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>今まで、マナーを声高に叫んだり、個人の権利を強く要求する人は特殊な人だから、関わらない方がいいと思っていた。その根っこには自分には関係ないし、一部の言いたい人には言わせておけばいいんだみたいな傍観者的な考えがあったような気がする。 (58773)
私もその一人です。権利とか人権とかを主張する人は、ちょっとヘンな人だと思っていました。何を言っても「人権尊重」以外は通じないんだから、好きなようにさせとくのが一番、と思っていました。
声の大きい人、主張する人は、とにかく言葉が多いです。「自分さえよければいい」という中身を、権利とか人権とかに偽装して主張するのだから、観念機能は異様に発達してて、口がうまい。しかもやたら攻撃的。
一方、観念捨象(or思考停止)している普通の人は、なんかヘン、と思っても、潜在思念からの「なんかヘン」という素直な言葉以外、思いつかないし、相手を打ち負かすための言葉を探そうとは思わない。ちょっとでも反論しようものなら、100倍にもなって価値観念・欺瞞観念にまみれたうんざりする言葉が帰ってくることは明白だから。そして、普通の人の「なんかヘン」という言葉程度では、共認を支配してるマスコミや統合階級たちには見向きもされないだろうから。
でも、人々は気付きつつあると思います。ごまかしや自我主張のための言葉なんて、イヤ~な気がするだけで、ちっとも心に響かないってこと。多くの普通の人々の、実感のこもった「なんかヘン」の方が、よほど共認充足出来る言葉だってこと。そして、そのことに、多くの人が気付き始めたってこと。「やっぱりヘンだよね~」って、言える雰囲気が出来つつあるのではないでしょうか?
しかし、社会統合の面から言えば、人類は観念共認によって統合されているのだから、「なんかヘン」という潜在思念直結の言葉だけでは統合できません。潜在思念と観念を繋ぐ、万人に共認される言葉、それが事実観念であり、新しい認識の言葉なんだと思います。
そして、その言葉を創っていく場、そして共認域を創って行く場が、このるいネットであり、交流会なんだ、と思いました。
藤岡聖子
私もその一人です。権利とか人権とかを主張する人は、ちょっとヘンな人だと思っていました。何を言っても「人権尊重」以外は通じないんだから、好きなようにさせとくのが一番、と思っていました。
声の大きい人、主張する人は、とにかく言葉が多いです。「自分さえよければいい」という中身を、権利とか人権とかに偽装して主張するのだから、観念機能は異様に発達してて、口がうまい。しかもやたら攻撃的。
一方、観念捨象(or思考停止)している普通の人は、なんかヘン、と思っても、潜在思念からの「なんかヘン」という素直な言葉以外、思いつかないし、相手を打ち負かすための言葉を探そうとは思わない。ちょっとでも反論しようものなら、100倍にもなって価値観念・欺瞞観念にまみれたうんざりする言葉が帰ってくることは明白だから。そして、普通の人の「なんかヘン」という言葉程度では、共認を支配してるマスコミや統合階級たちには見向きもされないだろうから。
でも、人々は気付きつつあると思います。ごまかしや自我主張のための言葉なんて、イヤ~な気がするだけで、ちっとも心に響かないってこと。多くの普通の人々の、実感のこもった「なんかヘン」の方が、よほど共認充足出来る言葉だってこと。そして、そのことに、多くの人が気付き始めたってこと。「やっぱりヘンだよね~」って、言える雰囲気が出来つつあるのではないでしょうか?
しかし、社会統合の面から言えば、人類は観念共認によって統合されているのだから、「なんかヘン」という潜在思念直結の言葉だけでは統合できません。潜在思念と観念を繋ぐ、万人に共認される言葉、それが事実観念であり、新しい認識の言葉なんだと思います。
そして、その言葉を創っていく場、そして共認域を創って行く場が、このるいネットであり、交流会なんだ、と思いました。
藤岡聖子
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>【被害者意識から要求を続ける一部の人たち】は、もはや、明確に白眼視されつつあると考えられるが、しかし、当然ながら、傍観的にそれら一部の人々を非難しているだけでは、共認支配の現実は何も変わらない。
>チンケな運動も、「なんかおかしい」マナーの氾濫も、当人たちは人類的にいいことをやっているのだからそれで済む(解決される)と錯覚しているのでしょうが、実態は人々を旧体制や旧観念に閉じ込め、新しい共認統合の可能性の芽を摘んでいっているのではないだろうか。
今まで、マナーを声高に叫んだり、個人の権利を強く要求する人は特殊な人だから、関わらない方がいいと思っていた。その根っこには自分には関係ないし、一部の言いたい人には言わせておけばいいんだみたいな傍観者的な考えがあったような気がする。
でも、この間のみなさんの意見を読んで、マナーを声高に叫ぶ人や、個人の権利を強く要求する人の声ばかりが、社会的に取り上げられていて、社会全体の共認を支配している事実に気付いた。そして、その共認支配が新しい共認統合の可能性の足かせになっていることもよく分かった。
だから、【大多数の健全な(=普通の)人たち】も【被害者意識から要求を続ける一部の人たち】の発言がおかしければ、それがおかしいことを発信していかなきゃって思った。そして、普通の人同士の発信によって共認域を作っていき、一部の人のおかしな発言によって作られた共認支配を崩していかなきゃと思った。
>共認域をめぐる縄張り闘争は、やはり遊びではない、という思いを強くしている。
ほんとにそうですね。みんなで協働していく仕事(=闘争)ですね。
端野芳
>チンケな運動も、「なんかおかしい」マナーの氾濫も、当人たちは人類的にいいことをやっているのだからそれで済む(解決される)と錯覚しているのでしょうが、実態は人々を旧体制や旧観念に閉じ込め、新しい共認統合の可能性の芽を摘んでいっているのではないだろうか。
今まで、マナーを声高に叫んだり、個人の権利を強く要求する人は特殊な人だから、関わらない方がいいと思っていた。その根っこには自分には関係ないし、一部の言いたい人には言わせておけばいいんだみたいな傍観者的な考えがあったような気がする。
でも、この間のみなさんの意見を読んで、マナーを声高に叫ぶ人や、個人の権利を強く要求する人の声ばかりが、社会的に取り上げられていて、社会全体の共認を支配している事実に気付いた。そして、その共認支配が新しい共認統合の可能性の足かせになっていることもよく分かった。
だから、【大多数の健全な(=普通の)人たち】も【被害者意識から要求を続ける一部の人たち】の発言がおかしければ、それがおかしいことを発信していかなきゃって思った。そして、普通の人同士の発信によって共認域を作っていき、一部の人のおかしな発言によって作られた共認支配を崩していかなきゃと思った。
>共認域をめぐる縄張り闘争は、やはり遊びではない、という思いを強くしている。
ほんとにそうですね。みんなで協働していく仕事(=闘争)ですね。
端野芳
>人を探すんじゃなくて、共認域を作れば良いんだ!
先日フリマに、るいネットの協働仲間とモノは売らない、気付きだけを売るという「しゃべり処」の出店に参加しました。
ござを敷いて「しゃべり処」と墨で書いた看板の他には、「社会のことを一緒に考える」キーワードになりそうなカードを何枚か貼り付けただけのシンプルなシチュエーションです。
座って話しに参加してみて、フリマに来ている人々の反応が最初に思っていた以上のもので、まさにそこに共認域が形成され、広がっていく可能性をそこに感じることができました。
その場を後ろから眺めていたときも通っている人の多くが立ち止まって、看板やカードや話している人を見ながら、「何をしているのだろう」と興味深々なのが見て取れます。明らかにフリマの商品以上の吸引力を持っているようなのです。
試しに看板を見て立ち止まっている人に、ヨコから声をかけて見ると大抵話しが弾んでいきます。立ち話しているその場自体が共認域そのものです。
場さえつくれば人が寄ってくる!と言う感じです。
>閉塞感が強まり、社会不全が捨象し切れなくなった結果、「それじゃ駄目だよね」という空気(共認域?)が漂って居ます。
誰もがそう感じているからこそ、それに相応しい場があって中身のある話を仕掛ける人が居さえすれば、そんな共認域が成立し広がっていくのでしょう。
共認域とは頭で考えているだけでは中々イメージできなかったことが、そこの場に参加することで初めて実感できる、そんなものなのかも知れません。
>人を探すんじゃなくて、共認域を作れば良いんだ!
ということを初めて理解できた気がしました。
田原康夫
先日フリマに、るいネットの協働仲間とモノは売らない、気付きだけを売るという「しゃべり処」の出店に参加しました。
ござを敷いて「しゃべり処」と墨で書いた看板の他には、「社会のことを一緒に考える」キーワードになりそうなカードを何枚か貼り付けただけのシンプルなシチュエーションです。
座って話しに参加してみて、フリマに来ている人々の反応が最初に思っていた以上のもので、まさにそこに共認域が形成され、広がっていく可能性をそこに感じることができました。
その場を後ろから眺めていたときも通っている人の多くが立ち止まって、看板やカードや話している人を見ながら、「何をしているのだろう」と興味深々なのが見て取れます。明らかにフリマの商品以上の吸引力を持っているようなのです。
試しに看板を見て立ち止まっている人に、ヨコから声をかけて見ると大抵話しが弾んでいきます。立ち話しているその場自体が共認域そのものです。
場さえつくれば人が寄ってくる!と言う感じです。
>閉塞感が強まり、社会不全が捨象し切れなくなった結果、「それじゃ駄目だよね」という空気(共認域?)が漂って居ます。
誰もがそう感じているからこそ、それに相応しい場があって中身のある話を仕掛ける人が居さえすれば、そんな共認域が成立し広がっていくのでしょう。
共認域とは頭で考えているだけでは中々イメージできなかったことが、そこの場に参加することで初めて実感できる、そんなものなのかも知れません。
>人を探すんじゃなくて、共認域を作れば良いんだ!
ということを初めて理解できた気がしました。
田原康夫
マナーの氾濫(=マナーファシズム)を考えていくと、中根さんを初め、多くの方が指摘しているように、共認支配の問題に行き着きます。
この共認支配の構図は、既に切開されているように、ヒステリックなまでに被害者意識に凝り固まった一部の人たちや団体の声が、マスコミや学校教育を通じて、あたかも万人の主張のように摩り替えられ、行政もひたすらそれに迎合するばかりで、彼らの主張がいつの間にか法制化され、万人に強制されていく様を物語っています。
そもそも'70年の貧困の消滅をもって、自由・平等・人権などの旧思想はほとんど死んだも同然で、所謂‘無思想・無関心’が蔓延し始め、最近では、若者を中心に充足基調が広まってきました。その点を考え合わせると、この構図は、【大多数の健全な(=普通の)人たち】⇔【被害者意識から要求を続ける一部の人たち】⇔【旧観念でメシを喰っているマスコミ・教育関係者】⇔【私権制度に基く立法権などを今でも行使する政治家・官僚たち】という関係で理解しなければなりません。
つまり、最も多数派を占める健全な人たちは、何も主張しないことをいいことに、まったく本意ではないことの片棒を担がされ、結果的には、新しくできた法律を強要されては、社会に対する違和感を募らせていることになります。
この共認支配の構図から見えてくるのは、何であれ万人に適用する以上『万人の共認』が必要であるという、言わば当たり前の視点だと思います。しかし、現実には、普通の人々には、一部の人の共認支配に対抗する場も、共認形成に加わる場も、選挙というゴマカシの制度以外には与えられていませんし、マスコミの横暴に至っては、文字通り‘野放し’状態です。
現代にも未だはびこる共認支配の現実を前に、この『万人の共認』=『みんな共認』という視点自体が、権利や人権という旧い概念に取って替わる、役に立つ新しい概念なんだと、あらためて思います。
土山惣一郎
この共認支配の構図は、既に切開されているように、ヒステリックなまでに被害者意識に凝り固まった一部の人たちや団体の声が、マスコミや学校教育を通じて、あたかも万人の主張のように摩り替えられ、行政もひたすらそれに迎合するばかりで、彼らの主張がいつの間にか法制化され、万人に強制されていく様を物語っています。
そもそも'70年の貧困の消滅をもって、自由・平等・人権などの旧思想はほとんど死んだも同然で、所謂‘無思想・無関心’が蔓延し始め、最近では、若者を中心に充足基調が広まってきました。その点を考え合わせると、この構図は、【大多数の健全な(=普通の)人たち】⇔【被害者意識から要求を続ける一部の人たち】⇔【旧観念でメシを喰っているマスコミ・教育関係者】⇔【私権制度に基く立法権などを今でも行使する政治家・官僚たち】という関係で理解しなければなりません。
つまり、最も多数派を占める健全な人たちは、何も主張しないことをいいことに、まったく本意ではないことの片棒を担がされ、結果的には、新しくできた法律を強要されては、社会に対する違和感を募らせていることになります。
この共認支配の構図から見えてくるのは、何であれ万人に適用する以上『万人の共認』が必要であるという、言わば当たり前の視点だと思います。しかし、現実には、普通の人々には、一部の人の共認支配に対抗する場も、共認形成に加わる場も、選挙というゴマカシの制度以外には与えられていませんし、マスコミの横暴に至っては、文字通り‘野放し’状態です。
現代にも未だはびこる共認支配の現実を前に、この『万人の共認』=『みんな共認』という視点自体が、権利や人権という旧い概念に取って替わる、役に立つ新しい概念なんだと、あらためて思います。
土山惣一郎
一見もっともらしいマナーや主張が声高に叫ばれ、いつの間にか法制化されてがんじがらめになっていくのを「なんかおかしい」と思うと同時に、このままでは閉塞するばかりという危機感も感じていました。
その正体が皆さんの投稿を読んで、「自分がされたら嫌だから」、「嫌だという反の意識」、「一部の否定性や被害者意識の強い人の声」ばかりがまかり通るようになったからだと分かり、危機感も裏付けられました。
「『集団や社会をどうする』という視点など完全に欠落し、専ら集団や社会に対して、豊かさや安定や保障を要求するだけの要求の塊と化して終った(実現論2_8_04)」人による“共認支配”が一段と進行しているからだと。
これでは集団や社会は疲弊し閉塞するばかりです。私権統合が終焉を迎え、人々の収束先=統合軸がなくなっただけではなく、これら旧観念が共認支配していることの方が、より反人類的である気がしてきました。
>(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。(『チンケな運動(要求運動の終焉)』)
チンケな運動も、「なんかおかしい」マナーの氾濫も、当人たちは人類的にいいことをやっているのだからそれで済む(解決される)と錯覚しているのでしょうが、実態は人々を旧体制や旧観念に閉じ込め、新しい共認統合の可能性の芽を摘んでいっているのではないだろうか。
事実の共認を基本ルールとする交流会を通じて、ぼんやりと感じていた「なんかおかしい」を徹底的に追求することが、新しい共認統合の可能性を開くものだと改めて思いました。
岡本誠
その正体が皆さんの投稿を読んで、「自分がされたら嫌だから」、「嫌だという反の意識」、「一部の否定性や被害者意識の強い人の声」ばかりがまかり通るようになったからだと分かり、危機感も裏付けられました。
「『集団や社会をどうする』という視点など完全に欠落し、専ら集団や社会に対して、豊かさや安定や保障を要求するだけの要求の塊と化して終った(実現論2_8_04)」人による“共認支配”が一段と進行しているからだと。
これでは集団や社会は疲弊し閉塞するばかりです。私権統合が終焉を迎え、人々の収束先=統合軸がなくなっただけではなく、これら旧観念が共認支配していることの方が、より反人類的である気がしてきました。
>(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。(『チンケな運動(要求運動の終焉)』)
チンケな運動も、「なんかおかしい」マナーの氾濫も、当人たちは人類的にいいことをやっているのだからそれで済む(解決される)と錯覚しているのでしょうが、実態は人々を旧体制や旧観念に閉じ込め、新しい共認統合の可能性の芽を摘んでいっているのではないだろうか。
事実の共認を基本ルールとする交流会を通じて、ぼんやりと感じていた「なんかおかしい」を徹底的に追求することが、新しい共認統合の可能性を開くものだと改めて思いました。
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