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「社会」なる言葉で連想ゲームをしてみる。
政治家の立ち振る舞い、株価の推移、どこかの交通事故とか銀行強盗、失業者数、はるか彼方の戦争・・・
どうも、マスメディアで伝えられる情報がつらつらと繋がるようである。
もう少し身近なところで連想してみると、市役所の窓口や、警察署、バスや地下鉄、小学校、病院などが思い浮かぶ。
前者は「情報」であって、極論すると統計数字に還元し得る性質のものであり、後者は「システム」であって、どうも「社会」というものには実体が伴わない。

どうやら、「社会」とは徹頭徹尾、観念的なものらしいし、更に言えば、そのような観念的「社会」は、通常、「教育」と「マスメディア」によって、一個の人格の内に刷り込まれつつ「形成」されていくものである。とすれば、「社会」とは、「我々の内に、他者が作り出した観念」ということになる。

翻って、「認識形成サイト」において、やり取りされているものは、今のところ電子化された文字情報が主であり、そこで生み出されるものが、「新たな認識群」「新しいものの見方」、つまりは「観念」であるならば、それは新たな「社会」とは言えないのだろうか?それが、万人の協働によって創り出されるなら、尚更のことである。

「認識形成サイト=社会形成サイト」といっても良いような気がする。

三宅秀和 
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要するに、認識形成サイトの定住読者になるのは、社会系サークルに入るのと同等orそれ以上のエネルギーを要する。それこそが、単なる共鳴・支持と参加・協働の質の違いであり、この質の壁は、元来が(市場での消費者たる観客とは原理を異にする)協働関係たる知人つながり無しには突破できない。それが、認識形成サイトの参加者(定住読者)を作り出す上で、知人つながり(協働関係)が不可欠になる理由である。

しかし、知人つながりの必要は、認識形成サイトの成長・発展の足カセなのではなく、むしろそれこそが認識形成サイトの最強の土台となる。なぜなら、社会不全と答え欠乏は至る所で外向仲間⇒認識仲間を形成してゆくが、必要な知人つながりとは、この認識仲間のつながりに他ならないからである。
むしろ、次のように言い換えた方がわかり易い。つまり、外向仲間⇒認識仲間への収束は、至る所で次々と知人つながり(という本源的な協働関係)を生み出してゆく。そして、市場原理の観客読者を超えた、この本源原理の外向仲間⇒認識仲間という協働関係こそが、認識形成サイトの確固たる土台となる。

この認識仲間たちのつながりは、既に壮大なネットワークであるとも云える。しかしそれは誰もネットワークとしては意識していない『無自覚なネットワーク』である。この潜在的なネットワークを顕在化させるには、認識革命の必要に気付いた認識仲間たちの自覚的なネットワーク作りが必要になる。
そして、それを実現するためには、認識仲間たちの結集核となる認識形成サイトが、不可欠になる。逆に云えば、この認識形成サイトが、自覚した認識仲間たちのネットワーク作りの拠点となる。

後は、外向仲間⇒認識仲間を結集させるに足る面白い(=皆が一生懸命に新しい認識を生み出そうとしている)演場=認識形成サイトさえあれば良い。

四方勢至 
単に本を読んで共鳴するだけなら1日で済むが、認識形成サイトに3日と明けずに駐在するというのは(例え投稿しないで読むだけの読者であっても)大変なエネルギーを費やす参加行為である。
その意味では、認識形成サイトの定住読者は、単なる観客読者ではなく、立派な参加者である。何も投稿することだけが、認識形成に参加することなのではない。実際、定住読者の評価は、来場数や読者数として表面化されてくるし、投稿者たちも定住読者の反応や息づかいを感じ取りながら発信しており、その意味では定住読者も立派なサイトの協働者なのである。
まして、定住読者が、その知人にるいネットを広めてくれるとしたら、これはもうこれ以上ない大切な協働者であろう。



四方勢至
「潜在思念の源泉に深い社会不全と答え欠乏を孕んだ人々の外向仲間=認識仲間への収束」が意味しているのは、今回の答えが、誰か一人の天才or専門家によって作り出されるのではなく、認識仲間収束した普通の人々の協働作業の中で作り上げられてゆくということである。
とすれば、単に実現論を出版することによって、新しい認識を広めるだけでは済まなくなる。もし「出来上がった実現論」を広めるためだけなら、出版するだけでもある程度は広がるだろう。しかし、求める答えは認識形成サイトに収束した認識仲間たちとの応答や反応の中で紡ぎ出されてゆくのだとしたら、彼ら認識仲間たちに認識形成サイトに参加して貰う(定住読者になって貰う、更には投稿して貰う)ことが、不可欠の条件となる。

この、作者→(出版)→観客読者という在り様(よう)から、認識仲間の(サイトでの)協働という在り様への移行こそ、私権時代の認識形成と新時代(共認時代)の認識形成との決定的な違いである。
そして、この点こそが、新しい運動=認識革命の最後の関門となる。なぜか?
認識形成サイトに参加して貰うには、少なくとも市民サークルに参加して貰うのと同じ労力が必要で、それは、知人の認識仲間化によってしか出来ないからである。

つまり、るいネットへの参加は、社会系サークルへの参加とほぼ同じ位相にある。ただし、市民サークルetcは不全発の社会運動であり、旧パラダイムのままなので、大多数に敬遠されているが、新しい認識と認識革命の必要は、認識欠乏が顕在化してくれば、大多数に受け容れられる筈である。
現に、’00年以降の若者の認識欠乏は(一部だが)顕在化しつつある。これは、潜在思念の社会不全(or外向収束)による社会探索が急速に強まっている証しである。この潜在思念の社会不全(or社会収束)⇒社会探索に答えを与えれば、5~7年で火が点くだろう。

 


四方勢至
外向仲間と言っても、メル友や(海外の)外友or出会いサイトや解脱サークルの様に、単に外向仲間に出会い、集まるだけでは無為徒集に過ぎず、何も結実しない。外向仲間収束のその先の可能性が必要である。

では、外向仲間収束の結集軸となる『その先の可能性』とは何か?
それが、認識収束である。外向収束とは、つきつめれば認識収束に他ならない以上、外向仲間の収束先=結集軸は、認識収束しかない。現に外向仲間たちは無意識に認識収束し始めており、無自覚ながらその中心軸を単なる解脱仲間から認識仲間へと移し始めている。そして、認識収束なら、その先に無限の可能性が拡がっている。

しかし、無意識の認識収束には大きな限界がある。無意識に留まる限り、いつまで経っても認識収束が(引いては社会収束が)顕在化してこない。認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収束(全的な答え欠乏)が顕在化する。例えば、「認識仲間」という言葉が与えられて初めて、解脱仲間から認識仲間への転換が顕在化し、一気に進行してゆく。

しかし、最初の答え(に近い言葉)だけでは、未だ充分ではない。最終的には外向仲間=認識仲間を結集させる場が必要である。認識仲間の結集核とも拠点ともなるその場こそ、認識形成サイトに他ならない。その様な場が与えられて初めて、認識仲間が協働して答え(新しい認識)を紡ぎ出し織り上げてゆく事が可能になり、逆にその無限の可能性が認識仲間を引きつけ結集させる最大の引力となる。

つまり、潜在思念の社会収束⇒認識収束は、認識仲間を作り出す最初の答えと、認識仲間が結集して更なる答えを作り出す場=認識サイトが与えられて初めて完全に顕在化し、実現過程に入ってゆくことになる。

るいネットは、その様な認識形成サイトの最初の実現態である。


四方勢至
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