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先日の交流会で、あるおじさんとあるOLさんが同じようなことを言っていました。
どちらも、企業内での課題共認→役割共認の土壌を形成しようとしているけど上手くいかず、その人(+この会社)はもう変わらないんだと半ば諦めかけていたそうです。

これってどこの企業でも多かれ少なかれ抱えてる問題なんだと思いますが、私もその時は一緒に考え込んでしまって、答えはでませんでした。

でも交流会が終わったあとに、おじさんは「今度部下を連れてきます。教育してやってください。」と言い、OLさんは「ここに連れてきたらその人も変われそうな気がする。今度呼んでいいですか?」と言ってたんです。

それを聞いて、以前あった投稿を思い出しました。

>以前は、私権のパラダイムが無意味化する中では、先駆的な集団から本源集団化(共同体化)して行き、そんな集団が集団間闘争に勝っていく中で、共同体化していく集団が増えて行き、そんな集団同志の有機的なネットワークの形成によって新たな社会統合が自然に達成されていくというイメージを持っていました。

しかし、みなさんの投稿を拝見して、それは、誤りであることに気付きました。
各集団の統合だけで事足りていた極限人類の時代とは異なり、現在の最大の不全は社会不全であり、最大のニーズは社会統合であるという視点にあらためて立つと、まず必要なのは、その社会不全に対する答え、私権崩壊後の可能性先を万人で紡ぎ出していく認識形成の場、集団を超えた社会統合の場の構築とそこへの参加。

まともな集団がほとんど存在しない現在にあっては、今、どの集団に属しているかということよりも、認識の必要性を捉えて、認識形成の場へ参加しているかどうかの方がはるかに重要であり、各人に問われるべきことではないでしょうか。

そして、集団が、社会の一員(社会統合の一翼)であるからには、その社会統合の地平から、各集団の有り様が規定されるというベクトルは当然の帰着です。
それが、これからの共認社会で必要とされる本源集団の構築につながって行くのではないでしょうか。<

集団離れが進んで「みんな」に意識が向かっている潮流から考えても、根本的な変革が必要な状況から考えても、個別課題(集団課題)や目先課題から先に変えるよりも、みんなで認識形成の場に参加するほうが近道な(実現可能性が感じられる)ような気がします。問題は、それにどうやったら気づくか?でしょうか。

西知子
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>70年貧困消滅というのは社会の統合原理が生存圧力を基盤とした本能原理(=序列原理)から共認原理へとパラダイム転換した時代であるといえそうです。
>そう考えると共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。

なるほどと思いました。例えばよく新聞やテレビ局が実施している世論調査、その調査内容を見ればまさしくマスコミ先導の誘導尋問のような形になっています。つまり聞き方によって答えはどうにでもなるのです。用意された答えにするための質問ともいえます。

 しかし、実態としてその答えが「世論=みんなの声」のように報道され続けることで、それが本当にみんなの声であると普通の人々は洗脳されてきました。結果的にその調査結果が選挙にも大きな影響力をもつことになり、政党などは国民を見るのではなく、マスコミを見る、言い換えればどうやってマスコミの支持を得るかに腐心してきたともいえます。

 喜田さんが仰るように一部のマスコミによって社会の共認内容が握られていたが故に閉塞状況を生み出してきたのです。

 しかし、最近のテレビ番組に以前ほどの面白さがなくなってきていることや新聞記事の捏造事件などを見ていると、やはり一部のマスコミが作る共認内容ではこの閉塞状況を切り開くことは不可能であることを誰もが感じているのではないでしょうか。

 先日、初めてるいの異世代交流会に参加させてもらいましたが、新聞やテレビでは得ることのできない世代を超えた人の声を聞くことができ、またいろんな気づきを得ました。そして、こうした場で話し合われていることこそが広い社会の共認原理になると実感しました。

 今求められているのは普通の人々が共認形成していく場であり、それはマスコミではなく、こうした普通の人が集う交流会にこそ可能性があるんだと思います。

琵琶湖
>共認原理へと時代が変わったにも関わらず、ごく一部のマスコミや教育機関によって肝心の社会の共認内容が決まっている事に現在の根本的な閉塞の原因があるのは間違いないでしょう。(「マスコミの第一権力化」)

70年代以前にあったような、貧困や飢えの圧力が失われたことで、社会の統合は、本能原理から共認原理に変化したのなら、共認は本来、皆の手に委ねられるべきものではないでしょうか? 共認が本当に機能する(現実の力になる)には、マスコミのような一方向的な仕掛けでは不完全だし、何より、今起こっている社会の問題は旧観念でなんとかなるような生易しいものではないからです。

にもかかわらず、現在も指摘のようなマスコミによる共認形成の独占状態や共認支配が続いているのは、特定の職業身分に社会統合を委ねる私権社会の旧制度(身分制度)思考の残滓だと思われます。 
マスコミの共認支配とは、この身分制度の上に、本来皆のものであるべき共認原理を当てはめるた(木に竹を接いだような)ちぐはぐな構造で、これにしがみつくと共倒れになることは間違いありません。

社会が既に共認原理に変化した事、しかし共認支配の構造がその可能性を塞いでいる事がわかれば、答えは共認原理を貫徹した(皆の共認を旨とした)社会をいかに形成するか?という一点につきると思います。

田村正道
現代人を思考回路で区分すると、阿部さんが指摘しておられる観念派(ただし少数)、目先派(多数派58019)、そして現実の壁にぶつかりながらも答えを探している探索派(おそらく少数だがメインターゲット)の3派になるように思います。(ただこれは男の場合で、女性の場合は仕事=私権課題から自由なためもう少し類型考察が必要か)

ところで交流会では探索派の人は「何でだろう?」が出せますが、思考停止している観念派・目先派は「何でだろう?」が実はなかなか出てこない。更に、目先派はさして自信もないので声高にしゃべることはないのですが、観念派は「人の話に聞く耳を持たないくせに自分の話だけは聞いて欲しい」という‘しゃべり屋’になります。しかし観念派は会の中でみんなで追求するというムードがつくられると、一転してまったくしゃべれなくなってしまうケースが大半です。従って、しゃべり屋は去り、普通の人(目先派のうち認識充足に気付いた人と探索派)は沈黙を楽しみながら、参加回数を重ねるにつれて発言が増えていくという変化が見られるようになってきました。

この‘交流会’という看板にも関わらず実は「おしゃべり」と、認識交流会が作り出そうとしている「共認充足」は似て非なるものであり、一方通行のおしゃべり派は排除され、普通の人=沈黙派が会話の主役になっていくという点は、会の参加者の質を高めることに繋がり、かつ交流会の吸引力そのものになっていくことが確信できます。

そして交流会の吸引力兼淘汰力でもある「おしゃべりと共認充足の違い」は「みんなの中に飛び込んで、実演する=中身を示す」時でも同じであり‘中身’とはマスコミの受け売りのようなおしゃべりでは味わえない共認充足を相手との会話の中で作り出すことに他なりません。そしてそれは交流会やるいネットで得た‘端的な事例を(根概念や構造認識なしでも)語ればいいのであり、交流会の初級参加者でも可能なことのように思われます。

「おしゃべり」と「共認充足」の違いを明確に実感⇒実演することで交流会の質の上昇と、裾野の拡大のいずれもが飛躍的に上昇していく予感がします。

山澤貴志
> 多くの普通の人々の、実感のこもった「なんかヘン」の方が、よほど共認充足出来る言葉(59069)

「なんかヘン」という感覚は、一見とても曖昧であやふやなもののように思えます。しかし、かつてのみんな不全だった生存圧力が消滅した現在、自己主張の特に強い否定型の人でも、そうでない人でも、何かしら持っている主張やポリシーというものの多くは、個人的体験によって刻み込まれた不全に基づいているのではないかと思います。

そういった個人特有の経験や事情とは縁の薄い「何かヘン」や「何でだろう?」という素朴な実感は、逆に言えば「人間なら誰もが感じる」という普遍性を持っていて、このような“普遍的実感”とでも言うべきものこそ、実は、「万人の共認」の前提となる“普遍的事実”を最も的確に捉えた感覚と言えるのではないでしょうか。

> 「なんかヘン」という潜在思念直結の言葉だけでは統合できません。潜在思念と観念を繋ぐ、万人に共認される言葉、それが事実観念であり、新しい認識の言葉なんだと思います。(59069)

交流会では、参加した人から「スッキリした。」という言葉を聞けるかどうかが、その会がうまくいったかどうかの判断軸であり、それがお互いに最も共認充足を感じる瞬間でもあります。この「スッキリした。」を引き出す言葉も、決して何らかの「主張」でも「価値観」でもありません。「なんかヘン」「何でだろう?」と感じることの答えが見えた時=事実観念でそれが構造化された時です。普遍的事実もまた、(「スッキリした。」という)普遍的実感によって裏付けられるものなのでしょう。

このようにして、「なんでだろう?」「なんかヘン」を曖昧、あやふやなままにしておかず、そこに立脚して普遍的な事実観念に繋ぎ、一体化していくことが、倒錯観念で統合された今の社会を「万人の共認」による社会へ変えていく道筋をつくっていくのだと思います。

田中素 
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