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>本源充足の可能性が開かれた今、人類が私権不全を超える新たな充足状態=本源社会(共認社会)の形成に向かうのは、必然である。

この投稿を読みながら、今まとめている某市からの市民参加型の公共施設整備構想のプロポーザルへの提案内容のことを思い浮かべていました。我々の提案内容は、従来型の役所主導での(ともすれば形式的に流れやすい)市民参加というあり方を見直し、市民主体で基本構想から施設建設後の運営まで全て市民の手でで行っていこう、というものです。市民の手により、議会承認や予算折衝まで行ないたいと考えています。

まさに実現論の言う「自らの生きる場を、自らの手で築いてゆきたい」を実践しようという提案であり、半事業・半専任という政治への主体的な市民参加の提案です。結果がどうでるかはわかりませんが、少なくともこのような提案が受け容れられる下地は市民運動の活発さや急進的な市長の意見などから十分感じ取れます。

と同時にそのときの成功へ乗り越えるべき“課題”は、既に潜在的に市民個々人が感じている問題意識を共有化し、それを継続的な運動に繋げていける“思考の場”作りになるのだと思います。結果的には、市に必要な施設をある敷地に創り上げることになるのですが、この“場”を通じて市民一人一人が、今の市の財政状況や市の歴史と今後のあり方を考え、個人と社会との関係を改めて押さえなおすことができるようになることが意義としては大きいと感じています。

詳細な“場”のあり方は、ここでの議論を参考に改めて皆で組み立てようと思っています。このような“場”作りの一つ一つが社会そのものを変えていく運動=皆が深く考える、に繋がっていくような気がしています。



木橋哲夫
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思考のエネルギーの源泉はどこにあるのか?

「物を識らない状態」というのは、意識が外を向いていない状態と言うことができるでしょう。自分自身のことを振り返っても、

>意地になって(根性だけで)もがいている状態(23886 四方勢至さん)

であったように思います。そのエネルギーの源はまさに意地のレベルでしょう。

逆に「物を識った状態」とは、絶えず社会や人々の意識の変化にアンテナをめぐらせ、意識が外を向いている状態。あるいは潜在思念と合致する実感が伴う認識に出会えた状態。そういったときには物凄いエネルギーが出てくるのでしょう。

思考のエネルギーが単なる一人よがりで終わらないようにするためにも、意識を常に外に向けるとともに、エネルギーを結集する場を皆で創り上げていくことが最も重要だと思います。

るぎあ
☆しかし、大多数の人々は、社会or人々の意識を対象化する必要=認識の必要に気付いていない。
●物を考えていない(or物を識らない)状態とは、(多くの人が、小中学生の頃はそうだったのではないかと思うが)家族や仲間や学校という身近な世界しか知らず、その外or他の世界を知ろうとも思わない。
これら同類圧力の中で形成された人並みの欠乏と、性格に規定された唯一の方法で、意地になって(根性だけで)もがいている状態。
●物を考えれば(or物を識れば)、一気に世界が拡がり、より効率的な方法も見つかる。何より、価値観念に導かれて本源回路が顕在化し、統合されて、強いエネルギーが生じる。
この、対象世界の拡がり(外識機能)とエネルギーの高まり(内識機能)、そして効果=充足度(方法論つまり実現回路)が、思考の引力となる。

●但し、現実の選択に迫られて物を考えた場合は、現実の欠乏etc潜在思念と直結して強い力を生み出すが、その観念エネルギーを持続させる為だけに都合の悪い現実を捨象してきた者は、単なる一人よがりで終る。言うまでも無く、現実否定の倒錯観念だったからである(旧世代の観念派に多い)。
●また’80・’90年代の一部の若者の様に、現実の選択に迫られてではなく、関係非充足から逃避する場として観念世界がある場合、心(潜在思念)は死んでおり、力は出ない。

☆私権に収束できず、何をすれば良いのか分からない現在の状況は、誰もが現実に生き方の選択を迫られているとも云える。

四方勢至
考えてみれば、私権社会(or私権の現実)に対する強い否定意識は、本源可能性や社会可能性の直感に基づいている。それは、決して明確な価値観念などではない。個人的な極限状態において、現実否定⇒可能性探索の道を選ばせたものは、状況認識にせよ可能性意識にせよ、殆ど言葉化できない様な深い潜在思念の直感である。そして、今にして思えば、私が否定してきたのは、現実そのものではなく、現実を正当化しようとする言葉(つまり、欺瞞観念)であった様な気がする。

実際、(本源収束や社会収束の)潜在思念に立脚して、その可能性を実現しようとすれば、対象世界の構造の解明が必要になる。逆に、その可能性にフタをしている欺瞞観念は、全的に解体せざるを得ない。

☆可能性を実現しようとし続ける(従って、その壁の源を対象化し続ける)その意識の出所は何か?
●本源収束・社会収束の可能性が開かれた(可能性を見た)以上、その可能性に収束するのは当然である。例えば、社会が人々の意識によって形成されている(従って、変え得るものである)ことが分かった以上、それを対象化するのは、当然である。
●開かれた対象世界たる同類圧力(=人々の意識)を対象化し、構造的に解明し、その認識を武器として生きてゆくことは、脱私権時代の人類に開かれた大いなる可能性の実現である。
この(同類圧力を対象とする)認識の追求こそ、私権の追求に代る次代の欠乏の中軸を成すものである。


四方勢至
>郵政民営化法案が否決し、衆院解散、総選挙が行われることが決定した。(95897 西谷さん)

 私は投票に行ったことがない。日程が合わないことに加えて、候補者が何者か分からない、よって誰を選べばいいか分からない、そもそも選んだところで日本は良くならない、という理由が主だろうか。投票に行ったことがある友人に聞いても、顔で選んだ、親がこの人って言ってた、白票出した、鉛筆転がしたという類の回答しか得られない。それなら行かない方がまだマシなのでは?と思ったりもするが、どっちがマシかという議論は、社会統合活動に対して傍観者を決め込んだ挙句開き直った者同士の、どんぐりの背比べに過ぎないだろう。

 今回の解散を受けて、投票に行かなければという機運が高まっていると、なんでや劇場で知った。正直「何のために?」と真っ向からその意識潮流を否定してしまった。収束不全からくる答え収束の流れ。であるならば、答え探索に向かうのが必然と思っていた。
(しかし実態としては、目先であれなんであれ、一旦安定秩序を求める動き(秩序収束)になって現れている。)
 しかし、関心を持った大衆にとって今回の選挙が意味することは、小泉首相の「郵政民営化に賛成か反対か」ではないだろう。では、連日テレビで報道される内容に何を感じているのか。それは、今回の総選挙が「政界の体制変革を促すものではないか」という期待感ではないか。小泉率いる自民党の分裂(?)、それは秩序崩壊を招く動きのようにも感じるが、何も実現できない首相を叩き出し、新たな安定秩序をもたらす可能性を、僅かながらも抱かせるからではないだろうか。

 答えを強く求める者ほど社会統合に関心を抱くとするならば、今回の選挙はそういった層の関心を集めるのも理解できる。秩序収束の流れの中でも、「あんな奴には任せられない。何とかしたい。」という社会の当事者意識の顕在化を促す出来事なのではないか、と。

 彼らは今、新党結成を追いかけるマスコミ報道を静観しているだろうか。誤魔化し政治・誤魔化し選挙・誤魔化し報道の繰り返しに辟易して当事者意識が萎えてしまう前に、政治家とマスコミの誤魔化しの実態を伝えなければいけないのでは、と強く感じたなんでや劇場だった。

 


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