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> 我々は、これまでの人類史で当たり前に行われてきながら、近代以降忘れ去られていた口伝=人を媒体とした認識の伝承と言う「共認媒体」のありようを、全く新しいスタイルで生み出すことが出来ました。
最近の投稿を見ていて、共認運動とは一体何なのか?という点がより明確になりつつあるように思う。
1970年代、貧困の消滅により、社会の統合原理は序列原理から共認原理へと移行し、人々が自由に共認を形成することが可能な時代になった。
しかし共認形成の場を牛耳ってきたのはマスコミであり、社会不全が増大する中、人々は違和感を感じつつもその共認支配からどう脱すればいいのか答えが見えない、それこそがこの30年間高まり続けた閉塞感の正体であったように思う。
その閉塞感に対する答えが鮮明に見えてきた。
それは、要するに、「万人が(社会共認を形成する)媒体になること」なのではないか。
社会的活動が増えてきたのも、カリスマ店員が人気なのも、携帯電話を持って一日中メールしているのも、インターネットが爆発的に普及したのも、顔文字やギャル文字が流行ったのも、自分たちでカフェをオープンして人を集めたいと思うのも、実は心の奥底で社会共認を形成する当事者になりたい、媒体になりたいという欠乏の表れだったのではないだろうか。
誰もが時代の流れ、社会の行方、みんなの意識を知りたがっている。それを知る媒体は長い間マスコミだと思わされてきた。しかし、もほや人々の最先端の欠乏の中身は、自ら媒体になる、という段階にまで進んでいる。
万人が媒体となればマスコミなど不要になる。社会も変えられる。共認革命とは媒体革命でもあったのだ。
阪本剛
最近の投稿を見ていて、共認運動とは一体何なのか?という点がより明確になりつつあるように思う。
1970年代、貧困の消滅により、社会の統合原理は序列原理から共認原理へと移行し、人々が自由に共認を形成することが可能な時代になった。
しかし共認形成の場を牛耳ってきたのはマスコミであり、社会不全が増大する中、人々は違和感を感じつつもその共認支配からどう脱すればいいのか答えが見えない、それこそがこの30年間高まり続けた閉塞感の正体であったように思う。
その閉塞感に対する答えが鮮明に見えてきた。
それは、要するに、「万人が(社会共認を形成する)媒体になること」なのではないか。
社会的活動が増えてきたのも、カリスマ店員が人気なのも、携帯電話を持って一日中メールしているのも、インターネットが爆発的に普及したのも、顔文字やギャル文字が流行ったのも、自分たちでカフェをオープンして人を集めたいと思うのも、実は心の奥底で社会共認を形成する当事者になりたい、媒体になりたいという欠乏の表れだったのではないだろうか。
誰もが時代の流れ、社会の行方、みんなの意識を知りたがっている。それを知る媒体は長い間マスコミだと思わされてきた。しかし、もほや人々の最先端の欠乏の中身は、自ら媒体になる、という段階にまで進んでいる。
万人が媒体となればマスコミなど不要になる。社会も変えられる。共認革命とは媒体革命でもあったのだ。
阪本剛
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人類は共認を命綱として生き、進化してきました。したがって意識の共有、認識の伝達のために様々な“媒体”を生み出し高度化してきました。
古くは文字の発明に始まりそれを書きとどめた本。それを素材に知識や認識を伝えるための学校や塾。さらに新聞、ラジオ、テレビなどのマスコミ。そして携帯、ネットなど双方向の通信ツール。すべて共認形成のための媒体です。
そして'70年、序列から共認へと社会の統合原理が大転換して以降、これら“媒体”への期待と役割は年々大きくなってきています。生活費の大半が“媒体”のために使われている現状は、共認原理の時代であることを端的に示しています。しかし、いざその中身に目を向けると、性幻想や観念充足ばかりを煽り立てるマスコミがその首座を占め、伸張著しいネット世界も個的な充足のためのおしゃべり空間、というのが実態です。
実は文明社会が生まれるはるか前から、人々が共有した認識は“伝承”されてきました。自然界の理、人と自然、人と人のかかわりなどの認識群(構造認識)が人を媒体とし、日常の中で、大人も子供も世代を超え、世代を繋いで語り継がれてきたのです。
現在のようなその場限りその時限りのものでなく、現実の課題に答えるために必要だからこそ幾世代にも渡り伝承され、時代の変化とともに練り上げられてきた構造認識。今私たちは露店活動を通じて、人(場)を媒体とした認識の伝承という共認の原点に立ちかえり、本や学校やネットなどの媒体を本来の(事実認識を伝えるための)共認媒体として再統合しようとしているのだと思います。
阿部和雄
古くは文字の発明に始まりそれを書きとどめた本。それを素材に知識や認識を伝えるための学校や塾。さらに新聞、ラジオ、テレビなどのマスコミ。そして携帯、ネットなど双方向の通信ツール。すべて共認形成のための媒体です。
そして'70年、序列から共認へと社会の統合原理が大転換して以降、これら“媒体”への期待と役割は年々大きくなってきています。生活費の大半が“媒体”のために使われている現状は、共認原理の時代であることを端的に示しています。しかし、いざその中身に目を向けると、性幻想や観念充足ばかりを煽り立てるマスコミがその首座を占め、伸張著しいネット世界も個的な充足のためのおしゃべり空間、というのが実態です。
実は文明社会が生まれるはるか前から、人々が共有した認識は“伝承”されてきました。自然界の理、人と自然、人と人のかかわりなどの認識群(構造認識)が人を媒体とし、日常の中で、大人も子供も世代を超え、世代を繋いで語り継がれてきたのです。
現在のようなその場限りその時限りのものでなく、現実の課題に答えるために必要だからこそ幾世代にも渡り伝承され、時代の変化とともに練り上げられてきた構造認識。今私たちは露店活動を通じて、人(場)を媒体とした認識の伝承という共認の原点に立ちかえり、本や学校やネットなどの媒体を本来の(事実認識を伝えるための)共認媒体として再統合しようとしているのだと思います。
阿部和雄
答えが出せないが故の目先の秩序収束⇒国家(力の現実)収束の一方で、収束不全発の答え探索が進んでいる。それは、事実探索の潮流として現れている。例えば、ニュース番組の隆盛や科学番組の増大。三菱ふそうの問題も、森ビルの回転ドアの問題も、鳥インフルエンザの浅田農産の問題も、事実を隠していた、誤魔化してきたという所に、世論の矛先が向けられている。年金未納問題も、ミスや誤魔化しがバレた場合は、先に白状した方が勝ち、という状態になっている。
目先の無難な誤魔化し充足の風潮と、答え探索⇒事実探索の潮流とが相克しているのが、現在である。この二つの潮流のうち、人々がどちらに収束していくかは明らかだろう。どちらも、根っ子は、収束不全発のみんな収束であり、そうである以上、答え(事実or根本問題は何なのか?)に収束していくはずである。国家やマスコミが誤魔化せば誤魔化すほど、それを反面教師として、人々の意識は事実や根本問題に向かうだろう。
>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。
この投稿を読んで、私がまず思ったのは、「本質追求しないで、誤魔化し続けている国家やマスコミに、何の意味があるのか?」ということ。この感覚は、まだ人々の間では顕在化していないが、いずれ、過半の庶民の間に広がっていくだろう。
国家・マスコミなど旧体制に対する不信感と、答え探索の両方に応えうるのが、なんで屋。それに応えるためには、「旧体制では答えにならない(序列原理から共認原理に転換しているから)」「旧観念では答えを出せない(序列原理で統合された現実が不動な時代に、変革不可能視に基づいて作られた観念だから)」「社会統合のプロと旧観念が閉塞の元凶」を明確に打ち出すことが不可欠だと思う。この言葉を提起することで、それに代わる「みんなで共認形成する場の必要性」「新理論の必要性」に、人々は気づくのではないだろうか。
冨田彰男
目先の無難な誤魔化し充足の風潮と、答え探索⇒事実探索の潮流とが相克しているのが、現在である。この二つの潮流のうち、人々がどちらに収束していくかは明らかだろう。どちらも、根っ子は、収束不全発のみんな収束であり、そうである以上、答え(事実or根本問題は何なのか?)に収束していくはずである。国家やマスコミが誤魔化せば誤魔化すほど、それを反面教師として、人々の意識は事実や根本問題に向かうだろう。
>共認形成の場を支配するマスコミ(や政治家や一部学者)の発信内容が誤魔化し一色になり、国家破綻や社会矛盾が激化していくのに本質追求はおろか本質批判さえ出てこなくなった時、過半の庶民(と良心的な知識人)の間に、「何かおかしい」「これは危ない」という危機感と、発信者への不信感が広がってゆく。その時はじめて、(なんで屋の共認運動を契機に)路上や仲間内での答え探索の潮流がはっきりと顕在化し、勢いを増してゆくことになる。
この投稿を読んで、私がまず思ったのは、「本質追求しないで、誤魔化し続けている国家やマスコミに、何の意味があるのか?」ということ。この感覚は、まだ人々の間では顕在化していないが、いずれ、過半の庶民の間に広がっていくだろう。
国家・マスコミなど旧体制に対する不信感と、答え探索の両方に応えうるのが、なんで屋。それに応えるためには、「旧体制では答えにならない(序列原理から共認原理に転換しているから)」「旧観念では答えを出せない(序列原理で統合された現実が不動な時代に、変革不可能視に基づいて作られた観念だから)」「社会統合のプロと旧観念が閉塞の元凶」を明確に打ち出すことが不可欠だと思う。この言葉を提起することで、それに代わる「みんなで共認形成する場の必要性」「新理論の必要性」に、人々は気づくのではないだろうか。
冨田彰男
>充足基調⇒探索基調へ転換した今、普通の人にとっての評価軸は、答えを出せるかどうかの一点にすでに移っているのだと思う。
視聴率=評価ではないこと。
支持率=評価ではないこと。
スイッチを入れれば視聴率が上がる。例えそれが無思考休息の道具であったとしても…
誰もテレビに期待していない。むしろ答えの出ない探索に疲労し、無思考を求めてテレビのスイッチを何となくつける。そこに一切の評価は無い。答えを期待していない。
小泉の支持率が上がった。投票率は下がり続け、誰も政治に期待していないという現実があるにもかかわらず…
視聴率にしても・支持率にしても、どちらも与えられない評価をスリカエ、あたかもそこに評価が集中しているかのような共認を捏造する、まさに欺瞞に満ちた評価軸である事を認識しなければならない。100%誤魔化しの評価軸であると認識しなければ!
人類史上初の「収束不全」。
評価が与えられるとすれば、それは答え(収束先)を出せるか出せないか、現実を変えられるか否か、その1点に尽きる。誤魔化しの評価軸に翻弄されている場合ではない。現実に立脚した評価軸を正にみんなで共認し創造していく必要がある。
そこに一切の誤魔化しがあってはいけない。
徹頭徹尾現実に立脚した評価軸を、みんな共認の中から創造していきたい。
「答えを出せるかどうか」という評価指標の共認域を拡げていきたい。
ゲン
視聴率=評価ではないこと。
支持率=評価ではないこと。
スイッチを入れれば視聴率が上がる。例えそれが無思考休息の道具であったとしても…
誰もテレビに期待していない。むしろ答えの出ない探索に疲労し、無思考を求めてテレビのスイッチを何となくつける。そこに一切の評価は無い。答えを期待していない。
小泉の支持率が上がった。投票率は下がり続け、誰も政治に期待していないという現実があるにもかかわらず…
視聴率にしても・支持率にしても、どちらも与えられない評価をスリカエ、あたかもそこに評価が集中しているかのような共認を捏造する、まさに欺瞞に満ちた評価軸である事を認識しなければならない。100%誤魔化しの評価軸であると認識しなければ!
人類史上初の「収束不全」。
評価が与えられるとすれば、それは答え(収束先)を出せるか出せないか、現実を変えられるか否か、その1点に尽きる。誤魔化しの評価軸に翻弄されている場合ではない。現実に立脚した評価軸を正にみんなで共認し創造していく必要がある。
そこに一切の誤魔化しがあってはいけない。
徹頭徹尾現実に立脚した評価軸を、みんな共認の中から創造していきたい。
「答えを出せるかどうか」という評価指標の共認域を拡げていきたい。
ゲン
>みんなの意識を紡いで、例えば民放各社で何かしらの答えを出す。
その答えが認められれば可能性収束し、時代は移り変わっていく。
マスコミだって、そういう企業に変わっていくんじゃないでしょうか。
(少なくとも、期待はすごくされていると思う。)
(72894 北村さん)
「答えを出す」事はマスコミだけに限らず、どの企業においても期待されることであり、その期待に応えられない企業は衰退していくことになると思います。北村さんの仰るように、確かに探索基調が顕在化し、共認圧力が高まる中で、マスコミも転換する必要が迫られる時が来る可能性も考えられます。しかし、マスコミ問題の本質は、彼らが現在の閉塞の元凶になっているという点ではないでしょうか。
多くの方が投稿されていますが、現在のマスコミの対応は不全捨象の充足基調報道でもって、みんなの探索基調に蓋をするという「答え追求」のベクトルを減速させるマイナス発信しかしていない状況だと思います。
現在、共認形成を担う主要な地位を占める彼らが、答えを出す気が無い傍観者であり、答えを出せないからこそ、マスコミに対する不信感が高まり、社会の閉塞感は強まる一方です。
序列原理から共認原理へ移行したという事は、普通の人達が社会の当事者として共認形成をする可能性が開かれたことを意味します。マスコミの反権力・反体制報道を充足基調の誤魔化しに転換させたのも、庶民の共認圧力によるところが大きく、この事も普通の人たちの共認形成が社会を変えていく可能性を示していると思います。
私達にとっては、これらの状況認識の下で、マスコミという傍観者の発信を受信するだけの二乗の傍観者として不全感を募らせ続け、探索基調の共認圧力が高まるまで、いつになるか解らない「答えを出すマスコミ」の登場を待つか。それとも社会の当事者として共認形成を担い、答えを出していくことで「答え追求」のベクトルを加速させていくかの選択が迫られている状況だと思います。
KOU
その答えが認められれば可能性収束し、時代は移り変わっていく。
マスコミだって、そういう企業に変わっていくんじゃないでしょうか。
(少なくとも、期待はすごくされていると思う。)
(72894 北村さん)
「答えを出す」事はマスコミだけに限らず、どの企業においても期待されることであり、その期待に応えられない企業は衰退していくことになると思います。北村さんの仰るように、確かに探索基調が顕在化し、共認圧力が高まる中で、マスコミも転換する必要が迫られる時が来る可能性も考えられます。しかし、マスコミ問題の本質は、彼らが現在の閉塞の元凶になっているという点ではないでしょうか。
多くの方が投稿されていますが、現在のマスコミの対応は不全捨象の充足基調報道でもって、みんなの探索基調に蓋をするという「答え追求」のベクトルを減速させるマイナス発信しかしていない状況だと思います。
現在、共認形成を担う主要な地位を占める彼らが、答えを出す気が無い傍観者であり、答えを出せないからこそ、マスコミに対する不信感が高まり、社会の閉塞感は強まる一方です。
序列原理から共認原理へ移行したという事は、普通の人達が社会の当事者として共認形成をする可能性が開かれたことを意味します。マスコミの反権力・反体制報道を充足基調の誤魔化しに転換させたのも、庶民の共認圧力によるところが大きく、この事も普通の人たちの共認形成が社会を変えていく可能性を示していると思います。
私達にとっては、これらの状況認識の下で、マスコミという傍観者の発信を受信するだけの二乗の傍観者として不全感を募らせ続け、探索基調の共認圧力が高まるまで、いつになるか解らない「答えを出すマスコミ」の登場を待つか。それとも社会の当事者として共認形成を担い、答えを出していくことで「答え追求」のベクトルを加速させていくかの選択が迫られている状況だと思います。
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