×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
同類圧力が新たな活力源というのは、るいネットをみていると実感できます。画面上を飛び交う人々の現実の思念(投稿)は、様々な閃きや刺激を与えてくれます。これは、一人で本を読んで考えていては得られないものです。同類圧力とは人々の意識が活力源となるということですが、まだ見ぬ人々の意識が、るいネットの画面を通じて私の頭に働きかけてくるような感じがします。
これまで本やTVなどいろんな媒体がありましたが、人々はそこで流れる情報を受信(消費)するだけでした。そのほとんどは解脱欠乏を充足させるだけで思考を活性化させるものではありませんでした(むしろ頭が悪くなったような気がする)。それは人々の現実の意識ではなく、解脱欠乏を充足させるための観念の消費だったのかもしれません。その証拠に本の活字やTV番組は工業製品と同様、日本全国どこでも同じ固定的な情報です。
それに対してネットを流れる情報は一時として同じものはありません。現実の人々の意識をリアルタイムに反映して、常に変化(進化)していくようです。私権時代の画一的な解脱観念ではなく、リアルタイムに交信される現実の意識を(活力源=充足源として)人々は求めているのではないでしょうか。その同類欠乏があったからこそ、インターネットやメールがここまで急速に広まったのでしょう。1970年生存圧力を克服した後蓄積された同類圧力が、30年の時を経て自らを具現化する場としてネット世界を創り出したと言えるかもしれません。そして、それこそが互いに顔の見えない社会を統合する場となる可能性を感じさせてくれます。
冨田彰男
これまで本やTVなどいろんな媒体がありましたが、人々はそこで流れる情報を受信(消費)するだけでした。そのほとんどは解脱欠乏を充足させるだけで思考を活性化させるものではありませんでした(むしろ頭が悪くなったような気がする)。それは人々の現実の意識ではなく、解脱欠乏を充足させるための観念の消費だったのかもしれません。その証拠に本の活字やTV番組は工業製品と同様、日本全国どこでも同じ固定的な情報です。
それに対してネットを流れる情報は一時として同じものはありません。現実の人々の意識をリアルタイムに反映して、常に変化(進化)していくようです。私権時代の画一的な解脱観念ではなく、リアルタイムに交信される現実の意識を(活力源=充足源として)人々は求めているのではないでしょうか。その同類欠乏があったからこそ、インターネットやメールがここまで急速に広まったのでしょう。1970年生存圧力を克服した後蓄積された同類圧力が、30年の時を経て自らを具現化する場としてネット世界を創り出したと言えるかもしれません。そして、それこそが互いに顔の見えない社会を統合する場となる可能性を感じさせてくれます。
冨田彰男
PR
では、人類の新たな活力源⇒圧力源は何か?
それは、すでに実現論4_1_00『人類500万年のパラダイム転換』に明示されている。
>サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで500万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして5500年前(日本は2000年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。
これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。
>また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、環境その他の人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。
つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
にも拘らず、同類圧力=共認圧力を生命源とする社会であるという根本パラダイムは、極限時代と同じである。ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機に瀕した今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。
四方勢至
それは、すでに実現論4_1_00『人類500万年のパラダイム転換』に明示されている。
>サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで500万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして5500年前(日本は2000年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。
これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。
>また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、環境その他の人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。
つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
にも拘らず、同類圧力=共認圧力を生命源とする社会であるという根本パラダイムは、極限時代と同じである。ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機に瀕した今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。
四方勢至
>だって貧困国にとっては、お金を手に入れ、社会的地位・権力を手にすることが強い活力源だと思います。<
このまま突っ走っていけばどうなるか、というのは31431の渡辺さんの投稿が分かりやすのでそちらに譲ります。「発展途上といわれる国々」は、市場のシステムの中では“途上”なのであって、共同体が悉く破壊されてしまった先進国よりも、本源的・共同体的なつながりを残しているところが多いですよね。
それを破壊して市場に組み込まれれば滅亡しかないことを分かっているのなら、守るべきものは何かを教えるのが先進国の役割だと思います。また、現代の衰弱しつつある市場の先導役を担っているのは主に先進国です。市場が衰弱していくのなら、それに替わるシステムを市場を超えたところで考えなければならないのではないでしょうか。
>(日本だけでしても意味がないということ)この地球上の人みんなが理解して、全員で行動しなければなりません。<
そのきっかけを考える場が、るいネットだと思います。
まず、自分たちの生きているこの日本をどうするか、行き詰まった先進国の問題(自分たちの問題)を突破できないで、どうして途上国の問題を解決できるのでしょうか。本当に現実の問題に晒されている途上国の人たちは自分たちの問題として懸命に考えています。私たちはかれら以上に真剣に考えられるのでしょうか?
そもそも、行き詰まった日本の現実を当事者として真剣に考え、突破しようとしているのでしょうか。
それに対しては何の突破口も示せず、途上国の問題を持ち出すのは、決して当事者にはならないで傍観者の位置から奇麗事をいうだけの(従って、何の解決策も出せない)マスコミと同じだと思います。
それが、本気で現実にぶつかろうとしない自分を正当化する理屈になっているということに、気付いて欲しいです。
森政子
このまま突っ走っていけばどうなるか、というのは31431の渡辺さんの投稿が分かりやすのでそちらに譲ります。「発展途上といわれる国々」は、市場のシステムの中では“途上”なのであって、共同体が悉く破壊されてしまった先進国よりも、本源的・共同体的なつながりを残しているところが多いですよね。
それを破壊して市場に組み込まれれば滅亡しかないことを分かっているのなら、守るべきものは何かを教えるのが先進国の役割だと思います。また、現代の衰弱しつつある市場の先導役を担っているのは主に先進国です。市場が衰弱していくのなら、それに替わるシステムを市場を超えたところで考えなければならないのではないでしょうか。
>(日本だけでしても意味がないということ)この地球上の人みんなが理解して、全員で行動しなければなりません。<
そのきっかけを考える場が、るいネットだと思います。
まず、自分たちの生きているこの日本をどうするか、行き詰まった先進国の問題(自分たちの問題)を突破できないで、どうして途上国の問題を解決できるのでしょうか。本当に現実の問題に晒されている途上国の人たちは自分たちの問題として懸命に考えています。私たちはかれら以上に真剣に考えられるのでしょうか?
そもそも、行き詰まった日本の現実を当事者として真剣に考え、突破しようとしているのでしょうか。
それに対しては何の突破口も示せず、途上国の問題を持ち出すのは、決して当事者にはならないで傍観者の位置から奇麗事をいうだけの(従って、何の解決策も出せない)マスコミと同じだと思います。
それが、本気で現実にぶつかろうとしない自分を正当化する理屈になっているということに、気付いて欲しいです。
森政子
>言葉とは、様々な対象を観察したり,認識したりしたことを表現していく方法であると思います。より対象を捉えることができれば、言葉の進化はもっと人々に伝わる方向で進んでいくのではないかと思います。( 30122澤根さん)
言葉は人々に伝わりやすく進化するのではないか?という話がでましたので、他の側面からも考察してみたいと思います。現在ところ、『言葉そのものに、それほど大きな変化はない』と思っています。
この問題は『どんな言葉なら伝わりやすい?』という問題を考えると解りやすいと思います。より深く対象を捉えた観念(ここでは言葉に限ります)が相手に伝わりやすいという一般則はあると思います。しかし、伝える『言葉』だけに注目していては、なぜ深く広く伝わるのか?の本質は見えないと思います。現代の言語学のほとんどが、それに答えが出せないように。
例えば、現在のように余分な観念があふれた時代に、深く捉えた観念は数少ないというのも事実です。それでも、より深く広く伝わる可能性を秘めています、それを求めている人には。もっというと、同じ言葉でも人によって伝わる深さや広がりは異なるとも思います。
ある人が対象を深く捉えたとき、その人の頭の中では対象世界は統合され、スッキリ感で充足した状態だとします。それを伝えるために『言葉』をえらび発することになります。この時、発話者の頭の中で統合されたすべての情報のうち一部が表出されたにすぎません。言葉そのものの限界性の一つです。
では、頭の中で考えたことは、言葉によって限定された一部の情報しか伝わらないのか?というとそうではありません。受信者側は、その言葉の発せられる状況を察し、それに近い状況を頭の中で追体験することができれば、かなり正確に伝わります。
言葉の伝達(この言葉自体がおかしいのですが)は、相互に共有する基盤が合ってはじめて可能になります。そして、共有する基盤が深く広いほど伝わりやすくなります。現在であれば、潜在的な共認(まだ言葉になっていないレベル)の中心に肉迫する言葉ほど伝わりやすいのだと思います。
伝わりやすい言葉とは、多くの人に可能性を感じさせる言葉であると思います。そして、可能性を感じるのは、多くの人が潜在的に求めている、人間の本源性を気づかせてくれる言葉だからだと思います。潜在思念を言葉化するとは、そのような行為ではないかと思います。
本田真吾
言葉は人々に伝わりやすく進化するのではないか?という話がでましたので、他の側面からも考察してみたいと思います。現在ところ、『言葉そのものに、それほど大きな変化はない』と思っています。
この問題は『どんな言葉なら伝わりやすい?』という問題を考えると解りやすいと思います。より深く対象を捉えた観念(ここでは言葉に限ります)が相手に伝わりやすいという一般則はあると思います。しかし、伝える『言葉』だけに注目していては、なぜ深く広く伝わるのか?の本質は見えないと思います。現代の言語学のほとんどが、それに答えが出せないように。
例えば、現在のように余分な観念があふれた時代に、深く捉えた観念は数少ないというのも事実です。それでも、より深く広く伝わる可能性を秘めています、それを求めている人には。もっというと、同じ言葉でも人によって伝わる深さや広がりは異なるとも思います。
ある人が対象を深く捉えたとき、その人の頭の中では対象世界は統合され、スッキリ感で充足した状態だとします。それを伝えるために『言葉』をえらび発することになります。この時、発話者の頭の中で統合されたすべての情報のうち一部が表出されたにすぎません。言葉そのものの限界性の一つです。
では、頭の中で考えたことは、言葉によって限定された一部の情報しか伝わらないのか?というとそうではありません。受信者側は、その言葉の発せられる状況を察し、それに近い状況を頭の中で追体験することができれば、かなり正確に伝わります。
言葉の伝達(この言葉自体がおかしいのですが)は、相互に共有する基盤が合ってはじめて可能になります。そして、共有する基盤が深く広いほど伝わりやすくなります。現在であれば、潜在的な共認(まだ言葉になっていないレベル)の中心に肉迫する言葉ほど伝わりやすいのだと思います。
伝わりやすい言葉とは、多くの人に可能性を感じさせる言葉であると思います。そして、可能性を感じるのは、多くの人が潜在的に求めている、人間の本源性を気づかせてくれる言葉だからだと思います。潜在思念を言葉化するとは、そのような行為ではないかと思います。
本田真吾
阿部さんの投稿「男は女の何に期待しているか?(1)(2)」を拝読しました。
女への評価を表面的価値(容姿)と内面的価値(「男をたてる応望性」「男を癒す親和性」「男に尽す規範性」)の二面性で捉えられ、男が内面的価値よりも表面的価値に収束してしまう原因として、
>共同体的集団の解体によって女性の「生(生きざまのような包括的な存在感)」そのものを実感できなくなってしまったことが大きな原因ではないかと感じています。
と述べておられることに同感です。
またこのような男女の評価関係について
>相手の「評価」を、自分の頭の中でこねくり回さずに皆の評価にあずけてしまうことができたら、男女関係も、自我とか嫉妬などとは無縁のものにできそうな気がします。(30114)
のように、男から女へ、女から男への評価が二人だけの個的な関係になれば、必ず自我に根ざしたものになりますが、共同体的な集団におけるオープンな評価空間ならば、自ずから自我は排除されていくのではないでしょうか?
阿部さんが>次は、「女は男に何を期待しているのか?」もあわせて考えてみようかと思います。<と仰っていましたが、この問いを女の立場から考えてみると、「女のパラダイム転換」(30143 川田さん)
の投稿に多くの答えがあるように思います。
男への評価が物収束の時代では三高「高学歴、高収入、高身長(これは物収束ではなく表面的価値ですが)」と言われましたが、今ではこれらの言葉も死語となり、むしろ人収束の時代へ。その評価も「優しさ、楽しさ」へと替わっています。しかし、女の男への評価は、あくまでも自我に根ざしており「自分が精神的にも物質的にも安全であり、安心できる場を与えてくれる存在である」ということは同じなのではないでしょうか?
> さらに、かつて女は同類闘争では体力面で劣るので戦列に加わる事が 出来ませんでしたが、認識闘争では共に戦うことが可能だと思います。この認識闘争の場「るいネット」に新しい時代の胎動を感じます。
と言われているように、「生存圧力に基づく同類闘争から同類圧力に基づく同類闘争=認識闘争」へと時代も変わり、この認識闘争には体力では劣っていても女も男と一緒に加わることができ、課題を共有することができます。そして、ここでは「認識がいかにすぐれているか?」という 評価ヒエラルキーがオープンにされています。女も新しい認識を獲得し、男を評価する時に「認識が高い男が優れた男である」ということを第一義とする必要があると思います。この女の「パラダイム転換」こそ、人間の再基底部にある「男女・性・婚姻」に確実な変革をもたらすのではないでしょうか?
大木康子
女への評価を表面的価値(容姿)と内面的価値(「男をたてる応望性」「男を癒す親和性」「男に尽す規範性」)の二面性で捉えられ、男が内面的価値よりも表面的価値に収束してしまう原因として、
>共同体的集団の解体によって女性の「生(生きざまのような包括的な存在感)」そのものを実感できなくなってしまったことが大きな原因ではないかと感じています。
と述べておられることに同感です。
またこのような男女の評価関係について
>相手の「評価」を、自分の頭の中でこねくり回さずに皆の評価にあずけてしまうことができたら、男女関係も、自我とか嫉妬などとは無縁のものにできそうな気がします。(30114)
のように、男から女へ、女から男への評価が二人だけの個的な関係になれば、必ず自我に根ざしたものになりますが、共同体的な集団におけるオープンな評価空間ならば、自ずから自我は排除されていくのではないでしょうか?
阿部さんが>次は、「女は男に何を期待しているのか?」もあわせて考えてみようかと思います。<と仰っていましたが、この問いを女の立場から考えてみると、「女のパラダイム転換」(30143 川田さん)
の投稿に多くの答えがあるように思います。
男への評価が物収束の時代では三高「高学歴、高収入、高身長(これは物収束ではなく表面的価値ですが)」と言われましたが、今ではこれらの言葉も死語となり、むしろ人収束の時代へ。その評価も「優しさ、楽しさ」へと替わっています。しかし、女の男への評価は、あくまでも自我に根ざしており「自分が精神的にも物質的にも安全であり、安心できる場を与えてくれる存在である」ということは同じなのではないでしょうか?
> さらに、かつて女は同類闘争では体力面で劣るので戦列に加わる事が 出来ませんでしたが、認識闘争では共に戦うことが可能だと思います。この認識闘争の場「るいネット」に新しい時代の胎動を感じます。
と言われているように、「生存圧力に基づく同類闘争から同類圧力に基づく同類闘争=認識闘争」へと時代も変わり、この認識闘争には体力では劣っていても女も男と一緒に加わることができ、課題を共有することができます。そして、ここでは「認識がいかにすぐれているか?」という 評価ヒエラルキーがオープンにされています。女も新しい認識を獲得し、男を評価する時に「認識が高い男が優れた男である」ということを第一義とする必要があると思います。この女の「パラダイム転換」こそ、人間の再基底部にある「男女・性・婚姻」に確実な変革をもたらすのではないでしょうか?
大木康子
カウンター
カレンダー
最新記事
(01/24)
(01/24)
(12/11)
(12/10)
(12/08)
最新コメント
[04/03 神崎]
[11/18 埼玉新聞読者]
[11/18 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
ブログ内検索
最古記事
(09/02)
(09/11)
(09/12)
(09/13)
(09/14)
P R