忍者ブログ
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

改めて考えてみれば、’90年頃にいじめが深刻化したのも、’96年頃に性が急速に衰弱したのも、’02年頃に遊び第一が瓦解したのも、全ては、収束不全発の適応可能性(=みんな共認の可能性)への収束に起因する。そして又、充足基調から探索基調への移行も、収束不全発の可能性収束が生み出した必然である。

可能性探索は、今回も
イ:’70年頃にまず解脱収束に向かったが、旧観念に意識を侵され、かつ旧体制に出口を塞がれているので、解脱充足し切れないし、収束不全の答えにはならない。
ロ:そこで、’90年頃、旧観念・旧体制を捨象して、仲間内で(みんな共認)の充足基調に収束した。しかし、社会は旧観念・旧体制の共認で覆われているので、仲間内の充足基調だけでは、収束不全を解消できない(=答えにならない)。
ハ:こうして、’02年頃、私権活力の衰弱の果てに遂に私権観念(自分だけ。社会のことなど関係ないという観念)が瓦解し、頭の上の重石が取れたことによって、真っ直ぐに社会共認の可能性収束先を探索する探索基調に転換した。

社会共認の収束先を探索すれば、改めて旧観念・旧体制を対象化せざるを得ないが、その際、ロの旧観念・旧体制捨象(云わば捨象基調)が足かせとなり、現在はロとハの間で逡巡している状態にある。
しかし、新世代は、はっきり捨象基調から探索基調に移行して、とりあえず勉強(⇒仕事)収束を強めている。しかも、資格や授業は、やりたい事が見つからないが故の、とりあえずの収束先で、その奥にはニッチの可能性を探索する仕事収束の潮流が形成されつつある。

しかし、人類の最大のニッチは、新理論を切り拓く所にある。今、みんなが直面しているのが、統合不在ゆえの収束不全である以上、みんなの可能性探索が、みんな共認収束を経て新理論の構築に収束するのは、必然である。現に、仲間内でのマジ話も、普通のことになってきた。今や、誰もが答えを求めている。

これら仕事収束や認識収束を生み出した源泉こそ、収束不全発の探索基調に他ならない。換言すれば、’02年の収束不全発の探索基調の生起こそ、(仕事収束や認識収束として顕示されつつある様に)まぎれもなく社会の当事者の誕生を告げるものである。
現在、共認形成の場を支配しているテレビ(それは元々、傍観者を代償充足させる為に作られてきた)が、「面白くない」物に成り下がったのも、この収束不全発の探索引力の故(テレビは当事者欠乏を充たすことが出来ないから)であり、深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。

岡田淳三郎
PR
>実際に使ってみて、現実を切ってみて、確かに使える道具だと納得できることが第一段階ではないだろうか。現実のみんなの役に立って、初めてこの道具の切れ味が分かる。もっと役に立つ道具を身につけたいという勉強意欲も生まれてくるのではないだろうか。

道具は、使い方が分からないとその価値は理解できません。ある人がその道具の使い方を知らなかったら、その道具はその人にとっては単なるガラクタです。

そして道具というものは、必要に迫られて実際に使われて初めて意味があるものであって、使われない道具は物置で埃をかぶるだけで何の役にも立ちません。

閉塞感が高まっている現在、現実にまっとうに対応しようとしている人は誰しも、状況をはっきり見通したいと思っているのではないでしょうか。もしそれを容易にする道具があるなら、それを手に入れたいと思うはずです。

しかし残念ながら、そのような道具に対する欠乏にもかなりの温度差がありそうです。

>■ 旧観念は絶対、だから「なんでだろう?」を全的に受け入れない。例えば「自由」「平等」といった言葉はそれ時点で絶対であり、進化しない。永久にそのまま。「自由といったら自由!」「平等といったら平等!」の世界。あい矛盾する観念もそのまま許容。論理整合性もない。

自分に都合のいい幻想に浸ったままでいたい人。自我に都合のよい価値観を温存したい人。認識という道具は、時には自らの意識も対象として自己欺瞞まで暴いてしまう。それが正視できない人は、道具を遠ざけようとするかもしれません(拒絶反応・否定)。

また、与えられるのを待つだけで、自分から周りに与えようとしない消費者体質の人。既存の枠組みの中に無難に埋没している人。楽しければいい、で考えようとしない人。これも、道具の価値を知ることから遠い人たちなのかもしれません(たいていが「おもしろい」とは言ってくれるが、傍観者的に「ふ~ん、がんばってね」で終わる)。

でも、現実の圧力の中で状況を見通す必要性を強く感じている人などの、みんな期待に応えるやりがいを求める若者たちは、その道具の使い方と効用さえ理解できれば、それをのどから手が出るほど欲しがるに違いありません。

それ(道具=構造認識)を必要とする人に(優先的に)、使用方法と効用を伝え、その道具を受け渡していく…。そのための場が「なんでや露店」なのだと思います。

そして、それを現実の中で使い始めると、あらゆる局面でその効用が実感でき、ますます勉強したくなるのがこの道具(=構造認識)の特徴です。さらに、それが「不可能視」を超え、現実を変える主体にまで転換させる…。そこまでの力がどうやらこの「なんでや露店」にはあるようです。友人たちと先日露店を出して、それをつくづく実感しました。

 
>「解脱より闘争・仕事」へというパラダイム転換をあと一歩推し進め「とりあえず勉強」というブナンなor待ちの仕事姿勢から「新理論=本物の勉強」という攻めの仕事姿勢へと転換させるには・・・。>
確かにこれは難問です。
それを考えていくうえで、「今、若者にとって“仕事”とは?(私権的でないことはわかるが)」という視点から考えてみたい。

序列原理のみんな不全から、みんな不全が喪失した30年を経て、今、共認原理の『新みんな不全』が、曖昧な姿ながらも”やりたいこと欠乏”などの現象を通じて顕在しだしている。
この新しい不全は、社会不全(みんな不全)でありながら個人や集団を越えたところの外部世界を把握しようとしても出来ないが故の不全であり、答えどころか課題さえも見えなくて全く可能性が見えないことからくる統合不全である。
だから、例えば“仲間との充足”は得ていると言う若者達にとっても、潜在的には社会共認の収束先が見つからずに統合不全を起こしており、もはやそれだけでは“活力”が生じず、(遊び→)解脱でも解消されない状況になりつつある。
状況認識として、若者は、温度差を含みながらも社会共認に収束できる”可能性のある課題⇒答えを欠乏”していることは間違い無いだろう。

一方、“仕事”とは基本的に課題に対して何であれ“答え圧力”が働く場である(旧観念でメシを喰っている学者や役人は別だが、普通の企業であれば何であれ課題を突破する答えを出していかなければ潰れるのだから)。その意味で、「仕事収束⇒答え欠乏』の構造は存在するだろう。
でも残念ながら今社会にある“仕事”は、“私権でバラバラにされた職業”の枠の中から選択することで行われ、新みんな不全(統合不全)を充たす仕事になっていない。
でもそのままでは統合不全を抱えたままで活力は衰弱する一方なので、何とかしたいという欠乏は高まっていく。
>彼らの、「やりたいこと欠乏」は、「課題欠乏=仕事欠乏(闘争欠乏)」へと直結しているのだと思う。しかし、まだ、彼らは、みんなの期待を対象化し、それを、課題化=仕事化することができないでいる。>
この状況の中で、“課題⇒答え欠乏”はドンドン高まり蓄積されていき、”課題も答えも出せない旧観念に対して違和感だけでなく不信感”が顕在していくだろう。

とすれば、”答え欠乏”に繋げる”課題⇒仕事”共認の中身の問題がまず重要になってくる。
>但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。>
まず、私権の同類闘争圧力から期待応望の同類圧力に転換(序列原理から共認原理へ)した事実を共認すること。
そして、その事実認識を基盤に今こそ“仕事”の捉え方を明確に変えて共認していかなければならないと思う。
今、“仕事”とは、『皆の役に立って評価され同類圧力を創造する活動』。
>圧力をデザインする事で、活力を生み出す時代>
そして、
>単なる興味本位で聞いて来るお客さんよりも、現実の課題や選択に迫られて聞いて来るお客さんの方が本物だと思う(例え、それが個人的な課題や選択であったとしても)。その本物の課題意識に対して答えを出せば、相手と認識の有効性⇒勉強の必要を共認できるだろう。これからは、お客さんの現実の課題意識に答えを出せる「なんでも屋」になろうと思う。>

『答えを出せない旧観念を”許容”していることこそ閉塞の元凶』と『仕事における新理論の有効性を示す答えを提示する』、この両面を共認していくことが『社会不全⇒課題収束(⇒仕事収束)⇒答え欠乏』の状況のなかから、『⇒新理論の勉強の必要へ』繋げるうえで求められているのだと思います。
そして、そこから新たなみんな期待に応える創造の同類圧力が形成されていくのだろう。

麻丘東出
> 30代独身サラリーマンの手取りと、未婚の母となった10代無職の女子に払われる補助金がほぼ同額であると知ったら果たしてやる気が出るでしょうか。<

「働いたらお金がもらえなくなるから働かない。」これでは、働かないことを国が奨励しているのと同じであって、活力が上がるわけがありません。

この状況は日本も似たようなもので、生活保護、年金、老人医療費、大学に対する補助金、専業主婦に対する税制優遇等々、老人、福祉受給者、学生、主婦といった働かない人への支援金が増大し、国の借金が雪だるま式に増えています。

’70年に貧困の圧力を克服した以上、飢えて死ぬようなことはあり得ないのだから、政府がやるべき事は、働かない人を支援することなんかじゃなく、新しい仕事を作り出すことであり、本当に必要とされていることをしている人やグループを資金的に支援することなんだと思います。

必要なことをボランティアとしてやっているNPOとか、重要であることは共認されているにも関わらず収入が少ないために担い手不足の農業とか、いくらでも有効な支援先はあります。

そしてなによりも、認識形成の場作りこそ本当に必要とされていることであり、そのような活動をしている人達を支援することが、時代の閉塞感を吹き飛ばし、活力のある社会を作り出すのだと確信しています。


> 社会は、人々の共認によって形成されている。実際、この社会を動かしているのも、この社会を統合しているのも、全ては人々の共認に依っている。従って、社会を統合し直すために最も重要なのは、人々の共認内容=認識を変革し、新たな共認内容を形成してゆくことである。
なぜなら、共認こそ人類の命綱であり、その共認内容は人類の命運を左右する(例えば、共認内容を誤れば人類は滅亡する)ものだからである。また、人々の認識さえ変えることが出来れば、それに応じて社会制度や体制を変えるのは簡単だからである。要するに、認識形成こそ、社会形成の生命部なのである。

従って、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、求められる真の社会活動となる。実際、大衆自身の手で社会の生命部を成す共認を形成してゆく活動であるという点でも、誰に要求するのでもなく自らの手で新しい社会統合機構を構築してゆく活動であるという点でも、これこそが、真の社会活動であり、それをおいて他に真に有効な実践活動はない。<

松尾茂実
>人々は、’60年以前から豊かさ追求・解脱追求に埋没し、過半の人は「自分だけ」「お金だけ」という私権観念によって思想を捨象or忌避していた。とは云え、貧困と抑圧が残存する限り、一方で思想は輝きを放っていた。

>´70年、貧困が消滅した途端に、思想は輝きを失い、無思想・無関心が蔓延していった。思想の終焉である。そして、思想の終焉と共に、運動は閉塞していった(ex.´70年以降の社・共の凋落は、誰の目にも明らか)。

>人々が観念思考を敬遠する様になったのは、知識人によって与えられた構造観念が無効or誤りであることを、人々が(’70年以降)嗅ぎ取ってきたからである。他方、本源充足の可能性が開かれた事によって、代償物にすぎない感応観念は無用の物となって捨て去られた。

先日のなんでや劇場「マスコミが第一権力化したのは、なんで?」に参加して、新たな気づきを得ました。「'70年以降、30年に亙って普通の人は無思想・無関心を続けているが、それは必ずしも思考停止してきたわけではない。とりわけ、若者は、潜在思念(本能機能や共認機能)に立脚して、仲間第一や役に立ちたい欠乏を生み出してきたのではないか」という点です。私も、庶民の無思想・無関心=思考停止であると捉えてきましたが、それは間違いで、実は、新しい可能性の模索過程であったというのが、一番の気づきでした。

加えて「庶民が、30年以上も前に旧観念を投げ捨てたということ、あるいは若者が実感=潜在思念に立脚して新しい方向を模索してきたということ、一方、旧観念にしがみついている学者やマスコミは、未だに何の答えも出せていないということ。これらの事象が指し示すことは、旧観念を全て捨てて、実感=潜在思念に立脚して物を考えていくことによって初めて、新しい答え=理論が生み出されるということではないか」という点。

これまで、学者やマスコミは、旧観念が見捨てられた原因を追求しないどころか、逆に、それを投げ捨てた庶民を、「国民の社会意識が低い」として、一方的に批判してきました。しかし、これは、問題のスリ替えであり、ペテンであることがはっきりとわかりました。また、庶民の無思想・無関心が、実は思考停止ではなく、旧観念を投げ捨て、潜在思念に立脚して新しい方向を模索していることの表れであることがわかって、共認運動の可能性がより強く実感できました。

冨田彰男 
[120]  [121]  [122]  [123]  [124]  [125]  [126]  [127]  [128]  [129]  [130
ランキング
にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ
お勧めサイトランキングへ
カウンター
カレンダー
02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
カテゴリー
最新コメント
[04/03 神崎]
[11/18 埼玉新聞読者]
[11/18 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
[11/12 所沢市の債務残高は1000億円]
バーコード
ブログ内検索
P R
Admin / Write
忍者ブログ [PR]