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>なぜ市民運動がNWされないのかがわかった気がしました。環境運動・人権運動etc.、それらは社会不全そのものを対象化するのではなく、己の問題意識に最も響いた社会不全の末端現象を(対症療法的に)改善しようとする運動。
貧困というみんな不全⇒みんな期待があった時代には、豊かさの実現を目指したマルクス主義を代表とする思想が広まり、それに導かれて労働運動が盛り上がり、労働組合が全国的に組織化されました。'70年貧困の消滅によって、みんな不全・みんな期待が消滅すると、思想は輝きを失い、労働運動も衰退しました。その後、'90年代後半から、環境運動等の市民運動が登場しますが、これらは、バラバラのままです。
労働運動の事例から言えることは、みんな期待に応える認識があって初めて運動は組織化されるということです。市民運動が統合されないのは、「出口が見えない、答えがほしい」という適応不全⇒新しいみんな期待に応える認識の中身がないからではないでしょうか。最近の市民運動では、「社会を変えるには、まず実践だ」と言われるようです。安直に実践運動に走ること自体が、みんな期待に応えうる認識(答え)の中身がないことを表しています。
>´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。その原因が、豊かさ追求(貧困からの脱出)と、それを正当化した近代思想(自由・個人・人権)と、それに導かれた要求運動というパラダイム全体の終焉であることは明らかである。ところが、今なお多くの運動が、とっくに輝きを失った近代思想に依拠し続けている。それでは、誰も(ごく一部の人しか)「運動」に参加してこないのも当然だろう。
>もともとこの社会(市場社会)は、近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc)に導かれて成長してきた。その同じ思想に立脚して、体制を転換させることなど出来る訳がない。にも拘らず、(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。(「チンケな運動(要求運動の終焉)」
だとすれば、今必要なことは、適応不全⇒みんな期待に応えうる新しい認識を作り出すこと、そのために、答えを求めて誰もが集まり語り合う場(共認域)を作ることだと思います。そのような場の運営者になること、自ら働きかけて共認形成の場を実現していくこと、これが、今、本当に必要な実践活動なのではないでしょうか。
冨田彰男
貧困というみんな不全⇒みんな期待があった時代には、豊かさの実現を目指したマルクス主義を代表とする思想が広まり、それに導かれて労働運動が盛り上がり、労働組合が全国的に組織化されました。'70年貧困の消滅によって、みんな不全・みんな期待が消滅すると、思想は輝きを失い、労働運動も衰退しました。その後、'90年代後半から、環境運動等の市民運動が登場しますが、これらは、バラバラのままです。
労働運動の事例から言えることは、みんな期待に応える認識があって初めて運動は組織化されるということです。市民運動が統合されないのは、「出口が見えない、答えがほしい」という適応不全⇒新しいみんな期待に応える認識の中身がないからではないでしょうか。最近の市民運動では、「社会を変えるには、まず実践だ」と言われるようです。安直に実践運動に走ること自体が、みんな期待に応えうる認識(答え)の中身がないことを表しています。
>´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。その原因が、豊かさ追求(貧困からの脱出)と、それを正当化した近代思想(自由・個人・人権)と、それに導かれた要求運動というパラダイム全体の終焉であることは明らかである。ところが、今なお多くの運動が、とっくに輝きを失った近代思想に依拠し続けている。それでは、誰も(ごく一部の人しか)「運動」に参加してこないのも当然だろう。
>もともとこの社会(市場社会)は、近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc)に導かれて成長してきた。その同じ思想に立脚して、体制を転換させることなど出来る訳がない。にも拘らず、(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。(「チンケな運動(要求運動の終焉)」
だとすれば、今必要なことは、適応不全⇒みんな期待に応えうる新しい認識を作り出すこと、そのために、答えを求めて誰もが集まり語り合う場(共認域)を作ることだと思います。そのような場の運営者になること、自ら働きかけて共認形成の場を実現していくこと、これが、今、本当に必要な実践活動なのではないでしょうか。
冨田彰男
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交流会を実際に運営していく(=場をつくっていく)ことの引力は想像を絶する。
先日、今まで交流会にバラバラに参加していたるい交流会ファンが、一堂に会して「みんなで交流会を運営していこう」という話になった。
勿論そこで初めて出会った人もたくさんいたわけだけど、初めて会ったとは思わせない程の勢いがあった。そして今後どうやって人を集めていこうかという話で盛り上がった。まだまだ不安な人も、そんなみんなの勢いに後押しされて「よ~し、やってみよう!」という気になっていく。
でも重要なのは「単に人を集めるという課題をこなすわけじゃない、共認域を作り出していく、そうすれば自ずと人は集まるし、その方がやってる方も断然楽しい」ってこと。
>「人を探すんじゃなくて、共認域を作れば良いんだ!」
もはや人集めという課題も、ミニ交流会作りへと変貌している。
そういえば今まで交流会が終わった後、「普段こういう話ってなかなか出来ないよね」とか「こういう場ってなかなかないよね」といった話をよくしていた気がする。
そう、みんな本当は求めてたんだ。でも今までこういう場がなかったから話せなかっただけなんだ。だったらそういう場を作っていけばいい。るい交流会で出会った仲間ならそれが出来る。この日初めて会った人同士でも、一緒に出かけてみようという話にもなっていた。
>正に、「認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、真の社会活動だ」と改めて確信しました。
当事者としてこの役割を担ってこうとしている人たちがこんなに活き活きとしているのは、間違いなくこれが「みんな期待に応える社会活動」だからだろう。本当にものすごい勢いを感じる。
浅田祥幸
先日、今まで交流会にバラバラに参加していたるい交流会ファンが、一堂に会して「みんなで交流会を運営していこう」という話になった。
勿論そこで初めて出会った人もたくさんいたわけだけど、初めて会ったとは思わせない程の勢いがあった。そして今後どうやって人を集めていこうかという話で盛り上がった。まだまだ不安な人も、そんなみんなの勢いに後押しされて「よ~し、やってみよう!」という気になっていく。
でも重要なのは「単に人を集めるという課題をこなすわけじゃない、共認域を作り出していく、そうすれば自ずと人は集まるし、その方がやってる方も断然楽しい」ってこと。
>「人を探すんじゃなくて、共認域を作れば良いんだ!」
もはや人集めという課題も、ミニ交流会作りへと変貌している。
そういえば今まで交流会が終わった後、「普段こういう話ってなかなか出来ないよね」とか「こういう場ってなかなかないよね」といった話をよくしていた気がする。
そう、みんな本当は求めてたんだ。でも今までこういう場がなかったから話せなかっただけなんだ。だったらそういう場を作っていけばいい。るい交流会で出会った仲間ならそれが出来る。この日初めて会った人同士でも、一緒に出かけてみようという話にもなっていた。
>正に、「認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、真の社会活動だ」と改めて確信しました。
当事者としてこの役割を担ってこうとしている人たちがこんなに活き活きとしているのは、間違いなくこれが「みんな期待に応える社会活動」だからだろう。本当にものすごい勢いを感じる。
浅田祥幸
「日頃、なぜだろう?何かおかしいと感じていること」をカードに書いてもらって、それをもとにお話していく。カード方式による交流会を、私もやりました。参加者の感想として、「関係がないと思っていたバラバラの現象や問題が、すべて繋がっていたのがわかってスッキリした」という話をよく聞きます。逆に言うと、みんな、日頃は個々の現象群をバラバラに無関係なもののように捉えているということです。そして、バラバラの現象群のうち、大半のものは自分と関係があるように感じられない。それが、「社会にリアリティが感じられない」ということだと思います。
それが、カードを使っての交流会だと、例えば、市場の話なんて遠い話だと思っていた若者でも、「中高年のおじさんの話がつまらないのは何でだろう?」という疑問と市場の縮小に、共通の原因があることがわかると、バラバラだった現象・問題が身近な疑問とつながっていきます。こうして、社会全体がリアリティを帯びていくのだろうと思います。
また、「みんな同じことを考えていることがわかった」という感想もよく聞きます。みなさん、交流会に参加する前は、個々の問題を自分一人でバラバラに考えていたのではないでしょうか。「こんなこと考えているのは自分だけだろうな」と思っていたのではないでしょうか。そして、一人一人では答えが出ないまま、それらの疑問は流産してきたのではないでしょうか。(「必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある」)
それが、交流会の場では、参加者が個々に出した疑問や現象が、全て繋がっていくことによって、「実は、みんな同じことを考えていたのだ」→「みんな同じことを期待しているのだ」→「みんなでなら答えが出せそう」という、みんな期待と実現可能性の実感が醸成されているように思います。
社会で起きている様々な現象は全てつながっているということ、それはみんなの=自分の意識の表れなのだということ。つまり、現実の社会を作り出しているのはみんなの=自分の意識であることを、交流会の場でみんなが気づいていく。それが「社会とは意識の集合物であることに気付く」ということではないかと思います。
冨田彰男
それが、カードを使っての交流会だと、例えば、市場の話なんて遠い話だと思っていた若者でも、「中高年のおじさんの話がつまらないのは何でだろう?」という疑問と市場の縮小に、共通の原因があることがわかると、バラバラだった現象・問題が身近な疑問とつながっていきます。こうして、社会全体がリアリティを帯びていくのだろうと思います。
また、「みんな同じことを考えていることがわかった」という感想もよく聞きます。みなさん、交流会に参加する前は、個々の問題を自分一人でバラバラに考えていたのではないでしょうか。「こんなこと考えているのは自分だけだろうな」と思っていたのではないでしょうか。そして、一人一人では答えが出ないまま、それらの疑問は流産してきたのではないでしょうか。(「必要意識⇒課題意識には、不全発と可能性発の二通りある」)
それが、交流会の場では、参加者が個々に出した疑問や現象が、全て繋がっていくことによって、「実は、みんな同じことを考えていたのだ」→「みんな同じことを期待しているのだ」→「みんなでなら答えが出せそう」という、みんな期待と実現可能性の実感が醸成されているように思います。
社会で起きている様々な現象は全てつながっているということ、それはみんなの=自分の意識の表れなのだということ。つまり、現実の社会を作り出しているのはみんなの=自分の意識であることを、交流会の場でみんなが気づいていく。それが「社会とは意識の集合物であることに気付く」ということではないかと思います。
冨田彰男
>人間は共認動物であり、現実場面において何らかの重要な共認域に参加するこを潜在的に求めています。最近の学生が多くのイベントを企画する、あるいは様々な社会人サークルが隆盛を誇るのも、ボランティア団体が増え続けるのも、擬似的であれ、身近なところに何らかの共認域を形成したいという欲求の表れであるように思えます。
>中世社会が武力であったように、或いは私権時代が金であったように、社会統合軸とはその時代の最も強力な共認内容を指すように思います。であれば、より良い社会・本源的な社会の実現のためには、この共認域を広げるという活動こそ最も重要なものであり、またその共認内容の高度化が求められるのも必然だと感じます。
お金と身分に皆が収束した『私権統合』(私権意識)がガタガタになり、新たな収束先を求める皆の潜在意識が、益々増大してきている。
皆の潜在意識が作り出す、学生イベントや社会人サークル、様々な交流会、ボランティア活動は、『共認域』の自然発生的な形成であり、新たな『社会統合軸』を形成する基盤だと思います。
それ故に、皆の潜在意識を『認識』として固定し、広げる事、『共認域』形成に参加する事によって、初めて「社会」が現実の対象として見えてくる様に思います。
今、「るい交流会」が目指すものが、正にその事ですね。
皆の潜在意識を言葉に置き換え、気づきとして固定し、構造的な『認識』へと上昇させる。その行為を参加者全員で行う『方法』が確定しつつあると思います。
>社会は、人々の共認によって形成されている。実際、この社会を動かしているのも、この社会を統合しているのも、全ては人々の共認に依っている。従って、社会を統合し直すために最も重要なのは、人々の共認内容=認識を変革し、新たな共認内容を形成してゆくことである。
なぜなら、共認こそ人類の命綱であり、その共認内容は人類の命運を左右する(例えば、共認内容を誤れば人類は滅亡する)ものだからである。また、人々の認識さえ変えることが出来れば、それに応じて社会制度や体制を変えるのは簡単だからである。要するに、認識形成こそ、社会形成の生命部なのである。
>従って、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、求められる真の社会活動となる。実際、大衆自身の手で社会の生命部を成す共認を形成してゆく活動であるという点でも、誰に要求するのでもなく自らの手で新しい社会統合機構を構築してゆく活動であるという点でも、これこそが、真の社会活動であり、それをおいて他に真に有効な実践活動はない。
(32087 超国家・超市場論18 認識形成の『場』を構築することこそ、真の社会活動である)
交流会に参加する事、周りの人に交流会参加を勧める事、交流会の企画に参加する事、交流会において皆で認識を深める事、そして、るいネットワークに気づきの投稿をする事、これら全てが、『共認域』形成の活動ですね。
正に、「認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、真の社会活動だ」と改めて確信しました。
村田貞雄
>中世社会が武力であったように、或いは私権時代が金であったように、社会統合軸とはその時代の最も強力な共認内容を指すように思います。であれば、より良い社会・本源的な社会の実現のためには、この共認域を広げるという活動こそ最も重要なものであり、またその共認内容の高度化が求められるのも必然だと感じます。
お金と身分に皆が収束した『私権統合』(私権意識)がガタガタになり、新たな収束先を求める皆の潜在意識が、益々増大してきている。
皆の潜在意識が作り出す、学生イベントや社会人サークル、様々な交流会、ボランティア活動は、『共認域』の自然発生的な形成であり、新たな『社会統合軸』を形成する基盤だと思います。
それ故に、皆の潜在意識を『認識』として固定し、広げる事、『共認域』形成に参加する事によって、初めて「社会」が現実の対象として見えてくる様に思います。
今、「るい交流会」が目指すものが、正にその事ですね。
皆の潜在意識を言葉に置き換え、気づきとして固定し、構造的な『認識』へと上昇させる。その行為を参加者全員で行う『方法』が確定しつつあると思います。
>社会は、人々の共認によって形成されている。実際、この社会を動かしているのも、この社会を統合しているのも、全ては人々の共認に依っている。従って、社会を統合し直すために最も重要なのは、人々の共認内容=認識を変革し、新たな共認内容を形成してゆくことである。
なぜなら、共認こそ人類の命綱であり、その共認内容は人類の命運を左右する(例えば、共認内容を誤れば人類は滅亡する)ものだからである。また、人々の認識さえ変えることが出来れば、それに応じて社会制度や体制を変えるのは簡単だからである。要するに、認識形成こそ、社会形成の生命部なのである。
>従って、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、求められる真の社会活動となる。実際、大衆自身の手で社会の生命部を成す共認を形成してゆく活動であるという点でも、誰に要求するのでもなく自らの手で新しい社会統合機構を構築してゆく活動であるという点でも、これこそが、真の社会活動であり、それをおいて他に真に有効な実践活動はない。
(32087 超国家・超市場論18 認識形成の『場』を構築することこそ、真の社会活動である)
交流会に参加する事、周りの人に交流会参加を勧める事、交流会の企画に参加する事、交流会において皆で認識を深める事、そして、るいネットワークに気づきの投稿をする事、これら全てが、『共認域』形成の活動ですね。
正に、「認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、真の社会活動だ」と改めて確信しました。
村田貞雄
>何かを考えるときは一緒に考えてくれる人が一人でも多くいた方がいいし、いくら自分の頭のなかだけで思いをめぐらせても結局出てくるものは答えではないような気がします。それが皆の協働の場である「現実」で意味をもつとも考えにくい。
同感です。私も一人で何かを考えてもすぐに行き詰ってしまいます。もちろん一人でも物事を考えるんだけど、そこで出てきた答えにイマイチ確信がもてない、本当に答えになっているのだろうか?と疑問が出てきます。確信がもてないままに頭を使おうとしても、イマイチ頭が働かないというのが実感するところです。
またそのような確信がもてない事に対して「周りに惑わされず、自分の目標をしっかり持ちなさい」「独自の思考や自己表現力を身につけなさい」と大抵の人は言います。しかしこのようにすればするほど、周りとはどんどん離れ孤独になっていく。まさに宗教や近代思想が生み出された思考そのもののように思います。
>頭の中の内在価値を現実引力に負けないくらい強く観念的に精練し、体系化する為の隔離であり、期間であるが、この様な観念思考そのものが、現実から隔離された思考という点でも、皆との交信から隔離された思考という点でも、実は狂った思考なのである。
一方交流会に何度か参加して思うのは、自分でも信じられないくらい頭が働いているし、答えを見つけていこうとしている。みんなの発言の中で「その感覚解る!やっぱりそうなんだ!」とか「あ~ちょっとここは私がズレていたんだな」が見えてくる。一人で考えてた時には得られなかった確信がみんなの潜在思念→共認を羅針盤にしながら得られていきます。だからどんどん頭は働くし、そこで共認できた答えや社会構造にはリアリティが感じられる。(55794)答えや構造認識という観念はみんな共認を土台にして初めてリアリティを帯びてくるというのが実感できます。
>現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。
現在の様々な社会問題もこの共認過程を通じて初めてリアリティをもった問題として現われ、そこから自ずと生じる期待圧力や同類圧力が活力に転化されていく・・それが次代の姿なのではないかと思います。
喜田育樹
同感です。私も一人で何かを考えてもすぐに行き詰ってしまいます。もちろん一人でも物事を考えるんだけど、そこで出てきた答えにイマイチ確信がもてない、本当に答えになっているのだろうか?と疑問が出てきます。確信がもてないままに頭を使おうとしても、イマイチ頭が働かないというのが実感するところです。
またそのような確信がもてない事に対して「周りに惑わされず、自分の目標をしっかり持ちなさい」「独自の思考や自己表現力を身につけなさい」と大抵の人は言います。しかしこのようにすればするほど、周りとはどんどん離れ孤独になっていく。まさに宗教や近代思想が生み出された思考そのもののように思います。
>頭の中の内在価値を現実引力に負けないくらい強く観念的に精練し、体系化する為の隔離であり、期間であるが、この様な観念思考そのものが、現実から隔離された思考という点でも、皆との交信から隔離された思考という点でも、実は狂った思考なのである。
一方交流会に何度か参加して思うのは、自分でも信じられないくらい頭が働いているし、答えを見つけていこうとしている。みんなの発言の中で「その感覚解る!やっぱりそうなんだ!」とか「あ~ちょっとここは私がズレていたんだな」が見えてくる。一人で考えてた時には得られなかった確信がみんなの潜在思念→共認を羅針盤にしながら得られていきます。だからどんどん頭は働くし、そこで共認できた答えや社会構造にはリアリティが感じられる。(55794)答えや構造認識という観念はみんな共認を土台にして初めてリアリティを帯びてくるというのが実感できます。
>現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。
現在の様々な社会問題もこの共認過程を通じて初めてリアリティをもった問題として現われ、そこから自ずと生じる期待圧力や同類圧力が活力に転化されていく・・それが次代の姿なのではないかと思います。
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