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社会科学の世界では、現象事実を客観的に捉えてその背後にある規則性や法則をとらえることが基本的なルールです。これらはもっぱら学者や一部の専門家による「研究」であり、その成果は「論文」として発表され、教育機関やマスコミを通じて一般に広められて(どれほど有効かは疑問ですが・・)きました。
これまで数回の交流会を経験して感じたのは、これまで「学問・研究」と呼ばれていた行為ときわめて似た事を私たちはやっているのだな、ということです。参加メンバーからさまざまな実感や現象事例が出され、それらをまとめたりさらに分解したりしながら相互の関連や因果関係をたどってゆく。そこに根概念やそれらを要素にした原因構造(や実現構造)が見えてくる。実は学者や専門化が研究室にこもり思索していたことを、普通に仕事をし生活をしている人たちが集まりおしゃべりをしながら実践しているのです。
また、これまでの学問は、学者が自分の研究テーマに合わせて都合よく拾い集めた社会現象を旧観念を駆使して構造化(?)することでした。一方私たちが取り組んでいるのは、社会の当事者としての実感・現象事実をあらゆる視点から集めその背後にある原因構造(実現構造)をみんなの手で探り出そうとすることです。どちらがより事実に則し、現実に役立つかは明らかだと思います。
旧来の密室「研究」と「論文」に代わって、「交流の場の追求」とその追求成果が「投稿」として結実しネットを介して広く伝えられてゆく。まさに事実の発見という学問・研究の可能性が万人に向けて開かれてゆく様を実感しています。
阿部和雄
これまで数回の交流会を経験して感じたのは、これまで「学問・研究」と呼ばれていた行為ときわめて似た事を私たちはやっているのだな、ということです。参加メンバーからさまざまな実感や現象事例が出され、それらをまとめたりさらに分解したりしながら相互の関連や因果関係をたどってゆく。そこに根概念やそれらを要素にした原因構造(や実現構造)が見えてくる。実は学者や専門化が研究室にこもり思索していたことを、普通に仕事をし生活をしている人たちが集まりおしゃべりをしながら実践しているのです。
また、これまでの学問は、学者が自分の研究テーマに合わせて都合よく拾い集めた社会現象を旧観念を駆使して構造化(?)することでした。一方私たちが取り組んでいるのは、社会の当事者としての実感・現象事実をあらゆる視点から集めその背後にある原因構造(実現構造)をみんなの手で探り出そうとすることです。どちらがより事実に則し、現実に役立つかは明らかだと思います。
旧来の密室「研究」と「論文」に代わって、「交流の場の追求」とその追求成果が「投稿」として結実しネットを介して広く伝えられてゆく。まさに事実の発見という学問・研究の可能性が万人に向けて開かれてゆく様を実感しています。
阿部和雄
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交流会に参加すると、「せっかくこれだけの人が集まったのだから、次は何か行動につなげましょう」という意見が、参加者の中から必ず出てくる。「考えているだけではダメ、目に見える行動が必要」という固定観念に囚われ、“手近な活動”に参加する人たちだ。
しかしこの考え方は、明らかにおかしいと思う。交流会=認識形成の場に参加することは、考えているだけでもないし、目に見える行動そのものであるはずなのに。
彼らは「考えているだけではダメ」と言いながら、本当にに考えたことがあるのだろうか?様々な社会問題の根本原因を、真正面から捉え切開したのだろうか?恐らく否だろう。
それらを本当に考えれば、「答えが出せない」という現実に直面するはず。「考えているだけではダメ」というのは、本当は「答えを出せない」という現実を、不可能視、否定視して、そこから逃げているに過ぎないのだと思う。目に見える行動とは、答えが出せないという不全に対する、代償充足に他ならない。
「考えているだけではダメ」ではなく、「考えなければダメ」なのだと思う。「誰も答えを出せない」現実から逃げず、それが何故なのかを考える。でも、一人で考えてもトンネルから抜け出せないだろう。だからみんなで考えることが必要なのだと思う。
そして、みんなで考えるべき中身こそ、「新しい認識」に他ならない。誰も答えが出せないのは、中身=新しい認識がないから。それなら、それをみんなでつくっていけばいい。そしてその場は既にある。それが「るいネット」であり、「異世代・認識交流会」なのだ。
>従って、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、求められる真の社会活動となる。実際、大衆自身の手で社会の生命部を成す共認を形成してゆく活動であるという点でも、誰に要求するのでもなく自らの手で新しい社会統合機構を構築してゆく活動であるという点でも、これこそが、真の社会活動であり、それをおいて他に真に有効な実践活動はない。
この言葉の意味が、あらためて実感できるようになった。
小松由布樹
しかしこの考え方は、明らかにおかしいと思う。交流会=認識形成の場に参加することは、考えているだけでもないし、目に見える行動そのものであるはずなのに。
彼らは「考えているだけではダメ」と言いながら、本当にに考えたことがあるのだろうか?様々な社会問題の根本原因を、真正面から捉え切開したのだろうか?恐らく否だろう。
それらを本当に考えれば、「答えが出せない」という現実に直面するはず。「考えているだけではダメ」というのは、本当は「答えを出せない」という現実を、不可能視、否定視して、そこから逃げているに過ぎないのだと思う。目に見える行動とは、答えが出せないという不全に対する、代償充足に他ならない。
「考えているだけではダメ」ではなく、「考えなければダメ」なのだと思う。「誰も答えを出せない」現実から逃げず、それが何故なのかを考える。でも、一人で考えてもトンネルから抜け出せないだろう。だからみんなで考えることが必要なのだと思う。
そして、みんなで考えるべき中身こそ、「新しい認識」に他ならない。誰も答えが出せないのは、中身=新しい認識がないから。それなら、それをみんなでつくっていけばいい。そしてその場は既にある。それが「るいネット」であり、「異世代・認識交流会」なのだ。
>従って、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、求められる真の社会活動となる。実際、大衆自身の手で社会の生命部を成す共認を形成してゆく活動であるという点でも、誰に要求するのでもなく自らの手で新しい社会統合機構を構築してゆく活動であるという点でも、これこそが、真の社会活動であり、それをおいて他に真に有効な実践活動はない。
この言葉の意味が、あらためて実感できるようになった。
小松由布樹
生命誕生から人類までの進化とは、「場」の理論も参考にして考えると、いったい何だったのでしょうか?。
『実現論』には『外圧適応態』という生命の捉え方が載っています。これをもう少し詳しく言うと、外圧を認識すると同時に内圧も認識する機能を獲得した・・・、つまり、外識機能と内識機能を獲得することで、究極の『適応欠乏・適応本能』に始まり、危機を察知したりそこから逃避したりする『危機本能』の他に、細胞分裂=『生殖本能』や代謝機能=『食本能』などに次いで、種の生存確率を高める『集団本能』などを獲得し、刻々と変化する‘生物界’に適応するための本能進化=外識機能と内識機能の高度化を実現したのが生命だという意味だと思います。これら生命機能の高度化を主に要請したのは、固定的な自然外圧ではなく、次々と登場する新種から受ける種間圧力であるのは明らかです。
哺乳類の段階では『縄張り本能』が著しく発達しますが、もともとこの『縄張り』とは‘生存域’そのものであり、例えば30億年前までの紫外線や活性酸素という自然外圧に対しても、その猛威から身を守るためには、ニッチという‘生存域’が単細胞生物の段階から存在してます。だとすれば、この生存域=縄張りを相互に確保する闘いが生物の種間闘争の正体であり、哺乳類とは、この『縄張り本能』を究極まで高めたことによって、生物界全体の「場」の圧力を桁外れに高めた存在だということになります。
特に原猿~真猿は、一般哺乳類を遥かに凌駕する共認機能によって集団内を統合し、樹上世界というニッチをほぼ独占しましたが、種間闘争や同類闘争で争っているのは、一般哺乳類と大差ない縄張りであり、確保しているのは‘生存域’に過ぎません。
しかし、人類は‘生存域’を確保した1万年前から徐々に、単に生存を保証する‘生存域’の争いから、‘共認域’の争いに転換してきています。私権時代も、武力支配階級と新興勢力である宗教界や商人階級や資本家、さらには一般大衆の性的自我や自由消費の拡調願望と、その主流は姿を変えながらも、一貫として個々の集団の私権共認の及ぶ範囲の争いの帰結として、商品市場や芸能空間(=演場)を拡大してきました。
要するに、人類の登場とは、「場」の圧力を‘生存域’から‘共認域’の確保に大転換させる契機だったと言えると思います。少し言い方を換えると、現代の人類にとって、縄張りとは単なる‘生存域’を越えた‘共認域’だということになります。そして新しい観念=共認内容の登場によって、共認内容を巡る同類闘争(≒‘共認域’という新しい縄張り闘争)が、「場」全体の共通の圧力になろうとしているのが、他ならぬ現代だと思われます。
土山惣一郎
『実現論』には『外圧適応態』という生命の捉え方が載っています。これをもう少し詳しく言うと、外圧を認識すると同時に内圧も認識する機能を獲得した・・・、つまり、外識機能と内識機能を獲得することで、究極の『適応欠乏・適応本能』に始まり、危機を察知したりそこから逃避したりする『危機本能』の他に、細胞分裂=『生殖本能』や代謝機能=『食本能』などに次いで、種の生存確率を高める『集団本能』などを獲得し、刻々と変化する‘生物界’に適応するための本能進化=外識機能と内識機能の高度化を実現したのが生命だという意味だと思います。これら生命機能の高度化を主に要請したのは、固定的な自然外圧ではなく、次々と登場する新種から受ける種間圧力であるのは明らかです。
哺乳類の段階では『縄張り本能』が著しく発達しますが、もともとこの『縄張り』とは‘生存域’そのものであり、例えば30億年前までの紫外線や活性酸素という自然外圧に対しても、その猛威から身を守るためには、ニッチという‘生存域’が単細胞生物の段階から存在してます。だとすれば、この生存域=縄張りを相互に確保する闘いが生物の種間闘争の正体であり、哺乳類とは、この『縄張り本能』を究極まで高めたことによって、生物界全体の「場」の圧力を桁外れに高めた存在だということになります。
特に原猿~真猿は、一般哺乳類を遥かに凌駕する共認機能によって集団内を統合し、樹上世界というニッチをほぼ独占しましたが、種間闘争や同類闘争で争っているのは、一般哺乳類と大差ない縄張りであり、確保しているのは‘生存域’に過ぎません。
しかし、人類は‘生存域’を確保した1万年前から徐々に、単に生存を保証する‘生存域’の争いから、‘共認域’の争いに転換してきています。私権時代も、武力支配階級と新興勢力である宗教界や商人階級や資本家、さらには一般大衆の性的自我や自由消費の拡調願望と、その主流は姿を変えながらも、一貫として個々の集団の私権共認の及ぶ範囲の争いの帰結として、商品市場や芸能空間(=演場)を拡大してきました。
要するに、人類の登場とは、「場」の圧力を‘生存域’から‘共認域’の確保に大転換させる契機だったと言えると思います。少し言い方を換えると、現代の人類にとって、縄張りとは単なる‘生存域’を越えた‘共認域’だということになります。そして新しい観念=共認内容の登場によって、共認内容を巡る同類闘争(≒‘共認域’という新しい縄張り闘争)が、「場」全体の共通の圧力になろうとしているのが、他ならぬ現代だと思われます。
土山惣一郎
>中には、しゃべらないだけじゃなく、うなずきさえしない人も多いのですが、それは決して面白くないからなのではなく、それだけその場の話に集中しているor答えを追求し出しているorものすごく考えている、と言うような感じが、その場の雰囲気でヒシヒシと伝わってきました。
同じ交流会の場にいた、一言もしゃべらなかった人が終わったとたんに「面白かった~」と目を輝かせながら言っていました。
私は交流会が大好きだ。でも、決して多くは喋らない。発言といえば約3時間の交流会で一言二言だ。
しかし、それは決して人の話を聞いていないとか、つまらない、という訳ではない。
食い入るように人の話を聞き、それを自分で吸収し、噛み砕く。自分の中で自分に問いかける。そこには言葉では表せない感情が生じるのだ。沈黙を破るために、適当な言葉で取り繕った発言はしたくない。
>こないだ交流会が終わった後、しばらくそのままみんな席に残っ
ていたんですが、そこでの感想そのものが、「何て言ったらいいのか、言葉が出てこない」でした。
そしてみんなで一緒に、そのすごくすごく深いところで感じた何かを掴もうと、また黙ってしまったのです。
まさに、この感じ。自分の気持ちを表現したくて、言葉を探すけれど見つからない。
そんな時、誰かが発した言葉に自分の気持ちと同じものを感じると、すごく嬉しくなる。「そうそう、私が言いたかったのはそういうこと」って思う。
そして、交流会を終えると、何ともいえない充足感に包まれる。
私の生活の中で、これほど自分の潜在思念と向き合い、集中している時間・空間は、今のところ交流会以外ではない。
きっとみんなもそうなんじゃないかと思う。
だから交流会に参加しようと思うんだろうし、そういう人の集まりだからこそ沈黙が生まれるんだと思う。
みんなの期待に応えようとする中で、沈黙が生まれるのは自然なことだと思った。
井上緑
同じ交流会の場にいた、一言もしゃべらなかった人が終わったとたんに「面白かった~」と目を輝かせながら言っていました。
私は交流会が大好きだ。でも、決して多くは喋らない。発言といえば約3時間の交流会で一言二言だ。
しかし、それは決して人の話を聞いていないとか、つまらない、という訳ではない。
食い入るように人の話を聞き、それを自分で吸収し、噛み砕く。自分の中で自分に問いかける。そこには言葉では表せない感情が生じるのだ。沈黙を破るために、適当な言葉で取り繕った発言はしたくない。
>こないだ交流会が終わった後、しばらくそのままみんな席に残っ
ていたんですが、そこでの感想そのものが、「何て言ったらいいのか、言葉が出てこない」でした。
そしてみんなで一緒に、そのすごくすごく深いところで感じた何かを掴もうと、また黙ってしまったのです。
まさに、この感じ。自分の気持ちを表現したくて、言葉を探すけれど見つからない。
そんな時、誰かが発した言葉に自分の気持ちと同じものを感じると、すごく嬉しくなる。「そうそう、私が言いたかったのはそういうこと」って思う。
そして、交流会を終えると、何ともいえない充足感に包まれる。
私の生活の中で、これほど自分の潜在思念と向き合い、集中している時間・空間は、今のところ交流会以外ではない。
きっとみんなもそうなんじゃないかと思う。
だから交流会に参加しようと思うんだろうし、そういう人の集まりだからこそ沈黙が生まれるんだと思う。
みんなの期待に応えようとする中で、沈黙が生まれるのは自然なことだと思った。
井上緑
交流会の参加者から、「これだけ会員がいるなら、すぐに『行動』を起こせば良いじゃないですか。」と言われました。
「『行動』って、いったい何をするのですか? こうして交流会をやって、認識を広めていくこと自体が『行動』ですよ。」と言っても、全然ピンときていないようです。
今まで、「行動」といえば、デモをしたり、署名などをして要求したり、と非常に解りやすいものでしたが、今やろうとしている「行動」は、これらとは全く違うものなのです。
> ´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。
その原因が、豊かさ追求(貧困からの脱出)と、それを正当化した近代思想(自由・個人・人権)と、それに導かれた要求運動というパラダイム全体の終焉であることは明らかである。 <
> 社会に関心を持つ人の多くが、未だに社会変革と云えば身体を張って行動することだという行動信仰(古いパラダイム)に囚われ続けている。しかし、(云うまでもないことだが)社会を変える為に必要なのは人々の意識を変えてゆくことであり(従って、旧思想に代る新理論を構築することが何よりも急がれるのであって)、旧思想に依拠したままチンケな運動をいくら続けても社会は全く変わらない。 <
> 疾うに武力支配の時代は去り、今や(貧困の消滅によって)私権そのものが衰弱してゆく時代である。そこでは、武力でも資本力でもなく、文字通り人々の共認力が全てである。従って、人々の意識を変えることさえ出来れば、社会は変わる。逆に、旧思想(恋愛・自由・個人・人権という支配観念)に支配された人々の意識が変わらない限り、社会は(基本的には)変わらない。人々の意識を支配観念から解放する共認革命だけが、閉塞状態に陥ったこの社会を根本から変えてゆける。今、必要なのは共認革命である。<
外圧が私権圧力から社会不全へと転換した現在、「行動」の仕方も変わりました。「要求」から「探求」へ、「自分課題」から「みんな期待に応えること」へ。つまり、「るいネット」や「交流会」等に参加し広めていくことこそ、求められている「行動」なのです。
このことをすぐに理解する人も多いのですが、その人は「自己実現」等「自分」意識が強すぎて、「みんな期待」自体を理解できませんでした。
新しい活力は、「みんな期待」を意識することから沸いてきて、そこに立脚しさえすれば日々自然と「行動」しているというのが、実感です。
松尾茂実
「『行動』って、いったい何をするのですか? こうして交流会をやって、認識を広めていくこと自体が『行動』ですよ。」と言っても、全然ピンときていないようです。
今まで、「行動」といえば、デモをしたり、署名などをして要求したり、と非常に解りやすいものでしたが、今やろうとしている「行動」は、これらとは全く違うものなのです。
> ´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。
その原因が、豊かさ追求(貧困からの脱出)と、それを正当化した近代思想(自由・個人・人権)と、それに導かれた要求運動というパラダイム全体の終焉であることは明らかである。 <
> 社会に関心を持つ人の多くが、未だに社会変革と云えば身体を張って行動することだという行動信仰(古いパラダイム)に囚われ続けている。しかし、(云うまでもないことだが)社会を変える為に必要なのは人々の意識を変えてゆくことであり(従って、旧思想に代る新理論を構築することが何よりも急がれるのであって)、旧思想に依拠したままチンケな運動をいくら続けても社会は全く変わらない。 <
> 疾うに武力支配の時代は去り、今や(貧困の消滅によって)私権そのものが衰弱してゆく時代である。そこでは、武力でも資本力でもなく、文字通り人々の共認力が全てである。従って、人々の意識を変えることさえ出来れば、社会は変わる。逆に、旧思想(恋愛・自由・個人・人権という支配観念)に支配された人々の意識が変わらない限り、社会は(基本的には)変わらない。人々の意識を支配観念から解放する共認革命だけが、閉塞状態に陥ったこの社会を根本から変えてゆける。今、必要なのは共認革命である。<
外圧が私権圧力から社会不全へと転換した現在、「行動」の仕方も変わりました。「要求」から「探求」へ、「自分課題」から「みんな期待に応えること」へ。つまり、「るいネット」や「交流会」等に参加し広めていくことこそ、求められている「行動」なのです。
このことをすぐに理解する人も多いのですが、その人は「自己実現」等「自分」意識が強すぎて、「みんな期待」自体を理解できませんでした。
新しい活力は、「みんな期待」を意識することから沸いてきて、そこに立脚しさえすれば日々自然と「行動」しているというのが、実感です。
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