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>今の若い世代の人たちは、私権社会のしがらみが消滅していく中で成長してきているから、そんなしがらみに絡めとられていない人が多いのも当然だと思います。
彼らは年齢にこだわらず誰とでも会話したいと素直に思い、機会さえあれば実践していくと思います。(44876)

同じ世代の子達と話してて思うのは、人収束・外向収束はもう自覚してるってこと。卒論のテーマやバイト先を選ぶ際も「より多くの見知らぬ人と話す」機会が多いものを探している子が多い。また、それを楽しんでいる感じ。

また、社会不全(企業不満・政治不信・環境不安など)も、すぐに共有できる。もちろん「答え」を求めてもいる。ただ、その元凶・突破口が「観念(認識)そのものにある」というのが、なかなか実感できないのが現状。(観念捨象世代?)

上っ面の言葉(旧観念・ヤヤコシー話)への「拒絶」はできても、自分がいざ語ろうとすれば同じような古い言葉しか出てこなくて、結局最終的には「微妙に」とか「いろいろあるけどね」とか誤魔化して終わってしまってる。そして、それだけじゃ駄目っていうのも薄々気付いている。

今、若い世代が求めているのは「観念の有効性を感じる場」かなって思う。潜在思念+成功体験に基づいた「重みあるor実効性ある認識を実現者から直に聞きたいっ」=「実現過程を追体験したいっ」て言うのが、本音っぽい。そして、それができる(語れる)人は、やっぱり同世代じゃ限られてる。

そういう意味で、「異世代交流会」ってすごく需要があると思います。

吉岡摩哉 
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>それ(超集団ネットワーク)は各交流会の主宰者が自集団に固執することなく、自メンバーに色んな交流会への重複参加を勧めることで、実現する。

仕事柄、情報ネットワークの構築を通じてネットワーク社会について考える機会が多いのですが、この「自集団に固執することなく、交流を進めること」こそ、ネットワーク社会実現の鍵であり、今全ての生産者、経営者に求められている先端的な実感認識であり実践的な行動方針であると思います。

インターネットというあらゆるものをつないでしまう情報ネットワークの登場によって、これまでバラバラに存在していたあらゆるシステムが垣根なしに繋がりつつあります。それは便利さや合理性を超えて、「交流」に可能性を求めている人々の潜在的な期待の現われなのでしょう。しかし、それを供給する、生産者組織のありよう、生産者の意識のありようはそうしたみんな期待に応えられているでしょうか。

最近の情報ネットワーク構築プロジェクトでは当然、全ての分野を1社が独占的に構築できるはずもなく、従って数多くのメーカーが参加してプロジェクトは進行していきます。そこではシステムが自社製品の枠組を超えてネットワーク=つながりの中で思いもよらぬ動きをみせたりしますから、自社の言い分(うちの製品はこうなっている、ここから先はうちの責任ではないetc)を主張してばかりでは決して人々の求めるものは提供できませんし、勿論プロジェクトチームの中で評価を形成することもできません。(ひいては次の仕事にも繋がっていきません)

提供するシステムの生命はみんな期待=交流が生み出す新たな可能性の模索にあるのに生産者の意識がそれに対応するものになっていないのです。(インターネットが結局、クズ情報ばかりというのも情報ネットワークに携わる人々がみんなの期待を明快に認識できていないからなのでしょう)

今大切なのは、「自集団に固執することなく、交流の中から可能性=課題を発掘し創造のヒントを掴むこと」です。とにかくどんどん自社の最新情報を開きだし、同類他者(それを利益闘争の敵ととらえているようではもはや時代遅れであり、認識創造仲間と捉える方がいい)とネットワークすることです。そこでは従来の内向きな集団原理は全く役に立たない。むしろこれまでの役割を超えた新しい課題の中から新しい役割を作り出す=起業のチャンスさえあるのです。

つまり実務の現場から考えてみても認識交流会をどんどんやって自らを脱集団⇒社会の当事者へと脱皮させて行くことは、どんな小手先の資格勉強よりも待ったなしに必要な勉強の場だといえます。そしてそれは現実の認識創造という集団間闘争関係の真っ只中から、集団間対立ではなく超集団統合を実現していくという点で画期的な社会貢献活動だと思います。

 
山澤貴志
 貧困の消滅から私権の収束力衰弱、そして社会の全面閉塞状態という現状を「人類の適応不全」=種としての『みんな』不全と捉えたならば、なるほどすでにほとんどの人々が潜在的にせよ顕在化しているにせよ、答え(突破口)を求めていることになる。
 そこにはもはや個人や集団への拘りなどなく、人々の意識は集団を超えての人収束や『みんな期待』に応えるやりがい志向に向かっているというのは、最近のみなさんの投稿(報告)からもヒシヒシ伝わってくる。

>『みんな不全』⇒『みんな期待』に応えることが、一番の活力源になる。

 というのがすでに日常的に人々を動かしている。
そうすると、みんなが集まり語り合う場としての『認識サロン』っていうのは、今後必然として社会に登場する新しい人寄り場となっていくことになる。

 そしてそこに参加する、あるいはまだまだ少ないそんな場を切り開いていくことが『社会貢献』となっていくのなら、それこそまさに素人の創造であって、肩に力を入れなくとも誰にでも出来る活動として無限に拡がっていくことになると思う。
 
 ここ(るいネット)で目にする『認識』を必要としている人々が、まだまだそれに触れることなく燻っているのなら、どこへでも出かけて行って共に語り合うことになんら躊躇することもない。むしろそれこそが誰にでも出来る『みんな期待』に応えることになるのなら、素直に嬉しいと思える。

松下直城
“本当は「集団」に入ったのではなく、社会に出たのだ”

この新しい認識を得たとき、なるほど~!と、ものすごく納得したけど、今まで「社会」というものをまともに考えたことがなかっただけに、ピンと来てなかったことに、今、気づかされました。

>これは、おそらく人類の適応不全、つまり、個人や集団や国家という枠を遥かに超えた、種としての『みんな』不全である。そうである以上、人々の意識が、個人や集団を超えた『みんなの期待』に収束してゆくのは必然である。<

「社会」とは、個人や集団や国家を超えた種としての「みんな」の存在する場なんですね。だから、旧観念に蓋をされて自分の不全でいっぱいで出口が見えない人には、そのままでは閉塞していくだけであること、種としての『みんな不全』⇒『みんなの期待』に応えることが活力源になるという新しい認識に気づいてもらうことが、いっしょに社会へ出るための第一歩になるんだと思います。

>とすれば、答えを求めて誰もが集まり語り合う場(認識サロンや認識サイト)を作ってゆくことこそ、皆の期待に応える最も充足できる活動であり、それこそが集団(の成員)や社会の活力を再生してゆく、真の「社会貢献」の道ではないかと考えている。<

認識サロンって、何だか難しく考えていたけれど、いっしょに社会へ出る場=みんなの期待を感じとり答えをいっしょに探していく場と考えれば、どこにでも見つけられそうな気がしてきました。

 
森政子
「脱集団」した「みんな」が集まる「場」は、あくまでも不特定多数が出入り自由の「場」であるべきで、「溜まり場」みたく「閉鎖的」とか「集団っぽさ」を感じさせたら意味ないなぁ、と思いました。
「みんなの期待」に応えるためには、自分たちの「居心地」とか「仲間同士の安心感」みたいなものに気持ちが向くと、とたんにダメになりそうです。
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