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当事者間でトラブルが発生して、何とか仲裁して欲しいと言う相談を受けることが多いのですが、そんな真ん中に入るときにも、「自分の成果」に拘ることは大変危険だと思います。
当事者が互いに相手を尊重しているならばそもそもトラブルが起きるはずはなく、トラブルが生じるときには、たいてい当事者は互いに同一の対象を私権獲得の対象もしくは取引の材料にしているので、その取り分を双方の妥協によって同意させるぐらいの方法しか、仲裁方法はないのです。
そのうえ、自分の取り分に関してだけは甘めに措定していることが多いので、客観的に丁度良い案を提示しても、なかなか着陸点は定まらない。そこで指導力を発揮して「自分の成果」を出そうとすると、いっそう物事が複雑化し解決が困難になるわけです。
そのような感じで私自身悩んでいたことも数多いのですが、ここ数年は成功例も積み上げはじめています。やはりキーワードは共認原理で、まず当事者にはそれぞれ相談相手を探してもらいます。当事者が二名ならそれぞれの相談相手と私を含めると、最低五名になります。当事者同士はあまり会いたくはないので、三名で話し合って原因の分析やどうしたらよいかを検討します。
三名での共認で当事者が納得しない場合は、もう一人ずつ増やしてもらいます。それでもだめならまた増員します。増えれば増えるほど、当事者の自分や、仲裁者としての私の自分は、共認によって薄まって行きます。この方法により個人間や民事的な紛争はかなり解決できるようになって来ました。その分、依頼が増えて忙しくなるのですが(汗)。
弁護士を初めとする法律屋は成功報酬(=自分の成果)を収入源としていますので、共認原理のように当事者を増やす方向には頭を使いませんが、考えてみれば法律屋が登場する前は、村人のトラブルは村全体で考えて解決していたのではないでしょうか。
トラブルにせよなんにせよ、自分の成果ではなく、共認形成の場を作ることによって全体の利益が増加する方向に導けることが、本当の成果であるような気がします。
佐藤英幸
当事者が互いに相手を尊重しているならばそもそもトラブルが起きるはずはなく、トラブルが生じるときには、たいてい当事者は互いに同一の対象を私権獲得の対象もしくは取引の材料にしているので、その取り分を双方の妥協によって同意させるぐらいの方法しか、仲裁方法はないのです。
そのうえ、自分の取り分に関してだけは甘めに措定していることが多いので、客観的に丁度良い案を提示しても、なかなか着陸点は定まらない。そこで指導力を発揮して「自分の成果」を出そうとすると、いっそう物事が複雑化し解決が困難になるわけです。
そのような感じで私自身悩んでいたことも数多いのですが、ここ数年は成功例も積み上げはじめています。やはりキーワードは共認原理で、まず当事者にはそれぞれ相談相手を探してもらいます。当事者が二名ならそれぞれの相談相手と私を含めると、最低五名になります。当事者同士はあまり会いたくはないので、三名で話し合って原因の分析やどうしたらよいかを検討します。
三名での共認で当事者が納得しない場合は、もう一人ずつ増やしてもらいます。それでもだめならまた増員します。増えれば増えるほど、当事者の自分や、仲裁者としての私の自分は、共認によって薄まって行きます。この方法により個人間や民事的な紛争はかなり解決できるようになって来ました。その分、依頼が増えて忙しくなるのですが(汗)。
弁護士を初めとする法律屋は成功報酬(=自分の成果)を収入源としていますので、共認原理のように当事者を増やす方向には頭を使いませんが、考えてみれば法律屋が登場する前は、村人のトラブルは村全体で考えて解決していたのではないでしょうか。
トラブルにせよなんにせよ、自分の成果ではなく、共認形成の場を作ることによって全体の利益が増加する方向に導けることが、本当の成果であるような気がします。
佐藤英幸
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>私たちの頭は、テレビや新聞、おしゃべりで社会問題を見聞きすると、自動的に旧観念=代償観念が空回りするように習慣化されています。そして、なんとなく結論(=価値判断)を下して、それで終い。頭の中だけの即自回答=代償充足を得るだけで、それでは何も変っていかない現実を捨象しているのが、私たちの意識状況(傍観)です。
テレビを見たり新聞を読んだりして、なんとなく「そうなんだ、こんなもんなんだ」と判断してしまい、先行きを見守るというスタンスに陥ってしまう。専門家の判断に任せて、傍観者的立場になっていることが問題なのではないでしょうか。
>仕事・仲間関係・社会、どれをとっても新しい現象が現れている。
その状況下において、何かを考えるための足がかりになる観念基盤が奪われているままに、無理やり考えても、頭の中を埋め尽くしている旧観念=代償観念に嵌まり込んでいくだけ。これでは、いくらがんばっても当事者にはなれるはずもない。
傍観者から当事者へと立場を変え、今何が必要なのか、さらに、それが何故必要なのか、といったことをお互いに追求していくような場が必要だし、そのような場において、世代を超えて、ともに考えていく状況に迫られていると思います。
当事者・傍観者についての話を聞いた当初は、当事者になれないのは各個の努力や資質のせいだと思っていましたが、それが誤りだった事を痛感しています。努力が必要なのではなく、当事者になれる突破口(新しい現実を対象化できる構造認識)こそが必要だということに気付きました。
勝間正樹
テレビを見たり新聞を読んだりして、なんとなく「そうなんだ、こんなもんなんだ」と判断してしまい、先行きを見守るというスタンスに陥ってしまう。専門家の判断に任せて、傍観者的立場になっていることが問題なのではないでしょうか。
>仕事・仲間関係・社会、どれをとっても新しい現象が現れている。
その状況下において、何かを考えるための足がかりになる観念基盤が奪われているままに、無理やり考えても、頭の中を埋め尽くしている旧観念=代償観念に嵌まり込んでいくだけ。これでは、いくらがんばっても当事者にはなれるはずもない。
傍観者から当事者へと立場を変え、今何が必要なのか、さらに、それが何故必要なのか、といったことをお互いに追求していくような場が必要だし、そのような場において、世代を超えて、ともに考えていく状況に迫られていると思います。
当事者・傍観者についての話を聞いた当初は、当事者になれないのは各個の努力や資質のせいだと思っていましたが、それが誤りだった事を痛感しています。努力が必要なのではなく、当事者になれる突破口(新しい現実を対象化できる構造認識)こそが必要だということに気付きました。
勝間正樹
私権を確保しさえすれば、生存可能になった市場社会。それ故に、私権にだけ収束するようになった脳回路。私達の頭は、ずっと私権に囲い込まれ続けて来た。私権時代に構築された旧いモノに支配されて来て、ずっと迷走していたのだ。
市場社会が私権の象徴である女によって動かされていたこと、しかし性が衰弱した今、それはもう活力源には匹敵する筈もないこと。様々な事実が旧観念を通してではなく、事実そのものとして見えてくると、これからすべき事も、何もかもがハッキリとして来る。実現論を読んでもそれは明らかである。
だが、未だに市場社会の幻想を抱き続ける政治家達などによって、事実認識は殆ど社会に、そして素人に浸透していない。幻想の中で生かし続けられ、皆自分の首を締め付けている。自分の首を締め付けている事実にさえ自らも周りも気付く事が出来ない。そこまで社会は閉塞させられて来たのだ。
もう、物的な要素だけではみんな充たされない。市場社会の限界は来た。活力源にならない市場社会が生み出してきたものから活力源を見出すのではなく、新たな圧力(現実社会の圧力)を感じ、直視して、それをこれからの活力源へとして行くことが、市場社会の作り出した螺旋から抜け出す突破口となるのだと感じた。
現代において市場社会は不適応であるということに気付くには、現実社会の事実をしっかりと見据える事が不可欠だ。綺麗ごとや、批判を並べただけでは何も見えないし変えられない。事実を認識することこそがまずは最初の一歩になる。事実を直視することは答えを出すという観点からすれば、ほんの最初の段階だが、これこそが一番大事で大きな一歩なのである。事実を見て、圧力を捉え、そして活力源へとしていくことが今の私達に求められていることだ。
清水志保
市場社会が私権の象徴である女によって動かされていたこと、しかし性が衰弱した今、それはもう活力源には匹敵する筈もないこと。様々な事実が旧観念を通してではなく、事実そのものとして見えてくると、これからすべき事も、何もかもがハッキリとして来る。実現論を読んでもそれは明らかである。
だが、未だに市場社会の幻想を抱き続ける政治家達などによって、事実認識は殆ど社会に、そして素人に浸透していない。幻想の中で生かし続けられ、皆自分の首を締め付けている。自分の首を締め付けている事実にさえ自らも周りも気付く事が出来ない。そこまで社会は閉塞させられて来たのだ。
もう、物的な要素だけではみんな充たされない。市場社会の限界は来た。活力源にならない市場社会が生み出してきたものから活力源を見出すのではなく、新たな圧力(現実社会の圧力)を感じ、直視して、それをこれからの活力源へとして行くことが、市場社会の作り出した螺旋から抜け出す突破口となるのだと感じた。
現代において市場社会は不適応であるということに気付くには、現実社会の事実をしっかりと見据える事が不可欠だ。綺麗ごとや、批判を並べただけでは何も見えないし変えられない。事実を認識することこそがまずは最初の一歩になる。事実を直視することは答えを出すという観点からすれば、ほんの最初の段階だが、これこそが一番大事で大きな一歩なのである。事実を見て、圧力を捉え、そして活力源へとしていくことが今の私達に求められていることだ。
清水志保
最近、投稿することで活力が沸くようになったのを実感している。以前はそれほど感じていなかったことなので、なぜなのか改めて考えてみた。
思い当たったのは、投稿や露店に行くことでわかるようになったことがあること。それは、「今自分が活力が出ていない、何か不全がある」ということを認識できるようになったということだ。
学生時代、何かうまくいっていない時があった時は、そのこと(何かうまくいっていなくてモヤモヤしているということ)さえもしっかり認識できていなかった。この状態になると、ただただ元気が出なくなっていくことが多かった。
最近は、それがだんだん変わりつつある。具体的にならなくても、「何が不全かわからないことが不全になっている」ということは少なくとも認識できるようになった。何が不全かわからなくてしんどい思いをしている人は、結構多いと思う。でも、そのことが認識できているだけでも、全然違うのではないか。「今うまくいっていないから、何とかしよう!」という発想になれる。
投稿をする時は、普段何となく考えていることや、仲間との議論をもとに、自分の頭の中にあることを形にしていく。そこで、改めて自分の不全と向き合ったり、問題を整理することになる。露店も同じ。お客さんを相手に話していると、お客さんに話している自分の言葉が、その日の自分の気付きになることもある。形にできる、言葉にできるということで、実現の一歩を踏み出せるということだろうか。それが活力に繋がっているのかもしれない。
>認識形成は、遊びではない。それは生産活動であり、闘いなのだ。
投稿する時は、なにも1から「自分の言葉で」考える必要はない。「確かにそうだ!」と共感できた投稿は、そのまま引用すればいいし、それをきっかけに広げていけばいい。引用されることによって、改めて引用先の投稿を読み返すことも多い。そういった形で人に気付きを与えることができれば、それは立派な生産活動そのものだ。
投稿は、みんなに認識を供給する手段であり、同時に自らの活力も引き上げる。
矢野悟
思い当たったのは、投稿や露店に行くことでわかるようになったことがあること。それは、「今自分が活力が出ていない、何か不全がある」ということを認識できるようになったということだ。
学生時代、何かうまくいっていない時があった時は、そのこと(何かうまくいっていなくてモヤモヤしているということ)さえもしっかり認識できていなかった。この状態になると、ただただ元気が出なくなっていくことが多かった。
最近は、それがだんだん変わりつつある。具体的にならなくても、「何が不全かわからないことが不全になっている」ということは少なくとも認識できるようになった。何が不全かわからなくてしんどい思いをしている人は、結構多いと思う。でも、そのことが認識できているだけでも、全然違うのではないか。「今うまくいっていないから、何とかしよう!」という発想になれる。
投稿をする時は、普段何となく考えていることや、仲間との議論をもとに、自分の頭の中にあることを形にしていく。そこで、改めて自分の不全と向き合ったり、問題を整理することになる。露店も同じ。お客さんを相手に話していると、お客さんに話している自分の言葉が、その日の自分の気付きになることもある。形にできる、言葉にできるということで、実現の一歩を踏み出せるということだろうか。それが活力に繋がっているのかもしれない。
>認識形成は、遊びではない。それは生産活動であり、闘いなのだ。
投稿する時は、なにも1から「自分の言葉で」考える必要はない。「確かにそうだ!」と共感できた投稿は、そのまま引用すればいいし、それをきっかけに広げていけばいい。引用されることによって、改めて引用先の投稿を読み返すことも多い。そういった形で人に気付きを与えることができれば、それは立派な生産活動そのものだ。
投稿は、みんなに認識を供給する手段であり、同時に自らの活力も引き上げる。
矢野悟
運動信仰を生み出す前提には、実践思考で頭の筋肉が固まっているということがあると思います。
実践思考に支配されてきた原因には、「私権闘争が活力源というパラダイムから抜け出せず、相変らず目先の私益追求にしか関心がない」とか、「旧観念に支配されていて思考停止に陥っている」とか、「考えても答えが出ないので根底思考を棚上げにしている」とか、いくつかの理由が考えられます。しかし、それらの基本には、「収束不全度が高まると、出来合いの目先の観念にすがり、不全をごまかす(不全に蓋をして、なかったことにする)」という構造があるような気がします。
例えば、平和運動とか環境運動などの社会運動は、「なんとかしなければという不全は感じるけれど、課題が大きすぎてどうしていいか答えが分からない。どうしていいか分からないけど、何かをしないと始まらないので、とりあえずできるところから実践してみよう」というような実践思考に支配されてきたのではないでしょうか。これは、「どうしようもない不全⇒出来合いの人権とか平和とかの観念にすがり、とりあえず実践⇒何かいいことをやっているような気になって不全をごまかす」という構造と考えられます。
同様のことは、何らかの社会運動に関わっている人たちだけではなく、政治家や官僚、企業人などにも共通して言えることです。特に、何らかの答えを出さなくてはならないという統合圧力にさらされている責任ある立場の人ほど、その傾向は強いと思います。「収束不全が高まっており、何とかしなければという思いはあるが、答えを出せない⇒しかし、何らかの答えを出さなくては統合できないので、出来合いの私権観念・旧観念にすがり⇒とりあえず実践⇒実践に収束することによって不全をごまかす」というわけです。
非常に逆説的(倒錯的)ではありますが、不全度が高いほど目先の実践に収束しやすいという構造が、実践思考を強め、運動信仰に拍車をかけているのではないかと思えてなりません。そして、それが既存の制度や秩序への収束を強め、社会を変わらなくさせる方向に作用しているのではないかと思います。本来は、収束不全が高まっているからこそ、徹底的に「なんでだろう?」を追求し続ける根底思考が求められるのだと思います。現に、旧秩序を守る必要も責任もないような普通の人々から根底探索の思考は広がっていっています。真の社会運動を実現してゆくためは、目先の実践思考から根底思考に転換してゆくことが必要であると思います。
雪竹恭一
実践思考に支配されてきた原因には、「私権闘争が活力源というパラダイムから抜け出せず、相変らず目先の私益追求にしか関心がない」とか、「旧観念に支配されていて思考停止に陥っている」とか、「考えても答えが出ないので根底思考を棚上げにしている」とか、いくつかの理由が考えられます。しかし、それらの基本には、「収束不全度が高まると、出来合いの目先の観念にすがり、不全をごまかす(不全に蓋をして、なかったことにする)」という構造があるような気がします。
例えば、平和運動とか環境運動などの社会運動は、「なんとかしなければという不全は感じるけれど、課題が大きすぎてどうしていいか答えが分からない。どうしていいか分からないけど、何かをしないと始まらないので、とりあえずできるところから実践してみよう」というような実践思考に支配されてきたのではないでしょうか。これは、「どうしようもない不全⇒出来合いの人権とか平和とかの観念にすがり、とりあえず実践⇒何かいいことをやっているような気になって不全をごまかす」という構造と考えられます。
同様のことは、何らかの社会運動に関わっている人たちだけではなく、政治家や官僚、企業人などにも共通して言えることです。特に、何らかの答えを出さなくてはならないという統合圧力にさらされている責任ある立場の人ほど、その傾向は強いと思います。「収束不全が高まっており、何とかしなければという思いはあるが、答えを出せない⇒しかし、何らかの答えを出さなくては統合できないので、出来合いの私権観念・旧観念にすがり⇒とりあえず実践⇒実践に収束することによって不全をごまかす」というわけです。
非常に逆説的(倒錯的)ではありますが、不全度が高いほど目先の実践に収束しやすいという構造が、実践思考を強め、運動信仰に拍車をかけているのではないかと思えてなりません。そして、それが既存の制度や秩序への収束を強め、社会を変わらなくさせる方向に作用しているのではないかと思います。本来は、収束不全が高まっているからこそ、徹底的に「なんでだろう?」を追求し続ける根底思考が求められるのだと思います。現に、旧秩序を守る必要も責任もないような普通の人々から根底探索の思考は広がっていっています。真の社会運動を実現してゆくためは、目先の実践思考から根底思考に転換してゆくことが必要であると思います。
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