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>日常的な行動というのは、それが楽しければ楽しいほど‘習慣化’していくものだと思います。認識を語り合う習慣を定着させることは、実はたいへん重要な課題であるわりには、これまであまり話題に登ってこなかった論点かもしれません。
確かにこれまでは、「認識を語り合う」ことは何か特別のことでした。従ってこのような話題を話そうとすれば、必ず相手を選んでいました。周囲に他愛ない会話を交わせる友人は多くいても、「認識を語り合う」という友人はごく一部の親友のみでした。それは何故だったのか?と今になって考えた時、根底には「自分のことを分って欲しい、認めて欲しい」という願望がありながら、周囲の人々へ警戒心を抱いているが故に、予め分ってくれそうな友人を厳選して、「認識を語り合えるだけの親密な関係」を元に「親友」という関係が成り立っていたのでは?と思います。
それだけ私権時代を生きてきた我々中高年は、現実不可能視からくる脳内充足のための旧観念に絡めとられていたわけです。我々の世代にとって「認識を語り合う」ことは、閉ざされた場で、閉ざされた人間関係で交わされる、あくまでも非日常なものでした。
しかし、新観念による構造認識を得て、全てが一変しました。
「認識を語り合う」ことは、何ら特別なことではなくごく普通のこと。語り合う相手も、かつてのように友人や親友といった固定化された人間関係ではなくなりました。多くの方々が投稿されているように、「認識露店」では路上という開かれた場で、街ですれ違う行きずりの人々が店主のもとへ「何でだろう」という疑問をもとに「答え」を求めて集まってくる。そんな光景が、そこかしこで日常的に行われている。・・・・・考えるだけで楽しくなってきます。
>だとすれば、そのような構造認識を語れるようになる(≒露店の店主を自力で続けていける)ようになるためにも、人が集まるだけではなく、最低でも週に1~2回はそこに来ることを習慣化させてくれるような場を、案外多くの人たちが待ち望んでいるのではないでしょうか。
普通の人々が、日常抱いている疑問を、新しい認識に触れることで気付きを与えられ追求へ、そこで「答え」を得て充足し、更により深い 「答え」を求めたくなる。・・・・・そうなると、「認識を語り合うこと」が習慣化し、いつもそこに行けば、「認識を語り合える場」があり、仲間がいる。そんな「認識サロン」は、今や人々に渇望されていると思います。
大木康子
確かにこれまでは、「認識を語り合う」ことは何か特別のことでした。従ってこのような話題を話そうとすれば、必ず相手を選んでいました。周囲に他愛ない会話を交わせる友人は多くいても、「認識を語り合う」という友人はごく一部の親友のみでした。それは何故だったのか?と今になって考えた時、根底には「自分のことを分って欲しい、認めて欲しい」という願望がありながら、周囲の人々へ警戒心を抱いているが故に、予め分ってくれそうな友人を厳選して、「認識を語り合えるだけの親密な関係」を元に「親友」という関係が成り立っていたのでは?と思います。
それだけ私権時代を生きてきた我々中高年は、現実不可能視からくる脳内充足のための旧観念に絡めとられていたわけです。我々の世代にとって「認識を語り合う」ことは、閉ざされた場で、閉ざされた人間関係で交わされる、あくまでも非日常なものでした。
しかし、新観念による構造認識を得て、全てが一変しました。
「認識を語り合う」ことは、何ら特別なことではなくごく普通のこと。語り合う相手も、かつてのように友人や親友といった固定化された人間関係ではなくなりました。多くの方々が投稿されているように、「認識露店」では路上という開かれた場で、街ですれ違う行きずりの人々が店主のもとへ「何でだろう」という疑問をもとに「答え」を求めて集まってくる。そんな光景が、そこかしこで日常的に行われている。・・・・・考えるだけで楽しくなってきます。
>だとすれば、そのような構造認識を語れるようになる(≒露店の店主を自力で続けていける)ようになるためにも、人が集まるだけではなく、最低でも週に1~2回はそこに来ることを習慣化させてくれるような場を、案外多くの人たちが待ち望んでいるのではないでしょうか。
普通の人々が、日常抱いている疑問を、新しい認識に触れることで気付きを与えられ追求へ、そこで「答え」を得て充足し、更により深い 「答え」を求めたくなる。・・・・・そうなると、「認識を語り合うこと」が習慣化し、いつもそこに行けば、「認識を語り合える場」があり、仲間がいる。そんな「認識サロン」は、今や人々に渇望されていると思います。
大木康子
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>路上パフォーマンスや人間ウォッチング、そして、露店・・・ここで生まれる普通の人々の同一視や共感が、新たなみんな共認を生み出してゆく可能性はあると思う。
路上にいる若者と話をすると、「すぐ側にいる見知らぬ人が、あくまでも赤の他人で、話も出来ないって事自体おかしいと思う。」といった言葉も出てくる。それが言葉になって出てくるのは、ほんの一握りの先端の層なのだろうとは思う。
ただ、そこに露店があることで、路上は普通の人にとっても、顕在化しつつある皆の同一視や共感を求める意識に一歩踏みだす事の出来る、壁が取り払え易い空間になっていると感じる。しがらみを越えた人間関係の入り口や体験の場としてのスタイルとして何となく認知されている。
最近多く見かける、本当に生活を賭けた商売としてではなく、手作りの物などを売る既存の露店では、売り物それ自体以上に、顔を突っ込めばしがらみを脱したところでの実関係を楽しめる場として、一般の人に楽しみを与えている。見知らぬ店主や客と話したことこそが、客の充足に繋がっている。
物ならば、手作りのアクセサリーやポストカード自体、そういくつもいらない。固定ファンが着いているのは、店主の人柄や話、ポストカード等でも言葉を書く露店が圧倒的に多い。
やはり、言葉、認識を背景にしたその場での共感などが引力なのだと感じる。物に負けないきっかけ作りを工夫し、認識そのものを売り物に場を形成できれば、確かに、新たなみんな共認を生み出す入り口の場として、大いに役割を果たす可能性を持っていると思う。
柳瀬尚弘
路上にいる若者と話をすると、「すぐ側にいる見知らぬ人が、あくまでも赤の他人で、話も出来ないって事自体おかしいと思う。」といった言葉も出てくる。それが言葉になって出てくるのは、ほんの一握りの先端の層なのだろうとは思う。
ただ、そこに露店があることで、路上は普通の人にとっても、顕在化しつつある皆の同一視や共感を求める意識に一歩踏みだす事の出来る、壁が取り払え易い空間になっていると感じる。しがらみを越えた人間関係の入り口や体験の場としてのスタイルとして何となく認知されている。
最近多く見かける、本当に生活を賭けた商売としてではなく、手作りの物などを売る既存の露店では、売り物それ自体以上に、顔を突っ込めばしがらみを脱したところでの実関係を楽しめる場として、一般の人に楽しみを与えている。見知らぬ店主や客と話したことこそが、客の充足に繋がっている。
物ならば、手作りのアクセサリーやポストカード自体、そういくつもいらない。固定ファンが着いているのは、店主の人柄や話、ポストカード等でも言葉を書く露店が圧倒的に多い。
やはり、言葉、認識を背景にしたその場での共感などが引力なのだと感じる。物に負けないきっかけ作りを工夫し、認識そのものを売り物に場を形成できれば、確かに、新たなみんな共認を生み出す入り口の場として、大いに役割を果たす可能性を持っていると思う。
柳瀬尚弘
>先日、初めてるいの異世代交流会に参加させてもらいましたが、新聞やテレビでは得ることのできない世代を超えた人の声を聞くことができ、またいろんな気づきを得ました。そして、こうした場で話し合われていることこそが広い社会の共認原理になると実感しました。
交流会に参加していると、人間って共認が大好きで、これこそが大きな突破口なんだなぁとつくづく思います。
知ってる人も知らない人も、老いも若きも、みんなが充足しているから、自分も充足している場。なんとも言えない、いい感じの空気が流れます。こう言うのを一度経験してしまうと、共認充足度に一切妥協できなくなって、更に更に…とより高い共認充足を追い求めてしまいます。
前以上の共認充足度を上げるにはどうすればいいのか?その為には何が足りないのか?何が必要なのか?と、普段は何にも考えないのに、共認充足のためだけには考えてしまっている。それほどに、人間って共認が大好きなんだなと思いました。
共認充足度が高い場では、一人でいる時にはどうしようもないなと思えるような問題でも、次から次へと考える事にチャレンジしてみたくなる。その場で答えを出せそうな気さえしてくる。不思議と、どんな問題でもなんにも難しくない。みんなも自分も、すっごい活力が出ているのがわかる。
序列原理から共認原理に移行した今、共認充足発から人は思考できるようになる気がします。
岡田理恵
交流会に参加していると、人間って共認が大好きで、これこそが大きな突破口なんだなぁとつくづく思います。
知ってる人も知らない人も、老いも若きも、みんなが充足しているから、自分も充足している場。なんとも言えない、いい感じの空気が流れます。こう言うのを一度経験してしまうと、共認充足度に一切妥協できなくなって、更に更に…とより高い共認充足を追い求めてしまいます。
前以上の共認充足度を上げるにはどうすればいいのか?その為には何が足りないのか?何が必要なのか?と、普段は何にも考えないのに、共認充足のためだけには考えてしまっている。それほどに、人間って共認が大好きなんだなと思いました。
共認充足度が高い場では、一人でいる時にはどうしようもないなと思えるような問題でも、次から次へと考える事にチャレンジしてみたくなる。その場で答えを出せそうな気さえしてくる。不思議と、どんな問題でもなんにも難しくない。みんなも自分も、すっごい活力が出ているのがわかる。
序列原理から共認原理に移行した今、共認充足発から人は思考できるようになる気がします。
岡田理恵
>いくら気軽でもポストカードとか詩とかじゃあやっぱやる気でない。 認識の露店にこんなにたくさんの人が可能性を感じるのは、やっぱりそれが「みんな期待に応える場」だから・・・。
>露店は非日常なものだと思っていたが、実際自分がやってみるとものすごく日常的なモノ・・・。
お二人の投稿からは、認識を語り合う行為が、本来なら如何に庶民的で日常的なものだったのかがよくわかります。
日常的な行動というのは、それが楽しければ楽しいほど‘習慣化’していくものだと思います。認識を語り合う習慣を定着させることは、実はたいへん重要な課題であるわりには、これまであまり話題に登ってこなかった論点かもしれません。
‘習慣化’という視点を前提にすると、露店に限らず、談話喫茶に近い常設店のようなイメージや、図書館や本屋の「本」を「人」に置き換えたようなイメージも浮上してきます。
幸い、やり取りされる認識が「何でだろう?」を基点にした構造認識である限り、『答え』に誘導されてさらなる『欠乏』が刺激され、もっと奥深くにある根底的な次の『答え』が欲しくなり追求が続いていきます。したがって、語られる内容面から見れば、継続性や習慣化の点には何の問題もありません。
だとすれば、そのような構造認識を語れるようになる(≒露店の店主を自力で続けていける)ようになるためにも、人が集まるだけではなく、最低でも週に1~2回はそこに来ることを習慣化させてくれるような場を、案外多くの人たちが待ち望んでいるのではないでしょうか。
土山惣一郎
>露店は非日常なものだと思っていたが、実際自分がやってみるとものすごく日常的なモノ・・・。
お二人の投稿からは、認識を語り合う行為が、本来なら如何に庶民的で日常的なものだったのかがよくわかります。
日常的な行動というのは、それが楽しければ楽しいほど‘習慣化’していくものだと思います。認識を語り合う習慣を定着させることは、実はたいへん重要な課題であるわりには、これまであまり話題に登ってこなかった論点かもしれません。
‘習慣化’という視点を前提にすると、露店に限らず、談話喫茶に近い常設店のようなイメージや、図書館や本屋の「本」を「人」に置き換えたようなイメージも浮上してきます。
幸い、やり取りされる認識が「何でだろう?」を基点にした構造認識である限り、『答え』に誘導されてさらなる『欠乏』が刺激され、もっと奥深くにある根底的な次の『答え』が欲しくなり追求が続いていきます。したがって、語られる内容面から見れば、継続性や習慣化の点には何の問題もありません。
だとすれば、そのような構造認識を語れるようになる(≒露店の店主を自力で続けていける)ようになるためにも、人が集まるだけではなく、最低でも週に1~2回はそこに来ることを習慣化させてくれるような場を、案外多くの人たちが待ち望んでいるのではないでしょうか。
土山惣一郎
史論版の進化論で議論されているが、共認の元には共感があり、共感の元には同一視がある。
一方で統合版では、現代はマスコミが共認を支配していると議論されている。しかし、ふと考えるとマスコミ、あるいはそこから発信される観念を作っている学者や官僚が、大衆を同一視しているのだろうか。寧ろ一段高い所にいると感じているのが大衆の実感ではないだろうか。
そう考えるとマスコミの流す内容を大衆が本当に共認していると言えるのか疑問に感じる。寧ろ共認という言葉を使うのは不適切で、共認もどきの洗脳と言っても良いように思える。
社会の統合原理が共認原理に転換しようとしているが、マスコミに支配されている現代は、寧ろ共認原理もどきであり、真の共認原理への過渡的段階にあるのかもしれない。
マスコミの一方的な発信内容に何となく共感した気になる次元ではなく、同じ地平にいるという同一視が前提にあってこそ、真の共認原理への転換を成し得るように思う。
石橋直樹
一方で統合版では、現代はマスコミが共認を支配していると議論されている。しかし、ふと考えるとマスコミ、あるいはそこから発信される観念を作っている学者や官僚が、大衆を同一視しているのだろうか。寧ろ一段高い所にいると感じているのが大衆の実感ではないだろうか。
そう考えるとマスコミの流す内容を大衆が本当に共認していると言えるのか疑問に感じる。寧ろ共認という言葉を使うのは不適切で、共認もどきの洗脳と言っても良いように思える。
社会の統合原理が共認原理に転換しようとしているが、マスコミに支配されている現代は、寧ろ共認原理もどきであり、真の共認原理への過渡的段階にあるのかもしれない。
マスコミの一方的な発信内容に何となく共感した気になる次元ではなく、同じ地平にいるという同一視が前提にあってこそ、真の共認原理への転換を成し得るように思う。
石橋直樹
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