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さて、今回は厳密な概念区分に拘らずに、比喩的にいってみましょう。
極めて平たく言うと、私は地域の共通課題は「意図的にコミュニケーションを維持し続ける事」である、と思っています。
繰り返しになりますが、問題点は生活が「生産」「生殖」「遊び」「学び」・・・といった各々のモードに細切れにされ、それぞれのモードで「それ専用」の集団なり空間なりがあり、結果として生活が分断され、統合されていない、という点にあります。いわば現代人は多重人格者である事を強要されているようなものだと思います。
そのような状況を打開するために、(タテに分割された生活をヨコに繋ぐために、)「コミュニケーションを維持し続ける事が非常に大切」と全員が認識することが重要なのだ思います。とりあえず内容は問いません。なぜなら、これはいわば「災害に備えて非常持ち出し袋を常備しておく」といった、「備え」にあたる行為だからです。「いざ問題が持ち上がったときに、即座に『答えの教えあい』ができるような体勢を作り、それを維持しておく事」が、地域の課題である、といってもいいかもしれません。
例えば、「道行く親子連れに、打ち水をしている商店主が何気なく声をかける」といった光景が、現代ではほぼ完全に崩壊してしまっています。タイムスリップして、その商店主に「今、なぜ声をかけたのですか?」と問い掛けても、きっと商店主は答えられないでしょう。なぜなら、それが彼にとって当たり前」だから。
現代人が大変なのは、かつて「当たり前」であった、普遍的でとても大切なことをすっかり忘れて、その大切さを一つ一つ頭で確認しながら実行していかなければならないからです。「都心のオフィス街で、ビルから出てきた人にフリーターが声をかける」なんて事、とても考えられないですが、おそらくそういった事が大切なのだと思います。
「若者の仲間収束」が一つの可能性として語られるのも、彼らはこういった「忘れてしまった大切さ」を本能的に感じ取り、部分的にでも実行しているから、なのかもしれません。
拙稿で失礼ですが、例えばネイティブアメリカンはその重要性を十二分にわかっています。
>「ネイティブ・アメリカンの一族が集まる定例のミーティングがある、というので、連れて行ってもらった。集会所のようなところで、皆が集まっていて、世間話をしている。おかしなことに、予定の時間が過ぎても一向に「ミーティング」が始まらない。変だと思ってしばらく待っていたのだが、突然誰かが、「今日はいいミーティングだった!」と言って、そのまま皆帰ってしまった。つまり、彼らにとっては「ただ集まって話すこと=ミーティング」であったのだ。」(8228)<
三宅秀和
極めて平たく言うと、私は地域の共通課題は「意図的にコミュニケーションを維持し続ける事」である、と思っています。
繰り返しになりますが、問題点は生活が「生産」「生殖」「遊び」「学び」・・・といった各々のモードに細切れにされ、それぞれのモードで「それ専用」の集団なり空間なりがあり、結果として生活が分断され、統合されていない、という点にあります。いわば現代人は多重人格者である事を強要されているようなものだと思います。
そのような状況を打開するために、(タテに分割された生活をヨコに繋ぐために、)「コミュニケーションを維持し続ける事が非常に大切」と全員が認識することが重要なのだ思います。とりあえず内容は問いません。なぜなら、これはいわば「災害に備えて非常持ち出し袋を常備しておく」といった、「備え」にあたる行為だからです。「いざ問題が持ち上がったときに、即座に『答えの教えあい』ができるような体勢を作り、それを維持しておく事」が、地域の課題である、といってもいいかもしれません。
例えば、「道行く親子連れに、打ち水をしている商店主が何気なく声をかける」といった光景が、現代ではほぼ完全に崩壊してしまっています。タイムスリップして、その商店主に「今、なぜ声をかけたのですか?」と問い掛けても、きっと商店主は答えられないでしょう。なぜなら、それが彼にとって当たり前」だから。
現代人が大変なのは、かつて「当たり前」であった、普遍的でとても大切なことをすっかり忘れて、その大切さを一つ一つ頭で確認しながら実行していかなければならないからです。「都心のオフィス街で、ビルから出てきた人にフリーターが声をかける」なんて事、とても考えられないですが、おそらくそういった事が大切なのだと思います。
「若者の仲間収束」が一つの可能性として語られるのも、彼らはこういった「忘れてしまった大切さ」を本能的に感じ取り、部分的にでも実行しているから、なのかもしれません。
拙稿で失礼ですが、例えばネイティブアメリカンはその重要性を十二分にわかっています。
>「ネイティブ・アメリカンの一族が集まる定例のミーティングがある、というので、連れて行ってもらった。集会所のようなところで、皆が集まっていて、世間話をしている。おかしなことに、予定の時間が過ぎても一向に「ミーティング」が始まらない。変だと思ってしばらく待っていたのだが、突然誰かが、「今日はいいミーティングだった!」と言って、そのまま皆帰ってしまった。つまり、彼らにとっては「ただ集まって話すこと=ミーティング」であったのだ。」(8228)<
三宅秀和
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阪本さんの22183"構造認識の最良のメディアは「人」そのもの"を読んで、同意できる部分と少し違和感(懸念)の残る部分があった。
同意できる部分は、(私なりの解釈が入っていますが)構造認識が表現すべき生々しい生きた現実は、生きた「言葉」によって語られるのが相応しい、という部分である。
しかし逆に違和感が残ったのは、例えば
>一番早い方法は、普通の会話をする中で(その話のネタは、政治や経済の話から、仕事や家庭の話でもなんでもいいのだが)、突き当たっている問題点なり悩みなりに対して、「それはこう考えたらいいんじゃないの?」という「答え」を出してみることじゃなかろうか?
である。
何故違和感を感じたか。それは、日常会話で出てくる政治や経済の話しは大概いわゆる与太話である。つまり「政治が悪い」だの、「景気が悪い」だの全ては愚痴の延長か他人事、つまり自分で状況を切り開こうとする文脈で出てくることがまず滅多にないからだ。
ましてや仕事や家庭の話等の悩み事に至っては、大半が人間関係に起因する問題である。つまり全てが私的な不全の問題である。
この問題に解答を与えようとすれば、原因分析が必要で
>しかもやっかいなことに、この古いパラダイムの中身は、実は人それぞれの生い立ちや経験によって、微妙に違うのが当たり前。
なので、有効な=つまり相手の性格構造を変えられ、かつこじれた現実の人間関係を解きほぐす程の解答に至るのは、経験上極めて困難である。
(もっともこれらの点は、私は根が面度くさがりで、不精なこともあってよき相談相手などに到底なれそうにないという理由も大きいとは思うが・・・。)
私は結局自分が確かに得心した事や、可能性を感じた事しか話せないのではないかと思う。
好意からではあれ、相手の私的不全を対象化すればするほど、パラダイム転換とは逆の旧いパラダイムの泥沼にはまっていくような気がする。
かつ相手が日常生活や私的悩みで役に立つ事=その次元で「認識の実用性」をこちらに期待されているのであれば、構造認識は結局「役に立たない」ことになりかねない。(殆どの人間は現に私権社会の制度と人間関係のしがらみの中で現実に生きているわけだから)
我々が対象とすべきは、あるいは答えを紡ぎ出すべきは、そのような旧い(私的不全の)パラダイムから一歩越え出たところにあるのではないだろうか。その次元で本源収束や社会収束の「新しい生き方の可能性を語る」ことが求められているのではないだろうか?そのような新しい可能性を拓くための、状況認識の転換を語る事が求められているのではないだろうか?
北村浩司
同意できる部分は、(私なりの解釈が入っていますが)構造認識が表現すべき生々しい生きた現実は、生きた「言葉」によって語られるのが相応しい、という部分である。
しかし逆に違和感が残ったのは、例えば
>一番早い方法は、普通の会話をする中で(その話のネタは、政治や経済の話から、仕事や家庭の話でもなんでもいいのだが)、突き当たっている問題点なり悩みなりに対して、「それはこう考えたらいいんじゃないの?」という「答え」を出してみることじゃなかろうか?
である。
何故違和感を感じたか。それは、日常会話で出てくる政治や経済の話しは大概いわゆる与太話である。つまり「政治が悪い」だの、「景気が悪い」だの全ては愚痴の延長か他人事、つまり自分で状況を切り開こうとする文脈で出てくることがまず滅多にないからだ。
ましてや仕事や家庭の話等の悩み事に至っては、大半が人間関係に起因する問題である。つまり全てが私的な不全の問題である。
この問題に解答を与えようとすれば、原因分析が必要で
>しかもやっかいなことに、この古いパラダイムの中身は、実は人それぞれの生い立ちや経験によって、微妙に違うのが当たり前。
なので、有効な=つまり相手の性格構造を変えられ、かつこじれた現実の人間関係を解きほぐす程の解答に至るのは、経験上極めて困難である。
(もっともこれらの点は、私は根が面度くさがりで、不精なこともあってよき相談相手などに到底なれそうにないという理由も大きいとは思うが・・・。)
私は結局自分が確かに得心した事や、可能性を感じた事しか話せないのではないかと思う。
好意からではあれ、相手の私的不全を対象化すればするほど、パラダイム転換とは逆の旧いパラダイムの泥沼にはまっていくような気がする。
かつ相手が日常生活や私的悩みで役に立つ事=その次元で「認識の実用性」をこちらに期待されているのであれば、構造認識は結局「役に立たない」ことになりかねない。(殆どの人間は現に私権社会の制度と人間関係のしがらみの中で現実に生きているわけだから)
我々が対象とすべきは、あるいは答えを紡ぎ出すべきは、そのような旧い(私的不全の)パラダイムから一歩越え出たところにあるのではないだろうか。その次元で本源収束や社会収束の「新しい生き方の可能性を語る」ことが求められているのではないだろうか?そのような新しい可能性を拓くための、状況認識の転換を語る事が求められているのではないだろうか?
北村浩司
人々が一番求めており、可能性を感じるのがパラダイム転換の言葉なら、その認識を教え広めることが(=人々の期待に応えることが)最大の活力源=動因になる筈である。
人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。
つまり、まず最初の言葉(=パラダイム転換の認識)を与えた時から答え欠乏が顕在化し、より具体的な言葉を与える度に答え期待が強くなってゆく。
相手との関わりの中で顕在化し強まってゆくこの顕現期待こそ、実現派の最も大きな活力源となる。
四方勢至
人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。
つまり、まず最初の言葉(=パラダイム転換の認識)を与えた時から答え欠乏が顕在化し、より具体的な言葉を与える度に答え期待が強くなってゆく。
相手との関わりの中で顕在化し強まってゆくこの顕現期待こそ、実現派の最も大きな活力源となる。
四方勢至
●現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。
●人々が(意識の最も深い所で)求めていたものこそ、この観念パラダイムの逆転であり、観念パラダイムの逆転を促す言葉こそ、人々が最も強く可能性を感じる言葉である。
●人々が可能性を感じる言葉の深さ=強さ(難しさ)と、浅さ=弱さ(易しさ)の序列は、
1.パラダイム転換そのものを説く言葉。
2.パラダイム転換を促す諸々の大きな(深層の)状況認識=実現の構造認識。
3.個々の問題に対する個々の答え=小さなor部分的な状況認識・構造認識。
従って、個々の答えから一気に大きな状況認識へ、更に窮極のパラダイムの逆転へと話を進めれば良い。
●人々が(意識の最も深い所で)求めていたものこそ、この観念パラダイムの逆転であり、観念パラダイムの逆転を促す言葉こそ、人々が最も強く可能性を感じる言葉である。
●人々が可能性を感じる言葉の深さ=強さ(難しさ)と、浅さ=弱さ(易しさ)の序列は、
1.パラダイム転換そのものを説く言葉。
2.パラダイム転換を促す諸々の大きな(深層の)状況認識=実現の構造認識。
3.個々の問題に対する個々の答え=小さなor部分的な状況認識・構造認識。
従って、個々の答えから一気に大きな状況認識へ、更に窮極のパラダイムの逆転へと話を進めれば良い。
●現実(人々の下部意識)を否定or捨象する倒錯思考を止め、倒錯観念を捨てて現実(下部意識)を肯定的に対象化する。
●あくまで現実に立脚し(=現実を受け容れ)、決して現実を否定or捨象することなく、現実(可能性とその壁)を対象化する。
それは単なる現状維持の現実肯定ではない。現実を閉塞させている倒錯観念を全的に否定している。
それは、単なるプラス志向ではない。現実の不全(危機・閉塞)をも、全的に対象化している。
しかし、現実を受け容れながら、現実の不全(危機・閉塞)を対象化することが出来るか?
本源収束・社会収束の下部意識(潜在思念)に立脚して、その可能性を実現しようとすれば、既成観念や私権制度etc無数の壁が立ち塞がり、当然不全感も生起する。問題は、そこで不全→否定意識に囚われて終うか、脱却できるか。つまり、実現回路の強さの問題である。
●あくまで現実に立脚し(=現実を受け容れ)、決して現実を否定or捨象することなく、現実(可能性とその壁)を対象化する。
それは単なる現状維持の現実肯定ではない。現実を閉塞させている倒錯観念を全的に否定している。
それは、単なるプラス志向ではない。現実の不全(危機・閉塞)をも、全的に対象化している。
しかし、現実を受け容れながら、現実の不全(危機・閉塞)を対象化することが出来るか?
本源収束・社会収束の下部意識(潜在思念)に立脚して、その可能性を実現しようとすれば、既成観念や私権制度etc無数の壁が立ち塞がり、当然不全感も生起する。問題は、そこで不全→否定意識に囚われて終うか、脱却できるか。つまり、実現回路の強さの問題である。
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