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今まで何度か勉強会に出ました。
「なんでだろ~?」って思った事は何でも質問したらすっごいスッキリする答えがいつも返ってきて、毎回色んな気付きがありました。その時は、潜在思念が鮮明になって自分が賢くなったみたいな感じで、目の前が晴れるみたいな気持ちよさでした。

でもこのまえ初めて経験したカード法が終ったあとは、また違った感覚でした。
カードの意味することやその因果関係や共通原因を探ってゆく作業に、3時間もみんな集中して、どーなんだろー?→こーじゃない?→どーかなー?→そうかも!の繰り返しでした。答えは誰かが持っているものじゃなくて、まさにみんなの潜在思念を頼りに共認されていって、賢くなったっていうよりありったけの脳みそを使い切った感じで、ずっしりした手ごたえ(頭ごたえ?)を感じました。

>「社会が遠く感じられる」「リアリティがない」というのも交流会でよく聞かれる言葉です。それも今、社会という空間を認識する道具が役に立たたなくなってきた結果なのだと思います。

異世代が集まって色んな現象を繋げてみんなで作り上げた社会構造は、本当にみんなの潜在思念としっくり重なってリアリティーを持って感じられました。

西知子
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>「社会が遠く感じられる」「リアリティがない」というのも交流会でよく聞かれる言葉です。それも今、社会という空間を認識する道具が役に立たたなくなってきた結果なのだと思います。

>現在は、潜在思念の方は変わっているのに制度、さらにそれを成り立たせている観念全体が古いので社会が遠く感じられるし、実際の行動も潜在思念とズレてしまっているから自分自身の生活にもリアリティが感じられない、という状況です。

確かに現在の社会は潜在思念と現実の制度にずれが生じてしまっています。実際私の周囲にも現実感がない、と言う人が何人もいます。学生の多くは人生に目標が見出せないことを嘆いていますが、これもまた潜在思念と社会制度の断層がそうさせているのでしょうか。

人間は共認動物であり、現実場面において何らかの重要な共認域に参加するこを潜在的に求めています。最近の学生が多くのイベントを企画する、あるいは様々な社会人サークルが隆盛を誇るのも、ボランティア団体が増え続けるのも、擬似的であれ、身近なところに何らかの共認域を形成したいという欲求の表れであるように思えます。これは潜在思念が本来求めているような強力な共認内容を持った場が見出せない事にもよるかもしれません。

中世社会が武力であったように、或いは私権時代が金であったように、社会統合軸とはその時代の最も強力な共認内容を指すように思います。であれば、より良い社会・本源的な社会の実現のためには、この共認域を広げるという活動こそ最も重要なものであり、またその共認内容の高度化が求められるのも必然だと感じます。

実現論という新認識は、それそのものを捉えるのは観念機能であっても、強く人間本来の本能に訴えるものであり、また、人間の本質を追求するものです。それは今まで社会を独占してきた倒鎖した観念とは対極にある、人類史上現れたことの無いような強力な共認内容と言えるでしょう。だからこそ、決定的な共認域を形成するのも遠い先のことではないと思えます。

山本士峰 
> 私たちは、いくつもの共認域が重なり交じり合う空間に生きており、私達自身がそれらの共認形成の当事者となっている。そして、そう認識するだけで、共認内容が変わりさえすれば、社会や集団そのものが変わっていくという単純な事実にも気がつく。

「社会が遠く感じられる」「リアリティがない」というのも交流会でよく聞かれる言葉です。それも今、社会という空間を認識する道具が役に立たたなくなってきた結果なのだと思います。

私たちは多くの場合、社会というものを「制度の集合物」として捉えているように思います。そして、私たちの実際の行動や生活も、自分が思っているよりもずっと強く、その制度によって律されています。「なぜ学校に行くのか?」「なぜ就職するのか?」「なぜ結婚するのか?」という問いの答えも、直接的には「社会の制度がそうなっているから。」です。

しかし元来、制度はアプリオリにあるのではなくて、ある共認域が成長し、その組織化・秩序化の結果として構築されるものです。一旦生み出された制度は一定の固定度を持ち人々の観念と行動を規定するようになりますが、あくまで本質は潜在思念から始まる人々の共認域の方であり、先に変化するのもそちらです。だから、制度がうまく機能するのはその2つが整合している間だけだということが言えます。

現在は、潜在思念の方は変わっているのに制度、さらにそれを成り立たせている観念全体が古いので社会が遠く感じられるし、実際の行動も潜在思念とズレてしまっているから自分自身の生活にもリアリティが感じられない、という状況です。そのフレームを取り払い、社会は制度の集合物である以前に自分自身も含む意識の集合物であることに改めて気付かせてくれるのが、人々の意識がつくり出す同類圧力の“場”を指し示す「共認域」という概念装置なのだと思います。

> 貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。

田中素
企業・サークル・家族・友人関係等々、全ての人間関係を包摂する「社会」が、共認によって成立している構造を的確に伝えてくれる言葉だからだと思う。

私たちが「社会」や「集団」という言葉をつかうとき、それらがアプリオリにあるものと思い勝ちである。そして、それらを自我回路で捉えることで勝手に自分とは遠いものであるとか、逆にそれ自身が自立的な意思をもつような存在として捉えたりしている。

しかし、私たちは、いくつもの共認域が重なり交じり合う空間に生きており、私達自身がそれらの共認形成の当事者となっている。
そして、そう認識するだけで、共認内容が変わりさえすれば、社会や集団そのものが変わっていくという単純な事実にも気がつく。
私権統合の終焉を迎え、社会も集団もガタガタになった今、「共認域」という概念はこれからの可能性を語るには欠かせない言葉だと思う。

前上英二 
私権時代における分断された関係とるいネットで言われている新認識による「協働」という関係。両者は異なるものであるとなんとなくは思っていましたが、「需要者=供給者」という言葉でようやく明確に理解できたように思います。

共認機能とは、

>相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。実現論1_4_05

とあるように「与える、与えられる(需要者、供給者)」という垣根はなく、両者は一体のものです。本来は一体のものを分断させていた私権時代。その私権というものの崩壊と、人々の当事者欠乏によって生まれる新たな共認域。

>それは人類の新たなまつり場であり、そこでは『場』に参加することが、そのまま『場』を構築することになる。云い換えれば、『場』に参加するだけで、『場』の構築という事業の立派な協働者となる。従って、人々が次々と『認識形成の場』に参加するだけで、国家に変わる新しい社会統合機構(の中核)が構築されてゆく。(32085 ゼロから、自分たちの『場』を作る活動) 

「『場』に参加する」ことのイメージがかなりスッキリとしたものになってきました。新しい『場』では、まさしく「需要者=供給者」であり、更には「協働者」でもあります。私権時代の人々の生活の有り様を決定的に規定していた需要と供給による与える、与えられるという関係。この関係を全的に包括する新しい共認域こそが、「国家に変わる新しい社会統合機構」になっていくのだろうと思います。

トップページの
「共認形成は遊びではない、誰もが担うべきもう一つの生産活動である。」
の言葉の重みが一層増した感じです。


高利
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