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>しかし、これまで知識人は、この「社会」なる観念をもって、集団や体感共認を超える地平の諸問題を構造化してきたとは到底いえない。むしろ、社会という語を乱発することで、思考停止してきた、あるいは大衆を煙に巻いてきた。(28415岩井さん)
一方で大衆は、内実はばらばらの個人のままなのに、あたかも統合された組織が存在するように『社会』という言葉をつかい、錯覚してきた。本来追及されるべき、ばらばらの個人の集まりでしかない社会をどうするかという本質問題が、大衆側でも捨象される。がこれが倒錯観念の怖さである。
しかし構造認識により、一旦現実はばらばらの個人のままであることさえ解ると、考え始め繋がりたくなる。また、旧来の『社会』という観念の実態がないのならば、『既存の社会システム』を変革するというイメージもなにかおかしいと思う。なにもない(=統合されていない社会)ところから、はじめて社会統合システムを作り出していく、と考えたほうがすっきりする。
>この認識仲間たちのつながりは、既に壮大なネットワークであるとも云える。しかしそれは誰もネットワークとしては意識していない『無自覚なネットワーク』である。この潜在的なネットワークを顕在化させるには、認識革命の必要に気付いた認識仲間たちの自覚的なネットワーク作りが必要になる。(28316)
この認識仲間たちの自覚的なネットワークそのものが、実態としての『社会』でないかと思う、たとえ最初は小さくとも。ここに参加することで新しい小さな社会は統合されていく。そして、古い社会の中に浸潤して、ばらばらの個人を繋げていく。これは部分的であろうと実現態として存在しする、初の社会統合システムだと思う、あとはこれで古い社会を塗り替えていくだけ。
本田真吾
一方で大衆は、内実はばらばらの個人のままなのに、あたかも統合された組織が存在するように『社会』という言葉をつかい、錯覚してきた。本来追及されるべき、ばらばらの個人の集まりでしかない社会をどうするかという本質問題が、大衆側でも捨象される。がこれが倒錯観念の怖さである。
しかし構造認識により、一旦現実はばらばらの個人のままであることさえ解ると、考え始め繋がりたくなる。また、旧来の『社会』という観念の実態がないのならば、『既存の社会システム』を変革するというイメージもなにかおかしいと思う。なにもない(=統合されていない社会)ところから、はじめて社会統合システムを作り出していく、と考えたほうがすっきりする。
>この認識仲間たちのつながりは、既に壮大なネットワークであるとも云える。しかしそれは誰もネットワークとしては意識していない『無自覚なネットワーク』である。この潜在的なネットワークを顕在化させるには、認識革命の必要に気付いた認識仲間たちの自覚的なネットワーク作りが必要になる。(28316)
この認識仲間たちの自覚的なネットワークそのものが、実態としての『社会』でないかと思う、たとえ最初は小さくとも。ここに参加することで新しい小さな社会は統合されていく。そして、古い社会の中に浸潤して、ばらばらの個人を繋げていく。これは部分的であろうと実現態として存在しする、初の社会統合システムだと思う、あとはこれで古い社会を塗り替えていくだけ。
本田真吾
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>翻って、「認識形成サイト」において、やり取りされているものは、今のところ電子化された文字情報が主であり、そこで生み出されるものが、「新たな認識群」「新しいものの見方」、つまりは「観念」であるならば、それは新たな「社会」とは言えないのだろうか?それが、万人の協働によって創り出されるなら、尚更のことである。
「認識形成サイト=社会形成サイト」といっても良いような気がする。
(28351 三宅さん)
に頷きながら、自らも「認識形成サイト」という新たな社会に参加する事を契機に脹らんだ、やっと’現実’が捉えられ始めたような感覚や、またはもっと認識を高めたいという、ここ最近の感覚を思い起こした。
日頃マスメディアで伝えられる(その多くは悲劇的な)情報に問題性や危機感を感じ、何か考えよう、得えよう、何とかできないか、と感じることはある。
しかし、現象事実に付記された解説や論評は多くの場合、そのためのきっかけにはなり得ない。何らか興味を惹かれて、情報を読み取ろう、その情報の背景にある人々の意識は、などと思うと、考えるきっかけとなるのは、このサイトで読んだ投稿で知ったものの見方や、人々の意識構造の分析であったりする事に気付く。
その歯切れの悪さから展望の無さや閉塞感を露呈する記事や解説、そこで描かれる「現実」や「社会」は、わざわざ現実に蓋をしてしまう「~ごっこ」や「茶番劇」のように映り、仮想の営みのように見えてしまう。
そんなことからも、逆に新たな認識の必要性や、それを知らずにいる事の危機感を最近感じる。
もっと身近には、日々の活動の場面場面にも構造的思考の必要を感じる事が増えた。何か行動する際の見通しを立てるための考えの組み立て方にしてもそう。うまくいかない事や、自らの欠点の部分の原因を理解するにもそう。刷り込まれた役に立たない観念に引きずられている事が失敗の原因である場合には特にそう思う。
このサイトが形成している「新しいものの見方」や「新たな認識群」には一般に喧伝されている閉塞社会とは全く逆の新たな社会を感じる。知りたい、という思いの高まりとともに、閉塞している場合ではない、前進できるという思いが少しずつ沸いてきて面白くなってきた。
柳瀬尚弘
「認識形成サイト=社会形成サイト」といっても良いような気がする。
(28351 三宅さん)
に頷きながら、自らも「認識形成サイト」という新たな社会に参加する事を契機に脹らんだ、やっと’現実’が捉えられ始めたような感覚や、またはもっと認識を高めたいという、ここ最近の感覚を思い起こした。
日頃マスメディアで伝えられる(その多くは悲劇的な)情報に問題性や危機感を感じ、何か考えよう、得えよう、何とかできないか、と感じることはある。
しかし、現象事実に付記された解説や論評は多くの場合、そのためのきっかけにはなり得ない。何らか興味を惹かれて、情報を読み取ろう、その情報の背景にある人々の意識は、などと思うと、考えるきっかけとなるのは、このサイトで読んだ投稿で知ったものの見方や、人々の意識構造の分析であったりする事に気付く。
その歯切れの悪さから展望の無さや閉塞感を露呈する記事や解説、そこで描かれる「現実」や「社会」は、わざわざ現実に蓋をしてしまう「~ごっこ」や「茶番劇」のように映り、仮想の営みのように見えてしまう。
そんなことからも、逆に新たな認識の必要性や、それを知らずにいる事の危機感を最近感じる。
もっと身近には、日々の活動の場面場面にも構造的思考の必要を感じる事が増えた。何か行動する際の見通しを立てるための考えの組み立て方にしてもそう。うまくいかない事や、自らの欠点の部分の原因を理解するにもそう。刷り込まれた役に立たない観念に引きずられている事が失敗の原因である場合には特にそう思う。
このサイトが形成している「新しいものの見方」や「新たな認識群」には一般に喧伝されている閉塞社会とは全く逆の新たな社会を感じる。知りたい、という思いの高まりとともに、閉塞している場合ではない、前進できるという思いが少しずつ沸いてきて面白くなってきた。
柳瀬尚弘
しばらくぶり(といっても10日ぐらいのことだが)に社会統合NWを読み進めると、「認識形成サイトとは集団を超えた人類史上発の本源共認」「認識形成サイトの読者は観客ではなく協働者である」「指導者と組織人」等、様々な「認識」が形成されており、しかもその発信者は勢至翁のような老人から若い女性まで多彩な顔ぶれであることもあいまって、いまさらながらるいネットの面白さに感心する。
勿論、日頃出入している私権時代カテやロム専の科学論カテも面白いのだが、社会統合NWカテには一味違う面白さがある。それはどうも認識をつくることと組織をつくることが一体として進んでいく面白さのようだ。
例えば28344は日頃進化論カテで生命の創発力について探求されている吉国さんならではの投稿だ。あるいは28065は阿部さんの性カテの一連の投稿を読んだ上で読むと潜在思念に訴えてくる面白さがある。
中でも史論カテで貨幣の持つ私権時代の評価ヒエラルキーを議論中の私にとって面白かったのは、28027の冨田さんの「私たちは初めて社会的な評価圧力を受ける」という視点。富田さんのこの投稿は史論的に面白いだけではなく、岡田さんの「何かを投稿したーい」という現在進行形の潜在思念の変化を的確に掴んだ「ことば」が私の潜在思念にもシンクロし「僕も潜在思念をつかんだ投稿をしたーい」と私の投稿意欲=参加意欲をもかきたてたところにある。つまり統合NWカテは各論の探求の成果発表の場でもあり、同時に現在進行形の協働を体感できる場でもある。つまりは認識革命=新しい社会運動というニューパラダイムが実感できる場なのだ。
吉国さんが仰る
>認識革命ネット)を組織論的に捉えた場合に、どちらかといえば、この生命体本来の組織論(存在論)に近いように思える。分化よりも階層であり、その最上位の階層の位置に「るいネット」がある。
にも重なるのですが、従来の専門分化された学問体系が統合されないどころか、そのほころびを繕わんがためにより欺瞞性を強めていっているのに対して、るいネットでは個々人が追求領域を分担しながらも(おそらく今後も探求のための専門分化の必要性はなくなりはしないでしょう)この社会統合NWカテに皆が個々の領域の成果を持ち寄ることで、より統合度を高めることができる。そのことは史論カテや男女問題に限らず、指導者論を論じた西さんの投稿は仕事カテを活性化させることにもなるし、馬場さんは農業カテでの「農業とネット」論議に新しい視点を持ち込むことができるに違いない。
このように各個別領域と横断=統合領域を行き来しながら認識を深めていけるサイトの構造は従来のサイトにはない「るいネット」の目下のオリジナリティである。目下としたのは、勢至翁が「るいネットは認識形成サイトの最初の実現態である」としているようにおそらく今後こうした統合志向のサイト形成は普遍的なものとなっていくと考えられるからだ。おそらく「統合認識=組織形成サイト」がしのぎを削る=認識闘争を展開する時代はもうすぐであろう。
28113「世論が枯れた~認識闘争前夜の静けさ」で田野さんが指摘されるとおりもう大衆の欠乏度は“待ったなし”だと思う。
山澤貴志
勿論、日頃出入している私権時代カテやロム専の科学論カテも面白いのだが、社会統合NWカテには一味違う面白さがある。それはどうも認識をつくることと組織をつくることが一体として進んでいく面白さのようだ。
例えば28344は日頃進化論カテで生命の創発力について探求されている吉国さんならではの投稿だ。あるいは28065は阿部さんの性カテの一連の投稿を読んだ上で読むと潜在思念に訴えてくる面白さがある。
中でも史論カテで貨幣の持つ私権時代の評価ヒエラルキーを議論中の私にとって面白かったのは、28027の冨田さんの「私たちは初めて社会的な評価圧力を受ける」という視点。富田さんのこの投稿は史論的に面白いだけではなく、岡田さんの「何かを投稿したーい」という現在進行形の潜在思念の変化を的確に掴んだ「ことば」が私の潜在思念にもシンクロし「僕も潜在思念をつかんだ投稿をしたーい」と私の投稿意欲=参加意欲をもかきたてたところにある。つまり統合NWカテは各論の探求の成果発表の場でもあり、同時に現在進行形の協働を体感できる場でもある。つまりは認識革命=新しい社会運動というニューパラダイムが実感できる場なのだ。
吉国さんが仰る
>認識革命ネット)を組織論的に捉えた場合に、どちらかといえば、この生命体本来の組織論(存在論)に近いように思える。分化よりも階層であり、その最上位の階層の位置に「るいネット」がある。
にも重なるのですが、従来の専門分化された学問体系が統合されないどころか、そのほころびを繕わんがためにより欺瞞性を強めていっているのに対して、るいネットでは個々人が追求領域を分担しながらも(おそらく今後も探求のための専門分化の必要性はなくなりはしないでしょう)この社会統合NWカテに皆が個々の領域の成果を持ち寄ることで、より統合度を高めることができる。そのことは史論カテや男女問題に限らず、指導者論を論じた西さんの投稿は仕事カテを活性化させることにもなるし、馬場さんは農業カテでの「農業とネット」論議に新しい視点を持ち込むことができるに違いない。
このように各個別領域と横断=統合領域を行き来しながら認識を深めていけるサイトの構造は従来のサイトにはない「るいネット」の目下のオリジナリティである。目下としたのは、勢至翁が「るいネットは認識形成サイトの最初の実現態である」としているようにおそらく今後こうした統合志向のサイト形成は普遍的なものとなっていくと考えられるからだ。おそらく「統合認識=組織形成サイト」がしのぎを削る=認識闘争を展開する時代はもうすぐであろう。
28113「世論が枯れた~認識闘争前夜の静けさ」で田野さんが指摘されるとおりもう大衆の欠乏度は“待ったなし”だと思う。
山澤貴志
東條氏の投稿より、NW版での議論とも連関すると思われる点について。
>社会の在り方を考える為に科学的言説を用いるならば、その言説の選択からどれだけ恣意を排除できているのか?現実を直視することと現実以外を無視することとを混同してはいないか?自らが参加する理論の根本的な批判を受け入れる勇気をどれだけ持っているか?
恣意性を排除するために必要なことは、まずもって言説を独占するもの(学者)から、その権威を剥奪することではないだろうか。そして、誰もが言説(=構造認識)の形成に参加できる場を作ることだろう。
ルイセンコという(権威の確立した)個人を立脚点とするから、恣意性を排除できないのである。学者の独占を認めず、誰もが認識形成に参加できるのであれば、そこに権威は存在せず、評価があるのみであって、批判が正しければ受け入れるしかない。その場では皆の評価が正否を決することとなる。そして、同類闘争圧力が規定的圧力となった現在、皆の評価、皆の意識こそが現実であって、現実を直視しない認識は棄てられるのみである。(20355を参照されたい)
なお、「イデオロギーと科学を直結させたこと」については、現在の科学も、個人主義という名のイデオロギーに直結しているという点で、ルイセンコと同様の問題を抱え、閉塞しつつある。(3313や3986に連関するスレッドを参照、また科学とイデオロギーの関係については、4050を参照されたい)
また、「現実的な要求に固執し過ぎたこと」については、現実的な要求を離れて(自律して)成立しているが故に抱え込んだ倒錯性を指摘しておきたい。(7246や21089を参照)
すなわち、東條氏が指摘してる「危険性」の悉くは、「理論に内在する」ものなどではなく、(ルイセンコほどではないにしろ)現在の科学(理論)が拠って立つ、現実否定のパラダイムが抱える欺瞞、あるいは倒錯によるものであり、そうした構造ゆえ現在の科学的言説は偏向を宿命づけらている、という事実があるのみではないだろうか。
鈴木隆史
>社会の在り方を考える為に科学的言説を用いるならば、その言説の選択からどれだけ恣意を排除できているのか?現実を直視することと現実以外を無視することとを混同してはいないか?自らが参加する理論の根本的な批判を受け入れる勇気をどれだけ持っているか?
恣意性を排除するために必要なことは、まずもって言説を独占するもの(学者)から、その権威を剥奪することではないだろうか。そして、誰もが言説(=構造認識)の形成に参加できる場を作ることだろう。
ルイセンコという(権威の確立した)個人を立脚点とするから、恣意性を排除できないのである。学者の独占を認めず、誰もが認識形成に参加できるのであれば、そこに権威は存在せず、評価があるのみであって、批判が正しければ受け入れるしかない。その場では皆の評価が正否を決することとなる。そして、同類闘争圧力が規定的圧力となった現在、皆の評価、皆の意識こそが現実であって、現実を直視しない認識は棄てられるのみである。(20355を参照されたい)
なお、「イデオロギーと科学を直結させたこと」については、現在の科学も、個人主義という名のイデオロギーに直結しているという点で、ルイセンコと同様の問題を抱え、閉塞しつつある。(3313や3986に連関するスレッドを参照、また科学とイデオロギーの関係については、4050を参照されたい)
また、「現実的な要求に固執し過ぎたこと」については、現実的な要求を離れて(自律して)成立しているが故に抱え込んだ倒錯性を指摘しておきたい。(7246や21089を参照)
すなわち、東條氏が指摘してる「危険性」の悉くは、「理論に内在する」ものなどではなく、(ルイセンコほどではないにしろ)現在の科学(理論)が拠って立つ、現実否定のパラダイムが抱える欺瞞、あるいは倒錯によるものであり、そうした構造ゆえ現在の科学的言説は偏向を宿命づけらている、という事実があるのみではないだろうか。
鈴木隆史
>作者→(出版)→観客読者という在り様(よう)から、認識仲間の(サイトでの)協働という在り様への移行こそ、私権時代の認識形成と新時代(共認時代)の認識形成との決定的な違いである。
小説にしろ何にせよ、本というのを読んでも、なかなか満足すると言うことが少なくなってきたなーと思う。むしろ、その中に意識のズレや違和感を感じることが多くなって、なかなか本を買わなくなってきた。
今では、雑誌(昔は好きじゃなかった)や個人HPとか覗いてる方が、ずっとおもしろい。その中でも理解できたり自分にしっくりするものを見つけると、本を読んで得られるくらいの充足や共感は簡単に得られるし、機会も多い。
加えて、HPなどは、こちらから声もかけられて、いくらでも(自分が望めば)その仲間に入っていける。そんな感覚が今では当たり前になってて、改めて上記の引用のようなことを言われると、はっとする。
ああ、もう私は観客じゃないんだな-、と思う。
そのサイトに訪れるだけでカウンターは動き、こんな自分の「感覚」さえ、認識形成の隅の部分で役に立っている(かも)というのは、結構な嬉しさで、それがたまに評価されるともっと嬉しい。
読むだけでは終わらない、読み終わることもない、新しい時代が来たんだなって、しかもそれを身体(下部意識)はすでにわかってるんだな、と非常に納得した。
吉岡摩哉
小説にしろ何にせよ、本というのを読んでも、なかなか満足すると言うことが少なくなってきたなーと思う。むしろ、その中に意識のズレや違和感を感じることが多くなって、なかなか本を買わなくなってきた。
今では、雑誌(昔は好きじゃなかった)や個人HPとか覗いてる方が、ずっとおもしろい。その中でも理解できたり自分にしっくりするものを見つけると、本を読んで得られるくらいの充足や共感は簡単に得られるし、機会も多い。
加えて、HPなどは、こちらから声もかけられて、いくらでも(自分が望めば)その仲間に入っていける。そんな感覚が今では当たり前になってて、改めて上記の引用のようなことを言われると、はっとする。
ああ、もう私は観客じゃないんだな-、と思う。
そのサイトに訪れるだけでカウンターは動き、こんな自分の「感覚」さえ、認識形成の隅の部分で役に立っている(かも)というのは、結構な嬉しさで、それがたまに評価されるともっと嬉しい。
読むだけでは終わらない、読み終わることもない、新しい時代が来たんだなって、しかもそれを身体(下部意識)はすでにわかってるんだな、と非常に納得した。
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