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>ところで「認識形成の場に参加する」という副業は、やっているうちにだんだん専業との境目がなくなってきます。
なんでや劇場で「みんな期待に対する答えを出すという役割を皆で担うべきである」というようなことが言われていました。つまり、社会統合・共認形成は皆で担うべき課題だと思います。
一方で、我々は家庭や学校、企業等の様々な集団に属しており、そこでも一定の課題や役割を担っていますが、こちらの方は実際うまく機能していないというのが、多くの方の想いではないでしょうか。ですから、フリーターや若者の離職が進むこと=脱集団という現象も納得ができるところです。
しかし、やりたいことと違う、やりたいことが見つからない等の思い込みや、私権的体質の組織が合わないという不可能視だけで集団を飛び出すことが、本来の役割=みんな期待に答えることなのでしょうか?
結局は、既存集団と社会が繋がっていない=断絶していると思い込んでいる(不可能視している)だけではないでしょうか。
>主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
「共認機能を持っている人類はみんなを羅針盤として統合されている」とすれば、みんな期待に応えることは、今まで現実だと思い込んできたもの(家庭や学校、企業等の様々な集団)全てが社会(本来の現実)に繋がっているはずであり、社会統合という共認形成の場は全ての集団を包摂することに繋がるはずです。
多くの方は薄々は気付いている(潜在思念にある)はずです。不可能視だのなんだのという勝手な思い込みは捨てて、一緒に共認形成の場に参加し、本来の役割を担っていきませんか。
村田頼哉
なんでや劇場で「みんな期待に対する答えを出すという役割を皆で担うべきである」というようなことが言われていました。つまり、社会統合・共認形成は皆で担うべき課題だと思います。
一方で、我々は家庭や学校、企業等の様々な集団に属しており、そこでも一定の課題や役割を担っていますが、こちらの方は実際うまく機能していないというのが、多くの方の想いではないでしょうか。ですから、フリーターや若者の離職が進むこと=脱集団という現象も納得ができるところです。
しかし、やりたいことと違う、やりたいことが見つからない等の思い込みや、私権的体質の組織が合わないという不可能視だけで集団を飛び出すことが、本来の役割=みんな期待に答えることなのでしょうか?
結局は、既存集団と社会が繋がっていない=断絶していると思い込んでいる(不可能視している)だけではないでしょうか。
>主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
「共認機能を持っている人類はみんなを羅針盤として統合されている」とすれば、みんな期待に応えることは、今まで現実だと思い込んできたもの(家庭や学校、企業等の様々な集団)全てが社会(本来の現実)に繋がっているはずであり、社会統合という共認形成の場は全ての集団を包摂することに繋がるはずです。
多くの方は薄々は気付いている(潜在思念にある)はずです。不可能視だのなんだのという勝手な思い込みは捨てて、一緒に共認形成の場に参加し、本来の役割を担っていきませんか。
村田頼哉
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ノレン分けされて間もないという学生が、ひとりで切り盛りしている露店。何気に立ち寄って、おもしろい場面に遭遇した。
阪神間といわれるその辺りではよくみられる、いかにもキチンとした主婦然の40代半ばの女性が、息子ほど年の離れた店主(大学4回生)にすがるように聞いていた。
「じゃあ、わたしはこれからどうしていったらいいの?」
店主はすかさず、答えていた。
「おばちゃんなぁ、俺が今ここで、それに答えられたら、総理大臣になってるわ~。これからどうしたらええか、すぐに誰も答えられへんから、みんなで考えていこうって言うてんねん。それがこの場やねんから。」
聞きながら、思わず吹き出しそうになった。その女性の不全の中身は、親の言うことを聞かない息子と、それに対し何の興味も示さない父親(夫)、その間に立ってどうすればいいかわからない母親(妻)としての自分のありかた。そのへんの個人的悩みから発しているようだった。
店主のスタンスは明快で、個人的悩みには興味はないが、一緒に答えをみつけていこうというスタンスに立てるのであれば、いつでも露店に立ち寄ってほしい、できたら露店仲間になってほしい、でも、そのスタンスに立てない=一方的に答えを欲するだけであれば、どうか速やかにお引取り願いたい―。
そのようなメッセージがその女性にどれほど正確に伝わったかは、いささか疑問だが、迎合しない彼の姿勢は、それだけでひとを引きつける力を放っており、気安く「おばちゃん」と呼びかけられ続けた女性も、なぜかうれしそうに帰っていった。
そのあとも、彼と露店に立ち寄るひとたちとのやりとりを横目で眺めながら、わたしはあることに気がついた。
結局、店主も、客も、ファンも、周りを囲むギャラリーも、露店に集う人々の思いは、「統合したい」という一点につきるのではないか。それは自分自身の意識を統合したい、というのでもあるだろうし、さまざまな社会事象を統合したい、というのでもあるだろうし、もちろん社会全体を統合したい、というのもあるだろう。それらどのレベルをも貫き通すこたえ・認識・言葉を見つけ統合していきたいー。自分でも気づかないほどの猛烈な統合欠乏が一気に生起したのは、露店主を始めて、すでに数ヶ月が経過した、他ならぬ私自身だった。
若い店主は、ひとつひとつのお題に対する確信的な答えは何一つ持っていないだろう。ただ、彼は露店=路上で、行き交うひとびととともに答えを探索するという行為・過程が、もっともリアリティのある統合への道=世直しだということを深いところで確信しているのだと思う。だからこそ、場を提供しつづけ、にもかかわらず客の一方的な要求には一切妥協しない姿勢を貫き通すのだと思う。
>私自身、新しい言葉・認識の必要性を強く感じているし、欲している。しかし、それは明日・明後日、そんなすぐに生み出せるものではないと思う。けれど、実現不可能視=甘えの不可能視を捨てることが実現への第一歩であると感じる。
精度の高い、ゆらぎのない統合感を獲得するためには、甘えや妥協・迎合を一切排除した共認運動が不可欠で、そういう意味では露店やなんでや劇場は、ひとびとの「統合の場」であることが予め運命づけられているのだ、と思った。
阿部佳容子
阪神間といわれるその辺りではよくみられる、いかにもキチンとした主婦然の40代半ばの女性が、息子ほど年の離れた店主(大学4回生)にすがるように聞いていた。
「じゃあ、わたしはこれからどうしていったらいいの?」
店主はすかさず、答えていた。
「おばちゃんなぁ、俺が今ここで、それに答えられたら、総理大臣になってるわ~。これからどうしたらええか、すぐに誰も答えられへんから、みんなで考えていこうって言うてんねん。それがこの場やねんから。」
聞きながら、思わず吹き出しそうになった。その女性の不全の中身は、親の言うことを聞かない息子と、それに対し何の興味も示さない父親(夫)、その間に立ってどうすればいいかわからない母親(妻)としての自分のありかた。そのへんの個人的悩みから発しているようだった。
店主のスタンスは明快で、個人的悩みには興味はないが、一緒に答えをみつけていこうというスタンスに立てるのであれば、いつでも露店に立ち寄ってほしい、できたら露店仲間になってほしい、でも、そのスタンスに立てない=一方的に答えを欲するだけであれば、どうか速やかにお引取り願いたい―。
そのようなメッセージがその女性にどれほど正確に伝わったかは、いささか疑問だが、迎合しない彼の姿勢は、それだけでひとを引きつける力を放っており、気安く「おばちゃん」と呼びかけられ続けた女性も、なぜかうれしそうに帰っていった。
そのあとも、彼と露店に立ち寄るひとたちとのやりとりを横目で眺めながら、わたしはあることに気がついた。
結局、店主も、客も、ファンも、周りを囲むギャラリーも、露店に集う人々の思いは、「統合したい」という一点につきるのではないか。それは自分自身の意識を統合したい、というのでもあるだろうし、さまざまな社会事象を統合したい、というのでもあるだろうし、もちろん社会全体を統合したい、というのもあるだろう。それらどのレベルをも貫き通すこたえ・認識・言葉を見つけ統合していきたいー。自分でも気づかないほどの猛烈な統合欠乏が一気に生起したのは、露店主を始めて、すでに数ヶ月が経過した、他ならぬ私自身だった。
若い店主は、ひとつひとつのお題に対する確信的な答えは何一つ持っていないだろう。ただ、彼は露店=路上で、行き交うひとびととともに答えを探索するという行為・過程が、もっともリアリティのある統合への道=世直しだということを深いところで確信しているのだと思う。だからこそ、場を提供しつづけ、にもかかわらず客の一方的な要求には一切妥協しない姿勢を貫き通すのだと思う。
>私自身、新しい言葉・認識の必要性を強く感じているし、欲している。しかし、それは明日・明後日、そんなすぐに生み出せるものではないと思う。けれど、実現不可能視=甘えの不可能視を捨てることが実現への第一歩であると感じる。
精度の高い、ゆらぎのない統合感を獲得するためには、甘えや妥協・迎合を一切排除した共認運動が不可欠で、そういう意味では露店やなんでや劇場は、ひとびとの「統合の場」であることが予め運命づけられているのだ、と思った。
阿部佳容子
>当事者欠乏までいくには、「考えよう、広めていこう」ってことが必要不可欠だと思います。その点では、なんで屋をやっている理由(世直し⇒共認形成)を話すのが一番ですね。
なんで屋の店構えを見ただけで、「世直し⇒共認形成の場」と見てくれる世代が存在します。
先日、70歳代の方となんで屋露店と勉強店にご一緒しました。その方は、露天を見るなり、「ティーチイン(街頭討論会)と同じだ、1950年代には、何時も、皆で、路上で議論していた、それを思い出した。」と。
まだ、敗戦後の混乱が残り、米ソ対立から朝鮮戦争が始まる年代、そして、まだテレビが登場する前の時代である。
人々は、貧困ではあったが、社会をどうするという事には、共通の関心と議論を経ての『答え』を求めていた。そして、その議論(共認形成)の場は、まさに、路上であった事は、新鮮なオドロキでした。
まだ、テレビが登場せず、ラジオ番組で街頭主張(占領軍からの「国民の主張を促進したい」との意図はありますが)を集めて放送する試みも行われ、今よりは、ずっと人々にとって、メディアも開かれていた。
路上で、答えを求めて、普通の人々が認識を生成しようとし、ラジオがその一役を担う、そんな時代があった。
その後、所得倍増計画を契機とし、豊かさ追求に邁進し、路上から討論が消滅していく。
今、豊かになったが、目標、方向性を失い、社会に閉塞感が蔓延している時、改めて、「答えを求める場」、「皆が、飼いならされたしがらみを離れて、出会える場が、路上なのだ」とその方と共に確認しました。
村田貞雄
なんで屋の店構えを見ただけで、「世直し⇒共認形成の場」と見てくれる世代が存在します。
先日、70歳代の方となんで屋露店と勉強店にご一緒しました。その方は、露天を見るなり、「ティーチイン(街頭討論会)と同じだ、1950年代には、何時も、皆で、路上で議論していた、それを思い出した。」と。
まだ、敗戦後の混乱が残り、米ソ対立から朝鮮戦争が始まる年代、そして、まだテレビが登場する前の時代である。
人々は、貧困ではあったが、社会をどうするという事には、共通の関心と議論を経ての『答え』を求めていた。そして、その議論(共認形成)の場は、まさに、路上であった事は、新鮮なオドロキでした。
まだ、テレビが登場せず、ラジオ番組で街頭主張(占領軍からの「国民の主張を促進したい」との意図はありますが)を集めて放送する試みも行われ、今よりは、ずっと人々にとって、メディアも開かれていた。
路上で、答えを求めて、普通の人々が認識を生成しようとし、ラジオがその一役を担う、そんな時代があった。
その後、所得倍増計画を契機とし、豊かさ追求に邁進し、路上から討論が消滅していく。
今、豊かになったが、目標、方向性を失い、社会に閉塞感が蔓延している時、改めて、「答えを求める場」、「皆が、飼いならされたしがらみを離れて、出会える場が、路上なのだ」とその方と共に確認しました。
村田貞雄
環境保護や人権擁護を唱える人は、“みんなの役に立つ”ためにさまざまな活動をしている・・・といえば大方の人は納得するところかもしれません。が、現実は消費拡大による環境破壊はとどまる気配を見せませんし、“加害者にも人権がある”という主張の一方では被害者の人権が省みられないという矛盾だらけの主張合戦に陥っているのが現状です。
“みんな・・・”と言えば言うほど、狭い視野(=一部の損得)に嵌っていってしまう。そんな倒錯が生まれる背景には自由・個人・人権などの旧観念とその発信を生業とするマスコミや学者の存在があります。
「すべての個人は自由であり基本的人権が保障される」といえば「世の中の“みんな”」を等しく対象化しているような気にさせられますが、「私権獲得の自由をお互い認め合いましょう」という事の本質に気付けば、これら旧観念に基づく発想はことごとく“みんな”と正反対の“私”に立った意識であることに気付きます。
いくら“みんなの役に立つ”ことを思っていても、一向に変わる気がしないのは、このような旧観念が人々の思考や意識の変化に大きなブレーキをかけているからだと思います。
とすれば“みんなの役に立つ”ための第一歩は旧観念が孕んでいる問題にメスをいれ、それに代わる認識(みんなが認める事実に立脚した事実観念)を追求し、共有し、広めてゆくことになります。しかもマスコミや学者に代わり、私たち自身の手で・・・
「みんなが認める事実なんてあるはずがない」と追求を端から諦めて不可能視に囚われている限り、現実(世の中)は変わりません。私権や序列の束縛から脱し、人との共感に可能性を感じ始めた人たちの手で事実を追求して広めてゆくこと。これこそ“みんなの役に立つ”活動であり、いまだかつてなかった“世直し”活動になるのだと思います。
阿部和雄
“みんな・・・”と言えば言うほど、狭い視野(=一部の損得)に嵌っていってしまう。そんな倒錯が生まれる背景には自由・個人・人権などの旧観念とその発信を生業とするマスコミや学者の存在があります。
「すべての個人は自由であり基本的人権が保障される」といえば「世の中の“みんな”」を等しく対象化しているような気にさせられますが、「私権獲得の自由をお互い認め合いましょう」という事の本質に気付けば、これら旧観念に基づく発想はことごとく“みんな”と正反対の“私”に立った意識であることに気付きます。
いくら“みんなの役に立つ”ことを思っていても、一向に変わる気がしないのは、このような旧観念が人々の思考や意識の変化に大きなブレーキをかけているからだと思います。
とすれば“みんなの役に立つ”ための第一歩は旧観念が孕んでいる問題にメスをいれ、それに代わる認識(みんなが認める事実に立脚した事実観念)を追求し、共有し、広めてゆくことになります。しかもマスコミや学者に代わり、私たち自身の手で・・・
「みんなが認める事実なんてあるはずがない」と追求を端から諦めて不可能視に囚われている限り、現実(世の中)は変わりません。私権や序列の束縛から脱し、人との共感に可能性を感じ始めた人たちの手で事実を追求して広めてゆくこと。これこそ“みんなの役に立つ”活動であり、いまだかつてなかった“世直し”活動になるのだと思います。
阿部和雄
「何となく」「とりあえず」「行き当たりばったり」「その場しのぎ」「まあ何とかなるかな」思い返せばいつもそんなふうだった。深くまでとことん追求することなんてなかった。
うまくいかなくても「誰かが何とかしてくれる」「まいっか」「笑ってごまかす」何も考えずに「次は頑張ろう・・・」。でも現実は何も変わっていかない。また行き詰まり、またごまかす。そして、自分には無理だと卑屈になったりする。
自分だけで何とかしなきゃいけない、という意識は薄れてきていて、不安も素直にさらけ出せるという意味では、可能性は開けてきたとは思う。しかし、単なる「その場しのぎ」の『無難志向』や「他人まかせ」の『依存志向』に留まっていては、まだまだ傍観者の域を出ないし、それでは真っ当な期待応望関係は築けない。
今成すべき課題はいったい何なのか。それが曖昧なままでは、新しい可能性として提起された「なんでや露店」の場でさえ、『無難志向』『依存志向』にズリ落ちる。
>世直しのための共認形成の場を広げていく、という課題共認が必要
でも、課題共認さえしっかりできれば、『無難志向』では済まされないことにも、「分かってほしい」とか「どにかしてほしい」といった『依存志向』は全く無用だということにも容易に気付ける。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
>甘えてはいけない。認識形成は、遊びではない。それは生産活動であり、闘いなのだ。
>世の大半の人々は、支配共認に絡め取られて思考停止しており、そうである以上、思考停止の壁を突き破るためには、こちらから共認闘争を仕掛ける必要がある。
『無難』や『依存』はもうやめて、今成すべき『人類的課題』から目を背けずに立ち向かっていこう。そこからこそ本当の期待応望関係が見えてくる。これまでも言葉では理解してきたつもりでいたけど、あらためて、身が引き締まる思いがした。そして自らが『活力源=圧力源』となり、共認闘争を仕掛けていくことで、思考停止の壁を突き破っていこう。
浅田祥幸
うまくいかなくても「誰かが何とかしてくれる」「まいっか」「笑ってごまかす」何も考えずに「次は頑張ろう・・・」。でも現実は何も変わっていかない。また行き詰まり、またごまかす。そして、自分には無理だと卑屈になったりする。
自分だけで何とかしなきゃいけない、という意識は薄れてきていて、不安も素直にさらけ出せるという意味では、可能性は開けてきたとは思う。しかし、単なる「その場しのぎ」の『無難志向』や「他人まかせ」の『依存志向』に留まっていては、まだまだ傍観者の域を出ないし、それでは真っ当な期待応望関係は築けない。
今成すべき課題はいったい何なのか。それが曖昧なままでは、新しい可能性として提起された「なんでや露店」の場でさえ、『無難志向』『依存志向』にズリ落ちる。
>世直しのための共認形成の場を広げていく、という課題共認が必要
でも、課題共認さえしっかりできれば、『無難志向』では済まされないことにも、「分かってほしい」とか「どにかしてほしい」といった『依存志向』は全く無用だということにも容易に気付ける。
>人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争(=新たな同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。
>甘えてはいけない。認識形成は、遊びではない。それは生産活動であり、闘いなのだ。
>世の大半の人々は、支配共認に絡め取られて思考停止しており、そうである以上、思考停止の壁を突き破るためには、こちらから共認闘争を仕掛ける必要がある。
『無難』や『依存』はもうやめて、今成すべき『人類的課題』から目を背けずに立ち向かっていこう。そこからこそ本当の期待応望関係が見えてくる。これまでも言葉では理解してきたつもりでいたけど、あらためて、身が引き締まる思いがした。そして自らが『活力源=圧力源』となり、共認闘争を仕掛けていくことで、思考停止の壁を突き破っていこう。
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