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>ネットで社会の意識が上昇してきたら、人々の意識の中から「過剰は問題源」という意識が浸透すれば、変わってくるだろうという現実感が得られます。<
現実感や実感は、新しい社会を実現してゆく上で、というより、人が何かに収束してゆく動機付けとして、肝心なものだと思います。ただ、「過剰は問題源」という意識は、結構浸透してきているし、逆にいえばその問題意識だけを声高に主張してきたのが現在の環境運動のドグマとなっているのではないでしょうか。
生産と消費を内包した単位集団、というだけでは、私も現実感に乏しいと思います。「過剰は問題源」という問題意識と、「単位集団の実現」とのギャップを繋ぐ必要があるように思います。
少し前に議論されていた、過剰消費の動機=代償充足と、それに代わる共認充足という視点がここに必要になってきます。充実した共認充足が、過剰を必要としない状況を作り、その共認充足の場が、新しい集団をつくってゆくのではないでしょうか。(共認充足の中身としては、大きくは社会統合過程(まつり)への参加から、個別には自然や人との交歓による解脱、あるいは仕事場面での応望充足などが考えられます。)
馬場真一
現実感や実感は、新しい社会を実現してゆく上で、というより、人が何かに収束してゆく動機付けとして、肝心なものだと思います。ただ、「過剰は問題源」という意識は、結構浸透してきているし、逆にいえばその問題意識だけを声高に主張してきたのが現在の環境運動のドグマとなっているのではないでしょうか。
生産と消費を内包した単位集団、というだけでは、私も現実感に乏しいと思います。「過剰は問題源」という問題意識と、「単位集団の実現」とのギャップを繋ぐ必要があるように思います。
少し前に議論されていた、過剰消費の動機=代償充足と、それに代わる共認充足という視点がここに必要になってきます。充実した共認充足が、過剰を必要としない状況を作り、その共認充足の場が、新しい集団をつくってゆくのではないでしょうか。(共認充足の中身としては、大きくは社会統合過程(まつり)への参加から、個別には自然や人との交歓による解脱、あるいは仕事場面での応望充足などが考えられます。)
馬場真一
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人類は集団の中でのみ生きることができます。集団は、統率する=生きるために、何らかのルール(制度)を必要とします。このルールは、人々の価値意識(善悪の判断)に影響を与えます。誰も無視することはできませんし、同じ場にいながら、ルールの内にいる人、外にいる人というように対象を分けることもできません。このルールは、共認によるもの(=皆の意識)だからです。
ルールを守らない人には、ルールを守らないことによるマイナスの圧力が人々から向けられます。ルールを守らなくても、十分なマイナスの価値判断が下されなくなれば、それは形骸化したと言われます。共認の中身そのものが失われたのです。(皆の意識ではなくなった)
形骸化したからといって、別の新しいルール(制度)が生まれているわけではありません。また、形骸化したものが復活することも期待できません。無秩序化し、否定や妥協が蔓延しているのが実状です。そこから新しい状況に即したルールが生まれるためには、統率の必要性を生むための新しい状況に対する認識が必要です。
つまり、男女の性的充足のみならず、集団の統率のための共認充足という視点が必要です。現在の人々の意識に対して、いずれの充足も満たす関係とはどのような関係か、これがいま求められている問いではないでしょうか?
福田尚正
ルールを守らない人には、ルールを守らないことによるマイナスの圧力が人々から向けられます。ルールを守らなくても、十分なマイナスの価値判断が下されなくなれば、それは形骸化したと言われます。共認の中身そのものが失われたのです。(皆の意識ではなくなった)
形骸化したからといって、別の新しいルール(制度)が生まれているわけではありません。また、形骸化したものが復活することも期待できません。無秩序化し、否定や妥協が蔓延しているのが実状です。そこから新しい状況に即したルールが生まれるためには、統率の必要性を生むための新しい状況に対する認識が必要です。
つまり、男女の性的充足のみならず、集団の統率のための共認充足という視点が必要です。現在の人々の意識に対して、いずれの充足も満たす関係とはどのような関係か、これがいま求められている問いではないでしょうか?
福田尚正
「現実捨象の倒錯観念から観念捨象の現実直視へ」と提言された四方氏から、続けて「現実とは人々の意識である」との明言で、それでは「我々はこれからどのようになすべきか?」についての具体的な方向性を示して頂いたと思います。
>今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。
これまで漠然としていた「現実」というものが、鮮明になり明確なものとして捉えることが出来るようになりました。貧困の消滅以降、生存圧力(=自然圧力)から同類圧力(=共認圧力)へとパラダイムが大転換したにもかかわらず、意識だけは何も転換していなかったことに改めて気づかされ愕然としました。
>実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。
「現実」は自分自身も含めて、全ての人々にとって「主体」である。従って、「社会変革」も全ての人々が「主体」となって関わるべきものである。と確信しました。
これまでは、「社会」や「政治」といへば「現実」から少し離れたもの、自分が関わらなくても誰かがやってくれるもの、とのあくまでも「客体」であり「傍観者」であったことを否定できません。そして、その立場を守りつつ、政治・社会・教育や環境についての解説や批評だけはする。「一億総評論家」という風刺の言葉がありますが、これこそ私も含めて多くの現代人が陥っている「現実否定の倒錯思考」状態だと思います。
「現実とは人々の意識である」ならば、この「るいネット」で可能なことは、全ての人々が主体となって、この新しい認識をいかに分かり易く、心に響く言葉で伝えていくかということ。
それによって人々の意識の転換を促し、その支流が本流へと合流し大河を形成し時代を飲み込む一大潮流となる。これこそ「社会変革」が旧来の「欺瞞観念」からではなく、人々の「意識」から出発するということではないでしょうか?
大木康子
>今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。
これまで漠然としていた「現実」というものが、鮮明になり明確なものとして捉えることが出来るようになりました。貧困の消滅以降、生存圧力(=自然圧力)から同類圧力(=共認圧力)へとパラダイムが大転換したにもかかわらず、意識だけは何も転換していなかったことに改めて気づかされ愕然としました。
>実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。
「現実」は自分自身も含めて、全ての人々にとって「主体」である。従って、「社会変革」も全ての人々が「主体」となって関わるべきものである。と確信しました。
これまでは、「社会」や「政治」といへば「現実」から少し離れたもの、自分が関わらなくても誰かがやってくれるもの、とのあくまでも「客体」であり「傍観者」であったことを否定できません。そして、その立場を守りつつ、政治・社会・教育や環境についての解説や批評だけはする。「一億総評論家」という風刺の言葉がありますが、これこそ私も含めて多くの現代人が陥っている「現実否定の倒錯思考」状態だと思います。
「現実とは人々の意識である」ならば、この「るいネット」で可能なことは、全ての人々が主体となって、この新しい認識をいかに分かり易く、心に響く言葉で伝えていくかということ。
それによって人々の意識の転換を促し、その支流が本流へと合流し大河を形成し時代を飲み込む一大潮流となる。これこそ「社会変革」が旧来の「欺瞞観念」からではなく、人々の「意識」から出発するということではないでしょうか?
大木康子
>それぞれの運動の目的が、それぞれの運動の枠を超えて連携するように感じられない。
>次につながるように感じられないからだ。
それはたぶん自分発の運動だからだと思います。まず自身の不全があり、同じ不全を抱えた人々を探し、拡大していく。だから、不全が消えたとき運動も終わるのだと思います。
また、運動の特徴として同じ課題を抱えなければ、集合できないようです。だから連携できない。
これからの運動は、自分発では、難しいのでしょうし、社会全体が共通の課題を抱えている今こそ展開して行けるのだと思います。
谷崎俊文
>次につながるように感じられないからだ。
それはたぶん自分発の運動だからだと思います。まず自身の不全があり、同じ不全を抱えた人々を探し、拡大していく。だから、不全が消えたとき運動も終わるのだと思います。
また、運動の特徴として同じ課題を抱えなければ、集合できないようです。だから連携できない。
これからの運動は、自分発では、難しいのでしょうし、社会全体が共通の課題を抱えている今こそ展開して行けるのだと思います。
谷崎俊文
「社会」とは、政治家や学者など「社会」統合を担う専門家と、「社会」を忌避しようとする、われわれ素人とを分け隔てするための概念装置とも言える。したがって「社会」と言った途端、本来対象化すべき現実はどんどん遠ざかっていってしまう。
それが、
>普通の人にとって、「社会のことを対象として見ることが容易でない」という現実となって立ち現れる。
構造認識とは、本能や共認機能では捉えられない対象を捉えるためのもの。そして新しい構造認識の地平においては、倒錯した「社会」という概念自体の否定はできても、現実から遊離した「社会」や「変革」を語る意味など実は無いのだろう。
身近な人間関係から、果ては国家間の関係に至るまでをも構造化した、極めて普遍性の高い認識が真の構造認識(実現論)であって、倒錯した「社会」や抽象的な「世間」なんてものを語らずとも、目の前の相手が抱えている現実の課題を共有できれば、構造認識を語れる場は案外多いのではないかと思う。
鈴木隆史
それが、
>普通の人にとって、「社会のことを対象として見ることが容易でない」という現実となって立ち現れる。
構造認識とは、本能や共認機能では捉えられない対象を捉えるためのもの。そして新しい構造認識の地平においては、倒錯した「社会」という概念自体の否定はできても、現実から遊離した「社会」や「変革」を語る意味など実は無いのだろう。
身近な人間関係から、果ては国家間の関係に至るまでをも構造化した、極めて普遍性の高い認識が真の構造認識(実現論)であって、倒錯した「社会」や抽象的な「世間」なんてものを語らずとも、目の前の相手が抱えている現実の課題を共有できれば、構造認識を語れる場は案外多いのではないかと思う。
鈴木隆史
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