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私たちの世代は、より濃密な集団を形成することに魅力を感じ、得手不得手はあったとしてもそれぞれが何らかの集団に入ろうと努めてきたように思う。
家族という小さいが最も安心できる集団を守りながら、一方でそこに閉じこもることを潔しとしないという、半ば願望のような意識を持ちながら、しかし本当に活力が湧き出るような場が見出せないという不全感を孕む。
…そんな分裂した意識で多くの男達は生きてきたのではないだろうか。そして、この分裂感覚は年を追うごとに広がってきたと思う。
又、私たちの世代は、「社会統合の地平に立つ」と言うと、「自立した個人の確立」といった言葉を思い浮かべてしまう人が多いのではないかと思う。しかし、それは決して実現し得ない空虚なイメージでしかないだろう。答えは社会統合という地平を対象にした認識仲間の形成ということになるのであろう。
ネットが新たな社会インフラになり、その上に外向きに開かれた様々な認識仲間がつくられていくのではないかと思う。そこに至る過程では、従来の様々な集団との意識上の繋がりが空虚になってゆき、それに代わる形で新しい認識仲間が形成されていくというイメージであろうか。むしろ、認識仲間の生成によって、これまで一人ひとりが拠り所としていた集団の繋がりが空虚になってゆき、同時に変質を促してゆくという関係なのだと思う。
山田渉
家族という小さいが最も安心できる集団を守りながら、一方でそこに閉じこもることを潔しとしないという、半ば願望のような意識を持ちながら、しかし本当に活力が湧き出るような場が見出せないという不全感を孕む。
…そんな分裂した意識で多くの男達は生きてきたのではないだろうか。そして、この分裂感覚は年を追うごとに広がってきたと思う。
又、私たちの世代は、「社会統合の地平に立つ」と言うと、「自立した個人の確立」といった言葉を思い浮かべてしまう人が多いのではないかと思う。しかし、それは決して実現し得ない空虚なイメージでしかないだろう。答えは社会統合という地平を対象にした認識仲間の形成ということになるのであろう。
ネットが新たな社会インフラになり、その上に外向きに開かれた様々な認識仲間がつくられていくのではないかと思う。そこに至る過程では、従来の様々な集団との意識上の繋がりが空虚になってゆき、それに代わる形で新しい認識仲間が形成されていくというイメージであろうか。むしろ、認識仲間の生成によって、これまで一人ひとりが拠り所としていた集団の繋がりが空虚になってゆき、同時に変質を促してゆくという関係なのだと思う。
山田渉
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集団や人間関係の在り様も、最先端の同類闘争に収束します。
>社会空間での集団間(or個人間)の関係の原基形態は、同類闘争(縄張り闘争)という闘争関係である。それに対して悲惨な掠奪闘争が象徴している様に、人々には闘争を回避しようとする適応本能が強く働くが、根が私権闘争に基ずいているが故に、それを回避する抜け道は、互いの合意に基づく取引関係しかない。 事実、私権闘争の圧力で満たされた社会空間では、相互に現実の欠乏を充たそうとすれば(つまり、欲と欲がからめば)、奪い取るか、さもなければ取引関係を結ぶ以外にはない。(その典型が私権時代の男女関係であるが、同様に私権時代にあっては親子関係にも友人関係にも、取引的な側面がつきまとっている。)(33179)
武力支配時代の同類闘争は私権闘争⇒掠奪闘争です。それを止揚する力の序列共認を下敷きにした身分制度によって社会は統合され、集団や人間関係も身分秩序を元に形成されました。市場時代は、私権闘争を回避する抜け道として交換の場=市場が生まれ、お金の獲得競争が始まり、集団も人間関係も取引関係となりました。
今や、人類の活力源は、生存圧力に基づく同類闘争圧力から、同類圧力に基づく同類闘争圧力に変わりました。集団からの離脱とは、古い同類闘争である私権闘争からの離脱であり、古い人間関係である取引関係や身分(肩書き)関係からの離脱です。社会に出たということは、新しい同類闘争(認識闘争=評価競争)に人々が収束し始めたということです。(31505)
武力支配時代の終り(市場時代の始まり)には、身分制度とそれを元にした集団や人間関係からの離脱が始まり、交換の場に人々が集まり、集団や人間関係が取引関係に変わりました。それと同様に、この新しい同類闘争の場(認識形成の場)が、新しい集団や人間関係を作り出すのではないでしょうか。
冨田彰男
>社会空間での集団間(or個人間)の関係の原基形態は、同類闘争(縄張り闘争)という闘争関係である。それに対して悲惨な掠奪闘争が象徴している様に、人々には闘争を回避しようとする適応本能が強く働くが、根が私権闘争に基ずいているが故に、それを回避する抜け道は、互いの合意に基づく取引関係しかない。 事実、私権闘争の圧力で満たされた社会空間では、相互に現実の欠乏を充たそうとすれば(つまり、欲と欲がからめば)、奪い取るか、さもなければ取引関係を結ぶ以外にはない。(その典型が私権時代の男女関係であるが、同様に私権時代にあっては親子関係にも友人関係にも、取引的な側面がつきまとっている。)(33179)
武力支配時代の同類闘争は私権闘争⇒掠奪闘争です。それを止揚する力の序列共認を下敷きにした身分制度によって社会は統合され、集団や人間関係も身分秩序を元に形成されました。市場時代は、私権闘争を回避する抜け道として交換の場=市場が生まれ、お金の獲得競争が始まり、集団も人間関係も取引関係となりました。
今や、人類の活力源は、生存圧力に基づく同類闘争圧力から、同類圧力に基づく同類闘争圧力に変わりました。集団からの離脱とは、古い同類闘争である私権闘争からの離脱であり、古い人間関係である取引関係や身分(肩書き)関係からの離脱です。社会に出たということは、新しい同類闘争(認識闘争=評価競争)に人々が収束し始めたということです。(31505)
武力支配時代の終り(市場時代の始まり)には、身分制度とそれを元にした集団や人間関係からの離脱が始まり、交換の場に人々が集まり、集団や人間関係が取引関係に変わりました。それと同様に、この新しい同類闘争の場(認識形成の場)が、新しい集団や人間関係を作り出すのではないでしょうか。
冨田彰男
「我々は集団に入ったのではなく社会に出た」40426という認識が発せられてから、しばらくモヤモヤとしていました。潜在的になにか気付かされたのだけれど、それがちゃんと出てこない。そんな感じでした。
我々が今日属する家庭や学校や職場、また様々に存在するサークルやNPOを始めとする団体は、私権社会の産物です。それぞれで役割が分断され、性格が異なっている以上、その範疇を超えることは出来ません。むしろ出来ないように仕組まれている。私権社会とは、人々をそのように向わせてしまうシステムなのだとつくづく感じました。これではとても社会に出られない。
長谷さんがおっしゃるように、集団の在り様は、それを包摂する社会の在り様に規定されます。そして社会の在り様は人々の意識によって規定されます。
人々の意識は、個人や集団の利害をはるかに超えた、外の世界(皆、仲間の世界)を求めていて、この位相を獲得することが、日々の活力や、必要か否かという真っ当な判断を与えてくれます。
先ずは万人がその地平を獲得し、私権を超えて社会を統合していく。そうなれば、旧いカタワ集団は何の意味もなさなくなり、認識仲間の新しいつながりが、それに替わる新しい本源集団を構築していく。そんなイメージが期待感とともに湧き出てきました。
社会統合→本源集団化のプロセスにとても納得しました。
福島健
我々が今日属する家庭や学校や職場、また様々に存在するサークルやNPOを始めとする団体は、私権社会の産物です。それぞれで役割が分断され、性格が異なっている以上、その範疇を超えることは出来ません。むしろ出来ないように仕組まれている。私権社会とは、人々をそのように向わせてしまうシステムなのだとつくづく感じました。これではとても社会に出られない。
長谷さんがおっしゃるように、集団の在り様は、それを包摂する社会の在り様に規定されます。そして社会の在り様は人々の意識によって規定されます。
人々の意識は、個人や集団の利害をはるかに超えた、外の世界(皆、仲間の世界)を求めていて、この位相を獲得することが、日々の活力や、必要か否かという真っ当な判断を与えてくれます。
先ずは万人がその地平を獲得し、私権を超えて社会を統合していく。そうなれば、旧いカタワ集団は何の意味もなさなくなり、認識仲間の新しいつながりが、それに替わる新しい本源集団を構築していく。そんなイメージが期待感とともに湧き出てきました。
社会統合→本源集団化のプロセスにとても納得しました。
福島健
知人つながりの認識営業で感じるネックが、自我仲間であったり、遊び仲間でしかなかった関係を、改めて認識仲間として再生しようとするときのギャップにあることは確かなのですが、むしろ問題の本質は、『本当は、集団に入ったのではなく、社会に出たのだ(40552)』という認識が欠落していたことにありそうです。
“社会不全”を直視するにしても、あれこれの「集団」の主体として社会を捉えようとすると、誰かから与えられた(または要求するだけの)漠然としたもの、との傍観者の意識になるしかないのでは、と気付きました。
>「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。(40552)
社会に出たのならば、社会を対象化しなければ生きていけない。共認動物たる人間は、必然的に社会(=人々)の共認内容(=認識)を把握しようとします。そして、最良の認識に可能性収束しようと、評価共認が働きます。ここでは私権取引も自我共認も入り込む余地はない。社会の当事者として、ひたすら社会をどう統合するか(主体側から見ればどう統合されるか=可能性収束できるか)の答え=認識に向かうしかありません。
そう考えれば、知人つながりのネックも一気に吹っ飛びます。どの集団に属していようが、面識の有無さえ、社会空間では何の意味も持たなくなります。今回、るいネットが存在している地平=ここに集う人々が存在している地平が、より明瞭になりました。
社会の当事者を自覚した人々が、答えを求めて“るいネット”に集うことによって、初めて次のように断定できるのだと思います。
>宗教集団や政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々は単一の集団でしかない。(中略)従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。そもそも、各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が、実は単一の集団でしかないというのでは、社会を統合する資格などない。
岡本誠
“社会不全”を直視するにしても、あれこれの「集団」の主体として社会を捉えようとすると、誰かから与えられた(または要求するだけの)漠然としたもの、との傍観者の意識になるしかないのでは、と気付きました。
>「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。(40552)
社会に出たのならば、社会を対象化しなければ生きていけない。共認動物たる人間は、必然的に社会(=人々)の共認内容(=認識)を把握しようとします。そして、最良の認識に可能性収束しようと、評価共認が働きます。ここでは私権取引も自我共認も入り込む余地はない。社会の当事者として、ひたすら社会をどう統合するか(主体側から見ればどう統合されるか=可能性収束できるか)の答え=認識に向かうしかありません。
そう考えれば、知人つながりのネックも一気に吹っ飛びます。どの集団に属していようが、面識の有無さえ、社会空間では何の意味も持たなくなります。今回、るいネットが存在している地平=ここに集う人々が存在している地平が、より明瞭になりました。
社会の当事者を自覚した人々が、答えを求めて“るいネット”に集うことによって、初めて次のように断定できるのだと思います。
>宗教集団や政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々は単一の集団でしかない。(中略)従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。そもそも、各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が、実は単一の集団でしかないというのでは、社会を統合する資格などない。
岡本誠
既に指摘されているように、近代以前の「ムラ」は非常に具体的な生活単位として明瞭な輪郭を持っており、小規模ながら完結した「社会」でした。その中で成員が成長に応じて担うべき役割を引き受ける決意を示し、また周囲もそのことを承認し、祝福する、という期待・応望の場として「通過儀礼」が存在していました。「期待感こそ有れ、不安で一杯になるなどと言う事はなかったのだと思う。」と丸一浩さんが言われるように、「役割の変更に伴う不安を解消する機能」が「通過儀礼」にはあったのです。
またムラの構成員は、観念的なものとしてではなく、具体的な事実の集積としての「世界観」で統合されており、エリアーデは、この世界観を修得し共有することもまた「通過儀礼」の大きな目的であると述べるとともに、近代の特色として、この「通過儀礼」が消滅したことをあげています。輪郭の見えない都市や国家の肥大化とともに、「世界観」とそこにおける役割は揺らぎ、不明瞭になっていきます。つまり「通過儀礼」はその成立基盤を失ったわけです。近年の成人式の形骸化も、帰属すべき社会がはっきり見えていないことからくる必然的事象でしょう。
ではヒトはどうやって「成熟」すればよかったのでしょうか。共同体という成熟基盤を失い、具体的な所属集団はといえば、私権原理で貫かれた恣意的集団でしかないとすれば、根無し草的「個人」として、「成熟」を目指すしかない、ということになります。明らかにされたように、「個人」が幻想であるとすれば、「成熟」も幻想でしかない。この幻想にリアリティーを与えるための代償装置として、思想・文学・芸術・精神医学などなどが機能を発揮してきたのでしょう。
「モノを通じて「私」の輪郭を描き出そうとする消費社会型人間もまた、成熟のための装置が失われたことの代償として、記号と化したモノが人々のアイデンティティーを形作るために機能していった結果、可能となった存在だと言える。・・・近代という時代は、そもそも「社会」という言葉でそれを呼ぶことで人々が帰属する場所の不確かさを隠蔽しなければならないほどに「社会」の輪郭が見えにくいことを特徴とする。」
「人身御供論」(大塚英志)より
しかし、今や、新しい意味における「社会」の全体像の輪郭がおぼろげながら浮かび上がってきたようです。その輪郭をますます明瞭なものとしていく「協働」作業として、「私権崩壊後の可能性先を万人で紡ぎ出していく認識形成の場、集団を超えた社会統合の場の構築とそこへの参加。」( 長谷暢二さん)が重要な使命を帯びて登場したのです。認識形成サイトへの参加、それは新時代の「通過儀礼」である、と言い切ってもよいのではないでしょうか。
三ヶ本万州夫
またムラの構成員は、観念的なものとしてではなく、具体的な事実の集積としての「世界観」で統合されており、エリアーデは、この世界観を修得し共有することもまた「通過儀礼」の大きな目的であると述べるとともに、近代の特色として、この「通過儀礼」が消滅したことをあげています。輪郭の見えない都市や国家の肥大化とともに、「世界観」とそこにおける役割は揺らぎ、不明瞭になっていきます。つまり「通過儀礼」はその成立基盤を失ったわけです。近年の成人式の形骸化も、帰属すべき社会がはっきり見えていないことからくる必然的事象でしょう。
ではヒトはどうやって「成熟」すればよかったのでしょうか。共同体という成熟基盤を失い、具体的な所属集団はといえば、私権原理で貫かれた恣意的集団でしかないとすれば、根無し草的「個人」として、「成熟」を目指すしかない、ということになります。明らかにされたように、「個人」が幻想であるとすれば、「成熟」も幻想でしかない。この幻想にリアリティーを与えるための代償装置として、思想・文学・芸術・精神医学などなどが機能を発揮してきたのでしょう。
「モノを通じて「私」の輪郭を描き出そうとする消費社会型人間もまた、成熟のための装置が失われたことの代償として、記号と化したモノが人々のアイデンティティーを形作るために機能していった結果、可能となった存在だと言える。・・・近代という時代は、そもそも「社会」という言葉でそれを呼ぶことで人々が帰属する場所の不確かさを隠蔽しなければならないほどに「社会」の輪郭が見えにくいことを特徴とする。」
「人身御供論」(大塚英志)より
しかし、今や、新しい意味における「社会」の全体像の輪郭がおぼろげながら浮かび上がってきたようです。その輪郭をますます明瞭なものとしていく「協働」作業として、「私権崩壊後の可能性先を万人で紡ぎ出していく認識形成の場、集団を超えた社会統合の場の構築とそこへの参加。」( 長谷暢二さん)が重要な使命を帯びて登場したのです。認識形成サイトへの参加、それは新時代の「通過儀礼」である、と言い切ってもよいのではないでしょうか。
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