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>現状、潜在思念は現実を対象化して深い所で何かを感じているが、極めて不鮮明なまま潜在していて、顕在化してこない。(26869)
現代の出口のない閉塞状況は誰もが感じている。しかし、私権はもはや衰弱しているにも関わらず、古い私権観念を捨てられず新しい現実を捨象している人々が大半である。潜在思念では現実を朧ろげながら対象化していても、あくまで「潜在」したままなのである。・・・・・現代人はまさにこのような状況にあると思います。では、このように潜在したままの状態から顕在化させるにはどうすればいいのでしょうか?
>この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
生存圧力は直接、生死を脅かすものであり、何も意識せずとも向こうからやってくる不全課題、しかし、同類圧力は自分達で作り出す充足課題。前者は具体的且つ現実に逼迫した問題であり、「生存」については万人に共通な課題。後者は抽象的であり「充足」については、人それぞれの意識の有り様によって課題の捉え方が異なる。生存圧力を克服し、同類圧力へと場が転換した現代においては、このままではひたすら滅亡へとむかう時代閉塞の突破口として、人々の意識を覚醒させ、現実を対象化するための概念装置として「パラダイム転換論や史的構造論」による新しい認識という「答え」を提示していくことが何よりも重要である。では、その「答え」はどのように伝播させればいいのでしょうか?
>現在、何よりもまず人に収束するのは、原猿と同じで、答えが見付からないからである。従って、潜在思念の外向収束⇒認識収束が急速に強まってきた今、可能性を感じられる答えさえ与えられれば、一気に答えに収束する筈である。(26870)
この「答え」は人から伝播させることが最も有効である。そして人収束はNWという場において認識の追及という課題を軸として、無限に拡大、増幅し一大意識潮流となる。という可能性が見えてきました。
>まず私権の衰弱⇒本源基調・外向基調という状況認識。時代はとてつもなく深い所で、大きく動いている。深い所で大きく動こうとしているものを、しっかり対象化し、鮮明に把む必要がある。
時代を捉える慧眼が必要であり、それに対する主体となった働きかけ(るいネットへの投稿)が万人が集うより充足度の高い「まつりの場」を創っていくのではないでしょうか?以前どこかで目にして以来、心のどこかに残っている言葉。「深い河は静かに流れる」という言葉がふと脳裏を過りました。
大木康子
現代の出口のない閉塞状況は誰もが感じている。しかし、私権はもはや衰弱しているにも関わらず、古い私権観念を捨てられず新しい現実を捨象している人々が大半である。潜在思念では現実を朧ろげながら対象化していても、あくまで「潜在」したままなのである。・・・・・現代人はまさにこのような状況にあると思います。では、このように潜在したままの状態から顕在化させるにはどうすればいいのでしょうか?
>この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
生存圧力は直接、生死を脅かすものであり、何も意識せずとも向こうからやってくる不全課題、しかし、同類圧力は自分達で作り出す充足課題。前者は具体的且つ現実に逼迫した問題であり、「生存」については万人に共通な課題。後者は抽象的であり「充足」については、人それぞれの意識の有り様によって課題の捉え方が異なる。生存圧力を克服し、同類圧力へと場が転換した現代においては、このままではひたすら滅亡へとむかう時代閉塞の突破口として、人々の意識を覚醒させ、現実を対象化するための概念装置として「パラダイム転換論や史的構造論」による新しい認識という「答え」を提示していくことが何よりも重要である。では、その「答え」はどのように伝播させればいいのでしょうか?
>現在、何よりもまず人に収束するのは、原猿と同じで、答えが見付からないからである。従って、潜在思念の外向収束⇒認識収束が急速に強まってきた今、可能性を感じられる答えさえ与えられれば、一気に答えに収束する筈である。(26870)
この「答え」は人から伝播させることが最も有効である。そして人収束はNWという場において認識の追及という課題を軸として、無限に拡大、増幅し一大意識潮流となる。という可能性が見えてきました。
>まず私権の衰弱⇒本源基調・外向基調という状況認識。時代はとてつもなく深い所で、大きく動いている。深い所で大きく動こうとしているものを、しっかり対象化し、鮮明に把む必要がある。
時代を捉える慧眼が必要であり、それに対する主体となった働きかけ(るいネットへの投稿)が万人が集うより充足度の高い「まつりの場」を創っていくのではないでしょうか?以前どこかで目にして以来、心のどこかに残っている言葉。「深い河は静かに流れる」という言葉がふと脳裏を過りました。
大木康子
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生存圧力を克服したこれからの人類にとって、課題圧力とはもはや向こうからやってくる不全課題・不全圧力では在り得ない。今や、課題圧力とは同類圧力に他ならず、それは仲間充足がそうである様に、向こうからやってくる不全課題ではなく、自分たちで作り出す充足課題である。実際、皆でより充足できる(or鮮明なスッキリする)認識を作り出す過程は、可能性発の充足過程である。
また、同類圧力(意識生産or認識競争)の時代においては、新しい認識こそが真の実現態(の中核)となる。そして、本源収束・社会収束の可能性の実現態たる新しい認識によって、本来の同類圧力(=課題圧力)が初めて生み出される。そこでは、答え=新しい認識が豊かなほど同類圧力は上昇し、より充足度の高いまつりとなる。
この新しい認識が生み出す課題圧力=認識競争という同類圧力こそ、時代閉塞を突破する真の活力源である。
そして又新しい認識こそが、人と人をつなぐ真の紐帯となる。従って、新しい認識(=実現態)と同類圧力が豊かになるほど、充足度が上昇し、その創出と充足は、新しいまつりとなる。
残る不全=自我発の私権闘争は、日常的には放っておいても衰弱してゆき、本来の同類圧力(上記)の上昇によって、葬り去られる。(世界的には、放っておくと残り続けるが、時期が来れば始末される。)
この新しい認識→課題の誕生によって初めて、人収束は無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を軸としたNWに脱皮する。
それは、ただの人収束=つながり・広がり欠乏が、真の社会収束(答え欠乏)へと脱皮する過程でもある。
四方勢至
また、同類圧力(意識生産or認識競争)の時代においては、新しい認識こそが真の実現態(の中核)となる。そして、本源収束・社会収束の可能性の実現態たる新しい認識によって、本来の同類圧力(=課題圧力)が初めて生み出される。そこでは、答え=新しい認識が豊かなほど同類圧力は上昇し、より充足度の高いまつりとなる。
この新しい認識が生み出す課題圧力=認識競争という同類圧力こそ、時代閉塞を突破する真の活力源である。
そして又新しい認識こそが、人と人をつなぐ真の紐帯となる。従って、新しい認識(=実現態)と同類圧力が豊かになるほど、充足度が上昇し、その創出と充足は、新しいまつりとなる。
残る不全=自我発の私権闘争は、日常的には放っておいても衰弱してゆき、本来の同類圧力(上記)の上昇によって、葬り去られる。(世界的には、放っておくと残り続けるが、時期が来れば始末される。)
この新しい認識→課題の誕生によって初めて、人収束は無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を軸としたNWに脱皮する。
それは、ただの人収束=つながり・広がり欠乏が、真の社会収束(答え欠乏)へと脱皮する過程でもある。
四方勢至
こんにちは、吉田エンゼルさん。ハンセン病の差別の歴史を興味深く読ませていただきました。そこで思うことを2点。
・専門家だけによる社会統合過程での共認形成の問題性
・事実とは何か?
この点に関して少し考えてみます。
まず1点目ですが、ある専門家の判断だけを根拠にし、政策の専門家だけにより政策が決定されるという、私権時代の構造の問題性を改めて感じました。
一般の人たちの目の届かないところで、特定の権威と呼ばれる専門家だけで決定されるのでは、その専門家の地位の維持であるとか、経済効率が優先されたような政策となり、面倒な問題にはとりあえず蓋をしてしまうような政策になりかねない危険性があると思います。
最初の専門家の判断が憶測によるものであることも問題ですが、その判断が根拠になってしまい政策が決定されるという、私権時代の共認形成の構造そのものに問題がある。吉国さんが仰ってられるように、「事実認識に関する問題が、二の次に問題になっている社会構造そのもの」(26308)の問題だと思います。
ハンセン病の例は、私権のパラダイムで政策決定された事実とは異なる社会共認と、私たちの実感との乖離が差別として現れたのだと思います。誰もが日常感覚の延長で社会統合に参加できるような社会を実現することが必要なのだと思います。
斎藤幸雄
・専門家だけによる社会統合過程での共認形成の問題性
・事実とは何か?
この点に関して少し考えてみます。
まず1点目ですが、ある専門家の判断だけを根拠にし、政策の専門家だけにより政策が決定されるという、私権時代の構造の問題性を改めて感じました。
一般の人たちの目の届かないところで、特定の権威と呼ばれる専門家だけで決定されるのでは、その専門家の地位の維持であるとか、経済効率が優先されたような政策となり、面倒な問題にはとりあえず蓋をしてしまうような政策になりかねない危険性があると思います。
最初の専門家の判断が憶測によるものであることも問題ですが、その判断が根拠になってしまい政策が決定されるという、私権時代の共認形成の構造そのものに問題がある。吉国さんが仰ってられるように、「事実認識に関する問題が、二の次に問題になっている社会構造そのもの」(26308)の問題だと思います。
ハンセン病の例は、私権のパラダイムで政策決定された事実とは異なる社会共認と、私たちの実感との乖離が差別として現れたのだと思います。誰もが日常感覚の延長で社会統合に参加できるような社会を実現することが必要なのだと思います。
斎藤幸雄
この掲示板を見て、つくづく思うのだが、人間は、認識を共有する仲間がいて、初めてモノを考えられるのではないだろうか?
おそらく、人々は(一人一人では)危機感も持っているし、社会の問題点に(うすうすながらでも)気づき始めている。
しかし、その危機や問題の状況認識を共有する場がないとしたらどうだろうか?
もし、状況を突破しようと思えば、突破する方法論を考えなければならない。解決方法を見つけるためには、少なくとも、状況の原因を考えなければならないが、このような危機・問題意識(≒不全)を一人で直視し続けるのは、とても耐え難い。
モノを考え続けると言うことは、実は恐ろしくエネルギーを必要とする。その活力の源泉は常に与え続けられなければならないはずだが、そのような場もない。
たいていの場合、その考えようとする試みは、挫折するだろう。
深刻なのは、その時点で既に、人々が必要としている「答え」にたどり着く入り口が、ことごとく潰されてゆくということだ。
阪本剛
おそらく、人々は(一人一人では)危機感も持っているし、社会の問題点に(うすうすながらでも)気づき始めている。
しかし、その危機や問題の状況認識を共有する場がないとしたらどうだろうか?
もし、状況を突破しようと思えば、突破する方法論を考えなければならない。解決方法を見つけるためには、少なくとも、状況の原因を考えなければならないが、このような危機・問題意識(≒不全)を一人で直視し続けるのは、とても耐え難い。
モノを考え続けると言うことは、実は恐ろしくエネルギーを必要とする。その活力の源泉は常に与え続けられなければならないはずだが、そのような場もない。
たいていの場合、その考えようとする試みは、挫折するだろう。
深刻なのは、その時点で既に、人々が必要としている「答え」にたどり着く入り口が、ことごとく潰されてゆくということだ。
阪本剛
(25433「新しい潮流6 解脱仲間から認識仲間への逆転」四方勢至)
>つまり、今求められているのは、解脱仲間から認識仲間への転換である。(注:解脱仲間とは、古い私権時代の仲間様式であるに過ぎない。活力源が既に私権圧力から同類圧力へと転換した今、求められているのは、本源収束・外向収束を体現した認識仲間である。)それは、ただの人収束=つながり・広がりが、真の社会収束へと脱皮する過程でもある。
わたしも「認識仲間」を求めていたひとりだ。
学生時代、「解脱仲間」といわれる関係に、持続的な活況がありえないことを肌で感じていた。「解脱仲間」で交わされていることばといえば、男はパチンコや競馬、女は芸能やドラマ。唯一、盛り上がるのは男女関係。とりあえず、その場に居合わせるが、時間の無駄だと感じることがよくあった。
活況がうまれないのは、現実的な共通課題がないからだ。共通課題がないから、役割も生まれなければ、達成感も生まれない。ゆえに、充足はありえない。それは、時間つぶしであり、場つなぎであり、まさしく無為徒集のつながりである。予定の時間になれば、ひとりひとり去っていく。向かうのは、アルバイトか部活動(orサークル)か彼氏彼女。
「認識仲間」が潜在的に期待されているのは、そこに『課題を創出できる力』を内包しているからだ。アルバイトや部活動(orサークル)や彼氏彼女といった、「既定の課題」に自らを当てはめることなく、可能性や活力源に充ちている関係。
調べてみれば、インターネットを利用した交流の場は、既にちらほら存在している。しかし、外向欠乏を充たす場=認識仲間の居場所とはなってはいない。インターネットカフェは、ゲームセンターやマンガ喫茶。インターネットサロンは、図書館。パソコン教室は、習い事。すでにある枠組みにパソコンとインターネットを取り入れただけなのが実状だ。
・・・。
やはり、「認識仲間」の居場所はいまもなお存在しないのだ。ということは、はじめの第一声を上げる必要がある。パソコンの父といわれるアラン・ケイの言葉『未来を予測する最良の方法は、それを発明することである』という状況に、わたしたちが直面していることを強く感じる。
(敬称略)
※アラン・ケイについては、下記文献などが参考になります。
リンク
福田尚正
>つまり、今求められているのは、解脱仲間から認識仲間への転換である。(注:解脱仲間とは、古い私権時代の仲間様式であるに過ぎない。活力源が既に私権圧力から同類圧力へと転換した今、求められているのは、本源収束・外向収束を体現した認識仲間である。)それは、ただの人収束=つながり・広がりが、真の社会収束へと脱皮する過程でもある。
わたしも「認識仲間」を求めていたひとりだ。
学生時代、「解脱仲間」といわれる関係に、持続的な活況がありえないことを肌で感じていた。「解脱仲間」で交わされていることばといえば、男はパチンコや競馬、女は芸能やドラマ。唯一、盛り上がるのは男女関係。とりあえず、その場に居合わせるが、時間の無駄だと感じることがよくあった。
活況がうまれないのは、現実的な共通課題がないからだ。共通課題がないから、役割も生まれなければ、達成感も生まれない。ゆえに、充足はありえない。それは、時間つぶしであり、場つなぎであり、まさしく無為徒集のつながりである。予定の時間になれば、ひとりひとり去っていく。向かうのは、アルバイトか部活動(orサークル)か彼氏彼女。
「認識仲間」が潜在的に期待されているのは、そこに『課題を創出できる力』を内包しているからだ。アルバイトや部活動(orサークル)や彼氏彼女といった、「既定の課題」に自らを当てはめることなく、可能性や活力源に充ちている関係。
調べてみれば、インターネットを利用した交流の場は、既にちらほら存在している。しかし、外向欠乏を充たす場=認識仲間の居場所とはなってはいない。インターネットカフェは、ゲームセンターやマンガ喫茶。インターネットサロンは、図書館。パソコン教室は、習い事。すでにある枠組みにパソコンとインターネットを取り入れただけなのが実状だ。
・・・。
やはり、「認識仲間」の居場所はいまもなお存在しないのだ。ということは、はじめの第一声を上げる必要がある。パソコンの父といわれるアラン・ケイの言葉『未来を予測する最良の方法は、それを発明することである』という状況に、わたしたちが直面していることを強く感じる。
(敬称略)
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