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【「専門分化」は必要最低限にとどめる必要がある。むしろ、総合化を推し進めた方がよい】
第二の理由として、現在のさまざまな問題に対して、現実には専門分化では突破できなくなってきているという事実です。
これは、書店に行っても実感できます。本の分類は0門から9門まで大分類されますが、今やこの分類にさえ当てはめようがない分野を超えた専門書が多くなってきています。ホント、本を探すのに一苦労。また、Aという専門家がBというジャンルで賞をもらうというのもよくきく話です。
なぜか。この点に関連して、1970年代(豊かさが実現され、と同時にカーソンの「沈黙の春」が出され、公害問題環境問題が現れてきた時代です)に東大の江上不二夫が「生命科学」を提唱しました。
「今の生物学は、人間も生き物なのに人間を見ていない。社会のことを全然考えていない。そこで生物・人間・社会を考える総合的学問をつくらなければならない」
専門的内容とは、生物・人間・社会とどのように関わるかを深く追求することであり、それは専門分化ではなく総合化の視点が必要であるといっているわけです。だから、そのための体制・システムが必要であると。この点については、何も生物学に留まらず、物理学者のシュレディンガ-も「生命とは何か」で次のように述べています。
第二の理由として、現在のさまざまな問題に対して、現実には専門分化では突破できなくなってきているという事実です。
これは、書店に行っても実感できます。本の分類は0門から9門まで大分類されますが、今やこの分類にさえ当てはめようがない分野を超えた専門書が多くなってきています。ホント、本を探すのに一苦労。また、Aという専門家がBというジャンルで賞をもらうというのもよくきく話です。
なぜか。この点に関連して、1970年代(豊かさが実現され、と同時にカーソンの「沈黙の春」が出され、公害問題環境問題が現れてきた時代です)に東大の江上不二夫が「生命科学」を提唱しました。
「今の生物学は、人間も生き物なのに人間を見ていない。社会のことを全然考えていない。そこで生物・人間・社会を考える総合的学問をつくらなければならない」
専門的内容とは、生物・人間・社会とどのように関わるかを深く追求することであり、それは専門分化ではなく総合化の視点が必要であるといっているわけです。だから、そのための体制・システムが必要であると。この点については、何も生物学に留まらず、物理学者のシュレディンガ-も「生命とは何か」で次のように述べています。
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既に述べた様に、人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。
しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。事実、昔からインテリとは、何事に対しても傍観者を決め込む、最も腰の重い連中の代名詞である。
だが、何事も批判するしか能がなく、従って何一つ実現できたことがない只の傍観者に、現実社会の真の姿が見える訳が無い。
案の定、彼ら学者や文化人やマスコミは認識を誤り(もともと彼らは現実離れした誤った認識しか持っていなかったが)、その誤った認識を人々に植え続けて、遂に人類滅亡の危険さえ考えられるほどの全面的な閉塞状態に人々を追い込んで終った。当然のことながら、かかる危機状況に至っても、彼らから答え(=新しい認識)が出てくる気配は全くない。
しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。事実、昔からインテリとは、何事に対しても傍観者を決め込む、最も腰の重い連中の代名詞である。
だが、何事も批判するしか能がなく、従って何一つ実現できたことがない只の傍観者に、現実社会の真の姿が見える訳が無い。
案の定、彼ら学者や文化人やマスコミは認識を誤り(もともと彼らは現実離れした誤った認識しか持っていなかったが)、その誤った認識を人々に植え続けて、遂に人類滅亡の危険さえ考えられるほどの全面的な閉塞状態に人々を追い込んで終った。当然のことながら、かかる危機状況に至っても、彼らから答え(=新しい認識)が出てくる気配は全くない。
政治家の講演会やパーティーに参加する機会も多いのですが、社会統合という次元で考えた場合、(その政治家の人物や力量という次元ではなく)いつも限界を感じます。たいがいの政治家の行っている「政治」活動というのは、政策研究やそのための論議というのはチョコットで(議会が開かれているのも実に短い期間で中身の論戦は殆どない)、たいがいの活動は、後援会や支援者の様々な会合への出席や、支援者からの陳情を受けたり、そのためのいろんな根回しをすることなどに費やされています。そして、後援会や会合で話されることも政策のスローガンであったり、議会での手柄の自慢話であったりが殆どで、参加者はただそれを聞いているだけです。つまり、政治家と有権者との間には、政策の中身に関する対話は殆どなく、有権者は単に要求するだけ、あるいは、ショーケースに陳列された公約を選択するだけです。
>このまつり場(認識形成の場)は、参加する人々が増えるにつれて、科学から芸能までを包摂した人類の鑑(かがみ。知の結晶)に成長してゆく。そして、それは最終的には万人をその下に収束させた人類の最先端機能となり、同時に人類の最大の圧力源=活力源となる。
そして、それこそが、新しい社会統合機構(の中核)となる。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=31768)
人類の鑑(かがみ。知の結晶)
認識形成の場が鑑になるとは、どういうことだろう。
辞書によると、
鑑=〔(鏡)と同源。映し見る意から〕規範とすべきもの、模範、手本、とある。
そして、それこそが、新しい社会統合機構(の中核)となる。(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=31768)
人類の鑑(かがみ。知の結晶)
認識形成の場が鑑になるとは、どういうことだろう。
辞書によると、
鑑=〔(鏡)と同源。映し見る意から〕規範とすべきもの、模範、手本、とある。
>「自由」や「人権」以外にもまだまだ欺瞞観念が蔓延っていますね。
(閉塞感の原因である固定観念を塗り替えるべく)事実を捉える構造認識や新しい捉え方をみんなで紡いでいく事と、(行き詰まった国家や市場に変わる統合機関を作るべく)その認識や場を広めてゆく事こそが最大の課題で、みんな、これこそ最も重要で豊かな実践だ!という思いでここに参加しています。
それは共認できてるはずなのに、なんでそれでも「行動」とか「実践」とかっていう反論が出てくるんだろうってずっと疑問だったんですが、それって、「観念と実践」という風に分断してしまっているから陥る矛盾なんじゃないかと思ったんです。
(閉塞感の原因である固定観念を塗り替えるべく)事実を捉える構造認識や新しい捉え方をみんなで紡いでいく事と、(行き詰まった国家や市場に変わる統合機関を作るべく)その認識や場を広めてゆく事こそが最大の課題で、みんな、これこそ最も重要で豊かな実践だ!という思いでここに参加しています。
それは共認できてるはずなのに、なんでそれでも「行動」とか「実践」とかっていう反論が出てくるんだろうってずっと疑問だったんですが、それって、「観念と実践」という風に分断してしまっているから陥る矛盾なんじゃないかと思ったんです。
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