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>脳内の閉鎖世界から現実の外部世界へと一気に対象が逆転し拡がりをもつと同時に、この根観念さえ共有すればあらゆる人との事実の共認が図れる・・・
言葉の役割として当たり前のことですが、翻ってみればこれまでの言葉は全て死んでいた、ということにまた気づかされます。<
これまでの言葉は私権の現実を覆い隠す言葉であったり、私権の現実を美化(正当化)するための言葉であったのだと改めて思います。そんな現実から遊離した言葉はどこか表層的な共認しか生み出せなかった。共認の中身が深まらない言葉であったのだと思います。
人間って自身が認識した現実をそのまま絶対的なものとして認識できないのだと思います。必ず他者の認識との摺り合わせを行うこと(共認すること)でその対象把握を正しいものとして認識し直すのでしょう。
共認動物である人間が頭の中で自己完結した世界に安心できないのは当たり前のことなのかもしれません。
その共認に不可欠な言葉が現実から遊離していては共認が深まらない=現実把握が深まらないということになってしまう。
どんなに言葉を交わしても、人と人との共認が深まらない言葉はいずれ必要としない言葉になってゆく。
「これから一つ一つの言葉が意味をもつようになる」とは共認の輪が広がってゆくことであり、人と人との共認が深まってゆくことなのだと思いました。そして、そのことによって現実の対象をより正確に捉えられるようになる。生きた言葉とは人の共認と共にあるのだと思います。
鈴木龍也
言葉の役割として当たり前のことですが、翻ってみればこれまでの言葉は全て死んでいた、ということにまた気づかされます。<
これまでの言葉は私権の現実を覆い隠す言葉であったり、私権の現実を美化(正当化)するための言葉であったのだと改めて思います。そんな現実から遊離した言葉はどこか表層的な共認しか生み出せなかった。共認の中身が深まらない言葉であったのだと思います。
人間って自身が認識した現実をそのまま絶対的なものとして認識できないのだと思います。必ず他者の認識との摺り合わせを行うこと(共認すること)でその対象把握を正しいものとして認識し直すのでしょう。
共認動物である人間が頭の中で自己完結した世界に安心できないのは当たり前のことなのかもしれません。
その共認に不可欠な言葉が現実から遊離していては共認が深まらない=現実把握が深まらないということになってしまう。
どんなに言葉を交わしても、人と人との共認が深まらない言葉はいずれ必要としない言葉になってゆく。
「これから一つ一つの言葉が意味をもつようになる」とは共認の輪が広がってゆくことであり、人と人との共認が深まってゆくことなのだと思いました。そして、そのことによって現実の対象をより正確に捉えられるようになる。生きた言葉とは人の共認と共にあるのだと思います。
鈴木龍也
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>『共認』の説明もせずに、断片的な時代現象とその構造(若者の意識潮流、脱集団⇒みんな期待など)を語る事に終止。一つ一つの現象やそれへの切り口に、新しさは感じてくれましたが、個々の現象同士はバラバラでつながらない。今振り返れば、理解度も充足度も低かったと思います。
時代の変化や現象事実を語っても、答えを提示しなければ、可能性も答え欠乏も、潜在したままで顕在化しないのでしょう。みんなが求めているのは答えです。答えを提示せずして、みんな期待に応えることにはならないのです。
では「答え」とは?と考えてみました。例えば、これが「答え」です。
>認識欠乏が顕在化するや否や、それは最先端の欠乏となり、それに応える『認識形成の場』は最先端の活力を生み出す溶鉱炉となる。そして、人々の基底的な『判断の土俵』や『人数』や『投稿資格』などの評価指標を媒介として、お金をはじめとする私権闘争の一切をその場の下に収束させ、全てを統合してゆく。これが、実現の論理である。
この答えを提示するためには、「収束⇒統合」「共認機能」「同類闘争と同類圧力」といった概念装置が不可欠です。 それで、『実現論』の「前史」を読み返してみました。
>万物は、それ以前に実現された無数の実現体によって構成されており、それらを状況に応じたその時々の可能性への収束によって統合している、多面的な外圧適応態である。
これと、上記の「実現の論理」を対比すると、基本構造は同じです。そして、ふと気づきました。「収束⇒統合」という概念装置そのものが、最も根底的な「答え」なのではないだろうかと(だから「根概念」と呼ぶのがふさわしい)。外圧適応態として先端可能性に収束し統合する、この生き様こそが、私たちが求めている根底的な「答え」なのではないでしょうか。それを実現観念態として具現化したものが「実現の論理」なのだと思います。
>答えを求めて誰もが集まり語り合う場(認識サロンや認識サイト)を作ってゆくことこそ、皆の期待に応える最も充足できる活動であり、それこそが集団(の成員)や社会の活力を再生してゆく、真の「社会貢献」の道ではないかと考えている。
つまり、みんなが期待している「答え」は、「共認(形成)」であり、「収束⇒統合」なのです。それを実現する場が、認識交流会や認識サイトなのです。 新しい概念装置=根概念そのものが、最も根底的な「答え」なのだと、改めて気づきました。新しい概念装置が根底的な答え=根概念であるからこそ、それを提起することで、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる。 そのことに改めて確信が持てました。
冨田彰男
時代の変化や現象事実を語っても、答えを提示しなければ、可能性も答え欠乏も、潜在したままで顕在化しないのでしょう。みんなが求めているのは答えです。答えを提示せずして、みんな期待に応えることにはならないのです。
では「答え」とは?と考えてみました。例えば、これが「答え」です。
>認識欠乏が顕在化するや否や、それは最先端の欠乏となり、それに応える『認識形成の場』は最先端の活力を生み出す溶鉱炉となる。そして、人々の基底的な『判断の土俵』や『人数』や『投稿資格』などの評価指標を媒介として、お金をはじめとする私権闘争の一切をその場の下に収束させ、全てを統合してゆく。これが、実現の論理である。
この答えを提示するためには、「収束⇒統合」「共認機能」「同類闘争と同類圧力」といった概念装置が不可欠です。 それで、『実現論』の「前史」を読み返してみました。
>万物は、それ以前に実現された無数の実現体によって構成されており、それらを状況に応じたその時々の可能性への収束によって統合している、多面的な外圧適応態である。
これと、上記の「実現の論理」を対比すると、基本構造は同じです。そして、ふと気づきました。「収束⇒統合」という概念装置そのものが、最も根底的な「答え」なのではないだろうかと(だから「根概念」と呼ぶのがふさわしい)。外圧適応態として先端可能性に収束し統合する、この生き様こそが、私たちが求めている根底的な「答え」なのではないでしょうか。それを実現観念態として具現化したものが「実現の論理」なのだと思います。
>答えを求めて誰もが集まり語り合う場(認識サロンや認識サイト)を作ってゆくことこそ、皆の期待に応える最も充足できる活動であり、それこそが集団(の成員)や社会の活力を再生してゆく、真の「社会貢献」の道ではないかと考えている。
つまり、みんなが期待している「答え」は、「共認(形成)」であり、「収束⇒統合」なのです。それを実現する場が、認識交流会や認識サイトなのです。 新しい概念装置=根概念そのものが、最も根底的な「答え」なのだと、改めて気づきました。新しい概念装置が根底的な答え=根概念であるからこそ、それを提起することで、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる。 そのことに改めて確信が持てました。
冨田彰男
先日学生時代のバイト仲間を顔をあわせて、その後47212を拝見して学生時分の私を改めて考えました。
もともと私権というものを意識せずに育ってきた世代は「私権の衰弱」といってもピンと来ない。しかし、友人と話すと「やっぱり金はいるで。金が欲しい」と言います。
実現論2_4_05
>私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。
「金、地位、名声」そのものには興味がなくとも「消費と遊興」は未だに手放せない人。現在の若者の現状は多くはこういうものではないかと思います。自分自身もそうでした。これといった圧力を受けずにアルバイトで月15万円くらい稼いでは友人と遊び呆ける。適当にバイトしてお金を貰って遊んでいたというのは今思えば特権階級の位置にいたといっても過言ではないと思います。
しかし、一方で日々の生活の中で、将来を考える上で、残り続ける漠然とした不安感。
>答えが見えないが故に主流回路となった不全捨象⇒充足収束の適応回路は、課題捨象⇒解脱埋没を強めると同時に、充足を求めて共認収束=本源収束をも強めてゆく。(18423)
>原猿と同じで、答えが見付からないので、人に収束しているだけである。実際、現在のつながり・広がりには、成すべき課題がなく(あるいは誤ったチンケな課題しかなく)、無為徒集に近い状態にある。 (25433)
これらの認識に触れる事で学生時代に何となく抱えていたもやもやがすっきりした憶えがあります。友人と話をした時もこれらの言葉を投げかけた途端にみんなが食いついてきてくれました。「適当に働いて後は遊んで」だけではどっかすっきりしないし、むしろもやもやは大きくなるばかりやろうと話すとやはりこれも納得顔で聞いてくれました。
>これを突破するのが新パラダイムに基づく新しい認識であり、新しい認識こそが、従来の親和や解脱に代って人と人とを繋ぐ真の紐帯となる。
また、答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。 (25433)
改めて再確認した次第です。
高利
もともと私権というものを意識せずに育ってきた世代は「私権の衰弱」といってもピンと来ない。しかし、友人と話すと「やっぱり金はいるで。金が欲しい」と言います。
実現論2_4_05
>私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。
「金、地位、名声」そのものには興味がなくとも「消費と遊興」は未だに手放せない人。現在の若者の現状は多くはこういうものではないかと思います。自分自身もそうでした。これといった圧力を受けずにアルバイトで月15万円くらい稼いでは友人と遊び呆ける。適当にバイトしてお金を貰って遊んでいたというのは今思えば特権階級の位置にいたといっても過言ではないと思います。
しかし、一方で日々の生活の中で、将来を考える上で、残り続ける漠然とした不安感。
>答えが見えないが故に主流回路となった不全捨象⇒充足収束の適応回路は、課題捨象⇒解脱埋没を強めると同時に、充足を求めて共認収束=本源収束をも強めてゆく。(18423)
>原猿と同じで、答えが見付からないので、人に収束しているだけである。実際、現在のつながり・広がりには、成すべき課題がなく(あるいは誤ったチンケな課題しかなく)、無為徒集に近い状態にある。 (25433)
これらの認識に触れる事で学生時代に何となく抱えていたもやもやがすっきりした憶えがあります。友人と話をした時もこれらの言葉を投げかけた途端にみんなが食いついてきてくれました。「適当に働いて後は遊んで」だけではどっかすっきりしないし、むしろもやもやは大きくなるばかりやろうと話すとやはりこれも納得顔で聞いてくれました。
>これを突破するのが新パラダイムに基づく新しい認識であり、新しい認識こそが、従来の親和や解脱に代って人と人とを繋ぐ真の紐帯となる。
また、答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。 (25433)
改めて再確認した次第です。
高利
最近増えてきた巷の交流会では、集団を超えた「つながり」をどうやら皆が求めている事までは明確に意識されているようです。しかし、それが一体どこに向かっているのか自分たち自身も定かでないまま、各々が離合集散を繰り返しているように見えます。
> 遂に’00年、私権統合の崩壊によって外向欠乏⇒社会収束の潮流が一気に顕在化してきた。(但し、まだ人(つながり)収束に留まっており、社会そのものに収束していないという意味では半顕在化の段階にある。)
> その潜在思念が求めているのは、パラダイム転換の認識や状況認識、つまり現実や状況や時代の捉え方。それを明確化した構造認識は共認され、自分の認識に転化する。
> 答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。
私たちが立ち上げようとしている交流会が単なる「つながりの場」を超える切っ掛け、かつ超えられる根拠がここにあるように思いました。
「あなたが交流会に来たのは、次代認識を求めているからです。」
これが、初めて参加した人にとっての最初の「答え」になるのではないでしょうか。この現実=自分自身に対する認識を得ることで、認識追求に向かう相手の「答え欠乏」が生起され、そこが私的なつながりを得るためだけの出会いの会ではなく、「時代を読む」「認識を語る」という求心核を持った新しい場づくりであることが共認できるように思います。
田中素
> 遂に’00年、私権統合の崩壊によって外向欠乏⇒社会収束の潮流が一気に顕在化してきた。(但し、まだ人(つながり)収束に留まっており、社会そのものに収束していないという意味では半顕在化の段階にある。)
> その潜在思念が求めているのは、パラダイム転換の認識や状況認識、つまり現実や状況や時代の捉え方。それを明確化した構造認識は共認され、自分の認識に転化する。
> 答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。
私たちが立ち上げようとしている交流会が単なる「つながりの場」を超える切っ掛け、かつ超えられる根拠がここにあるように思いました。
「あなたが交流会に来たのは、次代認識を求めているからです。」
これが、初めて参加した人にとっての最初の「答え」になるのではないでしょうか。この現実=自分自身に対する認識を得ることで、認識追求に向かう相手の「答え欠乏」が生起され、そこが私的なつながりを得るためだけの出会いの会ではなく、「時代を読む」「認識を語る」という求心核を持った新しい場づくりであることが共認できるように思います。
田中素
>その様な手作りの一時交流会の生命は、賛同者を決してお客さんにせず、場を作ってゆく協働者にする点にある。
初めから協働者=当事者という構造だからこそ参加する人もその気になってくれる。自分達で創っていくという現実感(リアリティ)、当事者意識こそが重要だと考えます。
「どこでも営業」「手作りの交流会」というものはすぐにでも出来る極めて身近で現実的な「変革運動」であり、日々の生活との距離が極めて近い。というより生活の一部となりつつある感があります。現実に立脚した新認識もこういった現実の真っ只中から広がっていくのが本来なのだと思います。
>今、必要なのは、この国家や市場を解体・再統合できる様な人々の結集であり、その為の『現実の場』の結実である。
すでに明らかなように、長年絶対的なものとして存在していた私権社会という現実は形骸化して消滅しようとしています。これに代わる新たな現実の場として私権時代に造られた様々な集団を超えた超集団ネットワークと認識交流会が提唱されました。日々の生活の中から、皆が当事者として造っていくこれらの新しい『現実の場』。まさに
>潜在的な新しい可能性が顕在化して新しい現実と成るためには、古い殻を内側からこじ開け、私権の現実の中を突き抜けてゆく必要がある。
の通りではないかと思います。
高利
初めから協働者=当事者という構造だからこそ参加する人もその気になってくれる。自分達で創っていくという現実感(リアリティ)、当事者意識こそが重要だと考えます。
「どこでも営業」「手作りの交流会」というものはすぐにでも出来る極めて身近で現実的な「変革運動」であり、日々の生活との距離が極めて近い。というより生活の一部となりつつある感があります。現実に立脚した新認識もこういった現実の真っ只中から広がっていくのが本来なのだと思います。
>今、必要なのは、この国家や市場を解体・再統合できる様な人々の結集であり、その為の『現実の場』の結実である。
すでに明らかなように、長年絶対的なものとして存在していた私権社会という現実は形骸化して消滅しようとしています。これに代わる新たな現実の場として私権時代に造られた様々な集団を超えた超集団ネットワークと認識交流会が提唱されました。日々の生活の中から、皆が当事者として造っていくこれらの新しい『現実の場』。まさに
>潜在的な新しい可能性が顕在化して新しい現実と成るためには、古い殻を内側からこじ開け、私権の現実の中を突き抜けてゆく必要がある。
の通りではないかと思います。
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