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>なるほど、1つ1つの集団は特定の統合軸によって集まり、それがなくなれば離れていきます。(40534 谷崎俊文さん)

人生に出会いと別れは付き物だと思っていた。どんなに楽しく遊んだ友達も、どんな苦労を共にした仲間も、課題=統合軸が無くなれば、仲間ではいられずに、やがて離れていってしまう。これは当たり前と思っていても、つらいことだった。

>逆に考えると、集団を超えた統合軸があれば、離れていかないのですね。その集団を超えた領域が社会。(40534)

社会って、いままでは実体が無かった(幻想観念だった)ように思う。私たちは傍観者だったから。
でも今は違う。「新しい認識」と、それを紡ぎだす場があれば、社会(統合)はみんなのものになる。当事者になりたい人が、「新認識」を持って集まれば、社会は実体を持って立ち現れる。

「繋がりたい」その中身を探してる(31467)。
かつて私はそう投稿した。この投稿から4ヶ月しか経っていないけど、もう状況は変わってしまった。
「ただの解脱じゃ楽しくない」という思いは、薄々ではなく、はっきりと感じられるようになってしまった。解脱目的の集まりは楽しくないだけじゃない、苦しい、つらい、さみしい。解脱のはずが、不全になってしまっている。
まさに、「社会不全は解脱では解消できない」のだと実感している。それどころか、「代償充足にすぎない解脱は、実は充足すらできず、社会不全を蓄積させるだけなのだ」ということも。

「繋がりたい」の中身は、「社会認識」じゃなきゃ。
繋がりの中身が私権や解脱では、いつか必ず別れの日が来るし、充足ももはや出来なくなっていく。「社会認識(新しい認識)」で繋がれば、「カタワの集団」を超えて、すべての認識仲間と繋がれる、充足できる。

「新しい認識」を道具に、「社会統合」を課題にして、認識仲間に出会う。それが、これからの「社会に出る」ってことなのだと思った。そして、みんなが「社会に出」れば、「人類皆、認識仲間」なんだと思った。

藤岡聖子 
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>「社会に出る」とは、私権と離れた存在になるということなんだな、と思いました。(40513 綾木さん)

私権が衰弱した今、人々が「社会に出る」と言ったときにイメージ(期待)しているのは、「私権と離れた存在」になること、私権課題から自由なところで社会と関わること、なんだなと思います。
そして、そうなんだけど、その求めていること(社会と関わること)は集団を超えたところにあるんだ、っていうことにはっきりと気づいていないから、今はまだ「集団」にそれを求め、違うと感じたらまた別の集団に移り・・・という状態なんだと思います。

でも、「集団に入る」ということは、それが会社や学校やサークルetc..どんな集団であっても、その中には各人の役割があるし、そこに入ることによって人はその集団が持つ固有の仕事(専業)に就くことになるし、それは、自分が生活する為(食べていくため?)や世の中が動いていくためには必要なことで、その行為自体はなくならないと思います。
だから、「社会に出たい」と思っている人が、「社会に出ることができそうな(当事者欠乏を満たしてくれそうな)集団」を選んだり、そういう集団をつくろうとするのは、もしかしたらちょっと違うのかなと感じました。

それよりも、「集団の目的を超えた次元=各人の専業を超えた次元」でつながっていくのが本当で、それができる場をつくっていくのが今求められていることなんだと思います。

実現論:序文「ト.万人が半専任(副業)として参画する(実現論9_7_00)」で書かれていることが改めてわかってきたように思います。

酒井典子
考えて見れば、これまで考えられてきた”社会”とは、「統合の場としての社会」などではなく、「有象・無象の集団の集合体としての社会」であったような気がする。

そのひとつひとつの要素が、どこまでいっても”カタワ”(40425 岡田さん)であるために、あらゆる「社会問題」は集団の利益や損得に照らし合わされ、矮小化していく。
経済・生産・男女関係(性)・子育て・環境・・・すべて現代社会に渦巻く問題でありながら、末端である集団においては、自ら(の損得)にかかわる問題を除いては捨象されてしまう。
逆に言えば、これらの「社会問題」は、社会を構成しているのが全て「カタワ集団」であるがために生じてきたとも言えるかもしれない。
結局、あらゆる問題は、既存のカタワ集団を前提にする限り解決策は見えてこない。

昨今は”超集団”としてネットワークがやたらともてはやされるが、そのネットワークの結集軸が、(個々のカタワ集団と同じように)単一目的しか持っていないのだから、結局カタワ集団を再生産しているに過ぎない。なにより、無数の社会問題に対して何の解決策も生み出せていない。

求められるのは、これら”カタワ集団”に全く縛られない場であり、そのような集団を超えた繋がり。
今、まさに「認識形成サイト」がその場を生み出していっている。
実際、この場では既存の集団に縛られることなく、社会・経済(私権)・仕事・環境・男女(性)・教育、およそ考えられる全ての社会問題が考えられ、次々と新しい認識が紡がれている。
バラバラの個人でも、カタワ集団でもない、「全てを統合する場」としての姿がここにある。

我々が日々広めていけば、社会に出始めた人々の結集軸が”認識形成サイト”になるのは間違いない。
だとすれば、集団を超えて人々が結集するこの場は、「社会統合サイト」に他ならなくなる。

西谷文宏
>もともと強制圧力によって無理矢理「カタワ集団」に封じ込められてきた人々の、「集団」離れが加速している。
>現在はまだ、社会に出た人々=当事者になろうとする人々が、「集団」を超えた新しいつながりを模索している段階である。

ってことは、この場に誘う場合でも、「集団を超えている」と感じさせることが大きなポイントだと思います。

だったら、認識の必要性が共認できたら(=認識仲間になったら)、なるべく早く「認識形成の場(認識欠乏を充たす場)」か「認識営業の場(人収束を充たす場)」に連れ出すのがいいんじゃないかと思いました。

「認識仲間」だけなら知人や集団の間でも成立するけど、「るいネット」や「営業」は、そんな枠に囚われていては参加出来ない場だからです。言葉でいくら「広がり」とか「社会」とか言っても、圧力がないとそれは感じられないので、集団を超えて当事者になろうとする人々を、集団を超えた場に連れ出すことは、とても大事だと思います。

西知子 
> 「集団」に入ったのではなく、社会に出ていったのではないだろうか
(40426岡田さん)

> 人々の潜在思念が求めているものは、集団の利害を超えて社会のことを追求する仲間が集まる場なのではないでしょうか。(40491富田さん)

潜在思念に導かれ「カタワ集団」から離脱することで、意識するしないに関わらず、人々は初めて社会そのものに向き合わざるを得なくなったのではないでしょうか。

そのことで生起した不安感、学校や会社に入りたての頃の不安に近い、しかしそれよりも遥かに大きく漠とした「根無し草」感が、人々を覆っている「社会不全」というものの一つの実感表現かも知れません。

そして、一見離脱の実態とは逆ベクトルに見える動き、時折雑誌で取りざたされる「結婚志向の強さ」や、環境の会議室でテーマになっている「農村志向」も、その不安からくる旧集団への回帰願望という揺り戻しに過ぎないのではないかと思います。

しかし、離脱ベクトルの方が潜在思念によっている以上、旧集団が「カタワ」である以上、この流れは止まることはありません。

学校社会なら学校のことを、企業社会なら仕事のことを日常語り、人間関係の軸に据えることで私たちはそこに根を生やしてきました。今、私たちが向き合いつつあるのが「社会総体」であるならば、この漠とした存在のことを日常語る場をつくり、人間関係の軸に据えることで、私たちは新しい根を伸ばすことができるのだと思います。


田中素 
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