加できる活動の「場」が至る所に形成されたことと、それを全国レベルに吸い上げるオーディションシステムが一般化した点にあります。その背景には、タレントに“身近さ”(=素人性)を求める大衆ニーズがありますが、今の小泉フィーバーにもややその傾向が感じられます。
社会統合においても、今求められているのは、この「身近な発信の場」と「オーディション機構」の2つなのではないかと思います。大仰な観念も課題意識も必要ない。レベルは違えど、何らかの社会的活動を通じて期待応望関係が生み出される場と、その活動成果を大衆評価に晒し、個人やグループをより上位のレベルに抜擢するシステム。このようなものを考えた時、インターネットは「虚」の世界から脱し、最大の力を発揮するのではないかと思います。
田中素
『小泉氏の街頭演説に3万人が集まり、人気歌手の小柳ゆきが「首相に負けずに!」とコンサートを盛り上げる…。』昨日のスポーツ新聞の記事です。今や大衆にとって芸能界と政界は同レベルに来た感さえありますね。しかし…
>まず、その大半があくまでも観客的な評価者のレベルに留まっている点、また、
>その活力源たる”繋がりたい欠乏”には目を見張るものがあるが、問題意識→運動論が固定化(観念化)されていないがために、何らかの収束に向かう気配が感じられない・・・という点に問題を感じます。
かつて芸能スターは天上人でしたが、今は一億総芸能人時代と言われています。誰もがスターになれる“可能性”が開かれた時代、雨後の筍のように世の中は自称アーティストや素人タレントだらけですが、やっぱりそれなりに大衆評価のヒエラルキーは形成されているように思います。ひょっとして、今の芸能界が「自分たちの評価共認形成」に最も近い現存モデルなのかも知れません。
田中康夫、大橋巨泉氏など芸能人の政界進出や小泉氏の“国民的アイドル化”で、少なくとも政治という社会統合課題が大衆に身近なものになってきたのは間違いありません。今の小泉演説の盛り上がりをかつての美空ひばりのコンサートに例えれば、いずれは一億総“社会統合家”時代が訪れても良さそうなものですが、何が違うのでしょうか?
解脱と闘争という違い、課題の難易度の違いetcが考えられますが、敢えてここは、「本質的には同じである」という仮説に立ってみたいと思います。
大衆的「関心」においては芸能も社会統合も同じレベルに来たとします。次に、芸能人が大衆化したのは、クラブやホコ天などすぐに参加できる活動の「場」が至る所に形成されたことと、それを全国レベルに吸い上げるオーディションシステムが一般化した点にあります。その背景には、タレントに“身近さ”(=素人性)を求める大衆ニーズがありますが、今の小泉フィーバーにもややその傾向が感じられます。
社会統合においても、今求められているのは、この「身近な発信の場」と「オーディション機構」の2つなのではないかと思います。大仰な観念も課題意識も必要ない。レベルは違えど、何らかの社会的活動を通じて期待応望関係が生み出される場と、その活動成果を大衆評価に晒し、個人やグループをより上位のレベルに抜擢するシステム。このようなものを考えた時、インターネットは「虚」の世界から脱し、最大の力を発揮するのではないかと思います。
田中素
☆では、情報価値とは何か?
●知識は、生産活動(自然闘争)上、不可欠なものであり、情報は社会を対象化する上で、不可欠なものである。
●かつての素晴らしい知恵は、体験を伴わない机上の知識となり、更には電空上(画上)の情報となった。しかも、不要な知識や情報が多すぎる。
●知識は、生産活動(自然闘争)上、不可欠なものであり、情報は社会を対象化する上で、不可欠なものである。
●かつての素晴らしい知恵は、体験を伴わない机上の知識となり、更には電空上(画上)の情報となった。しかも、不要な知識や情報が多すぎる。
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