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日本の政界、マスコミ業界とアメリカ画策の一要因として、日本ほどスパイ天国の国はないということが挙げられる。
アメリカにしろドイツにしろ、他国の人間が自国内若しくは領海内に入って諜報活動を行えば、スパイ防止法によって捕らえられます。しかし日本ではそのような法律が存在しない為、日本国内で外国人がどのようなスパイ行為を行ってもそれ自体は合法になる。具体的に言えば、北朝鮮工作員やアメリカCIAが反日目的の情報収集、情報工作を行っても捜査する事すらできず、電波法、刑法、入管法等の日本国民同様の法律に抵触しない限り問題がない、というような状態だ。が故に、今までスパイが発覚した北朝鮮やソ連等の事件などは、他の法に抵触したもののみ検挙できた後に発覚したものであって、現実には表にでないスパイ行為は星の数ほど存在しているという。だから日本は国際的にもスパイ天国の国として有名である。
もちろん日本でもこのようなスパイ天国の現状に対し、スパイ防止法の策定は議論にのぼっており、時の中曽根内閣自民党が86年に法案を作成している。しかし、社会党、共産党の反発、さらには三大紙全てがスパイ防止法の猛烈な反対姿勢をみせ、結局スパイ防止法は立ち消えになっている。
親北の社会党、親露の共産党の反発はおいとくとして、何故マスコミがスパイ防止法を猛烈に反対したのか。
他国の利益の為に自国の機密情報を漏洩し、自国への情報工作を行う事は、スパイである。今回の小泉翼賛選挙に対するマスコミの行動には、これに当てはまるのではないだろうか。そして、このようなマスコミの言動は小泉翼賛選挙に限らず、ロッキード事件による田中おろし、二大政党をもくろむ選挙制度の改正、新党ブーム、橋本、野中つぶし・・・と70年以降マスコミが第一権力化して以降、あらゆる現象の裏にアメリカとマスコミの関係が見え隠れする。もしスパイ防止法が制定されれば、真っ先に売国の汚名を受けるのは、他ならぬマスコミなのではないだろうか。
この先マスコミに変わる新たな共認形成機関が誕生し、マスコミによる共認支配が解かれたときに、マスコミの問題性は必ず総括される時が来るだろう。
喜田育樹
アメリカにしろドイツにしろ、他国の人間が自国内若しくは領海内に入って諜報活動を行えば、スパイ防止法によって捕らえられます。しかし日本ではそのような法律が存在しない為、日本国内で外国人がどのようなスパイ行為を行ってもそれ自体は合法になる。具体的に言えば、北朝鮮工作員やアメリカCIAが反日目的の情報収集、情報工作を行っても捜査する事すらできず、電波法、刑法、入管法等の日本国民同様の法律に抵触しない限り問題がない、というような状態だ。が故に、今までスパイが発覚した北朝鮮やソ連等の事件などは、他の法に抵触したもののみ検挙できた後に発覚したものであって、現実には表にでないスパイ行為は星の数ほど存在しているという。だから日本は国際的にもスパイ天国の国として有名である。
もちろん日本でもこのようなスパイ天国の現状に対し、スパイ防止法の策定は議論にのぼっており、時の中曽根内閣自民党が86年に法案を作成している。しかし、社会党、共産党の反発、さらには三大紙全てがスパイ防止法の猛烈な反対姿勢をみせ、結局スパイ防止法は立ち消えになっている。
親北の社会党、親露の共産党の反発はおいとくとして、何故マスコミがスパイ防止法を猛烈に反対したのか。
他国の利益の為に自国の機密情報を漏洩し、自国への情報工作を行う事は、スパイである。今回の小泉翼賛選挙に対するマスコミの行動には、これに当てはまるのではないだろうか。そして、このようなマスコミの言動は小泉翼賛選挙に限らず、ロッキード事件による田中おろし、二大政党をもくろむ選挙制度の改正、新党ブーム、橋本、野中つぶし・・・と70年以降マスコミが第一権力化して以降、あらゆる現象の裏にアメリカとマスコミの関係が見え隠れする。もしスパイ防止法が制定されれば、真っ先に売国の汚名を受けるのは、他ならぬマスコミなのではないだろうか。
この先マスコミに変わる新たな共認形成機関が誕生し、マスコミによる共認支配が解かれたときに、マスコミの問題性は必ず総括される時が来るだろう。
喜田育樹
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国の借金800兆、大変。どの政党の政策もごまかし。まかせておけない。ここまではみんな考える。しかしこの後がなかなか続かない。どうすればいいのか?具体的な政策はあるの?
政治の話になるとよく聞くのが実感が沸かない、どこか他人事、どうせ不可能なんだから、政治の事は政治家に任せるといったたぐいの不可能視、傍観者意識が未だに厳然と横たわる。
確かに人々の意識は変化してきており、政治家にまかせられないというところまでは来ているが、いざ自ら政策を考えたり、具体的にどうするかを考える段階になるとそこは一段別の次元にある。
この意識は何だろう?どうすれば当事者意識が起きるのだろうか?どうすれば政治の課題は自ら担わなければいけないというところへ持っていけるのだろうか?そこを考えてみた。
政治とはそもそも権力者が大衆を統治する為に作り出したものである。
秩序を維持するためのものであり、当然大衆の一定の合意は必要なものの、後は権力の大きさとのバランスで政策は幾通りも出てくる。
私権時代、政治とは国を治めるという目的を持ちながら同時に為政者が権力を維持し続けるための道具でもあった。より安定した政治とは多くの場合、ある権力者が独裁という形態をとることは必然でもあった。
しかし、時代は変わった。序列原理で統合できなくなった集団は共認原理で統合するしかなく、当然、政治においてもより多くの大衆共認を獲得することが必須条件となる。逆にいえば共認形成できなければいかなる政策も実効性を伴わない。言い換えれば政治とは将来、共認内容そのものになるのではないか。より多くの共認を獲得した政策が認められ実施される。
考えてみれば国家の借金800兆という途方も無い根本課題は既に明らかなように既存の政治の枠組みでは対応が不可能である。国の支出の何を削減し、税金による収入をどう増やしていくかはまさに経営課題であり、極論すれば国民の過半が納得づくでなければ動かないような内容。それには、情報を透明化し経営的視点を持って方針を立案し覚悟を持って実施する。まさに国民の一人一人が当事者となって、課題と痛みを共有しながら前進していくことでしか突破する方法はない。まさにおおきな共同体を作るイメージだ。
話を戻して、なぜ政治の話が遠く感じるか、不可能に感じるかという点については既存の政治の枠組みでしか政策を考えていないからだという点に落着する。政策はプロが作るもの、庶民はそれを判定する者、おそらくそこから発想を変えていかなければならないように思う。
800兆の課題は確かに重い。しかし重ければ重いほど政治のパラダイムを変える転換点になると思う。共認運動の起点になると思う。
「GDP信仰と、その結果生み出された国の借金という概念を捨てて、新たに国家紙幣を発行するとともに、人々の活力を生み出す活動・本当に必要とされる活動に、支援金を支払えばいい」
政治=人々の共認。そのパラダイムに立てば、このような発想が提起され次々と実施されていくのも可能なこととなる。
改めて、これからの社会は当事者という素人が作り出すしかない!という事の根拠が見えてきたように思う。
田野健
政治の話になるとよく聞くのが実感が沸かない、どこか他人事、どうせ不可能なんだから、政治の事は政治家に任せるといったたぐいの不可能視、傍観者意識が未だに厳然と横たわる。
確かに人々の意識は変化してきており、政治家にまかせられないというところまでは来ているが、いざ自ら政策を考えたり、具体的にどうするかを考える段階になるとそこは一段別の次元にある。
この意識は何だろう?どうすれば当事者意識が起きるのだろうか?どうすれば政治の課題は自ら担わなければいけないというところへ持っていけるのだろうか?そこを考えてみた。
政治とはそもそも権力者が大衆を統治する為に作り出したものである。
秩序を維持するためのものであり、当然大衆の一定の合意は必要なものの、後は権力の大きさとのバランスで政策は幾通りも出てくる。
私権時代、政治とは国を治めるという目的を持ちながら同時に為政者が権力を維持し続けるための道具でもあった。より安定した政治とは多くの場合、ある権力者が独裁という形態をとることは必然でもあった。
しかし、時代は変わった。序列原理で統合できなくなった集団は共認原理で統合するしかなく、当然、政治においてもより多くの大衆共認を獲得することが必須条件となる。逆にいえば共認形成できなければいかなる政策も実効性を伴わない。言い換えれば政治とは将来、共認内容そのものになるのではないか。より多くの共認を獲得した政策が認められ実施される。
考えてみれば国家の借金800兆という途方も無い根本課題は既に明らかなように既存の政治の枠組みでは対応が不可能である。国の支出の何を削減し、税金による収入をどう増やしていくかはまさに経営課題であり、極論すれば国民の過半が納得づくでなければ動かないような内容。それには、情報を透明化し経営的視点を持って方針を立案し覚悟を持って実施する。まさに国民の一人一人が当事者となって、課題と痛みを共有しながら前進していくことでしか突破する方法はない。まさにおおきな共同体を作るイメージだ。
話を戻して、なぜ政治の話が遠く感じるか、不可能に感じるかという点については既存の政治の枠組みでしか政策を考えていないからだという点に落着する。政策はプロが作るもの、庶民はそれを判定する者、おそらくそこから発想を変えていかなければならないように思う。
800兆の課題は確かに重い。しかし重ければ重いほど政治のパラダイムを変える転換点になると思う。共認運動の起点になると思う。
「GDP信仰と、その結果生み出された国の借金という概念を捨てて、新たに国家紙幣を発行するとともに、人々の活力を生み出す活動・本当に必要とされる活動に、支援金を支払えばいい」
政治=人々の共認。そのパラダイムに立てば、このような発想が提起され次々と実施されていくのも可能なこととなる。
改めて、これからの社会は当事者という素人が作り出すしかない!という事の根拠が見えてきたように思う。
田野健
>るいブログは、ネット上で答えを供給しつつ、自らが成長する為の、実地演習の場である。運営者に、答えを供給する実地演習の場であるという自覚、そして場を運営することが共認運動の広がりそのものになるという目的意識がなければ、ブログ運営はおそらく続かないだろう。
るいブログやなんで屋ファンたちのブログを見ることも多いのですが、なんで屋での奮闘振り、路上の人々の意識、お題に関する有益な情報も多く参考になり、るいネットを側面からサポートする力がついてきたように感じます。
ただ、投入するエネルギーの割には、共認運動の広がりが乏しく感じられます。それは巨大なネット世界の中で「発信」することの難しさがまだ十分に理解されていないのだと思われます。
その原因のひとつが、ブログの最大の武器であるトラックバック(以下TB)が有効に使われていないことにあります。
TBは見知らぬ相手と気軽につながることができます。しかも同じ相手に何度もTBができるので、従来の相互リンクより継続的に接点が持てます。
しかし、そのためには地道な営業活動は不可欠です。自分のブログの内容に(部分的でも)接点をもつ相手を探索しなければなりません。(ただし、いまや政治や社会関心の高い人を見つけることは誰にとっても容易にできるはずです。)
また多数のサイトにTBすることで、TB先の相手やTBつながりでアクセスする人々からの評価圧力も加わり、それが本来の実地演習の場へと上昇させられるのではないでしょうか。
トラックバックを通じて積極的に対象に働きかけることで、ブログがるいネットやなんで屋などの共認形成の場へつなぐ有効な媒体へと昇華できるのです。
辻一洋
るいブログやなんで屋ファンたちのブログを見ることも多いのですが、なんで屋での奮闘振り、路上の人々の意識、お題に関する有益な情報も多く参考になり、るいネットを側面からサポートする力がついてきたように感じます。
ただ、投入するエネルギーの割には、共認運動の広がりが乏しく感じられます。それは巨大なネット世界の中で「発信」することの難しさがまだ十分に理解されていないのだと思われます。
その原因のひとつが、ブログの最大の武器であるトラックバック(以下TB)が有効に使われていないことにあります。
TBは見知らぬ相手と気軽につながることができます。しかも同じ相手に何度もTBができるので、従来の相互リンクより継続的に接点が持てます。
しかし、そのためには地道な営業活動は不可欠です。自分のブログの内容に(部分的でも)接点をもつ相手を探索しなければなりません。(ただし、いまや政治や社会関心の高い人を見つけることは誰にとっても容易にできるはずです。)
また多数のサイトにTBすることで、TB先の相手やTBつながりでアクセスする人々からの評価圧力も加わり、それが本来の実地演習の場へと上昇させられるのではないでしょうか。
トラックバックを通じて積極的に対象に働きかけることで、ブログがるいネットやなんで屋などの共認形成の場へつなぐ有効な媒体へと昇華できるのです。
辻一洋
>国家は闘争系の集団(統合)適応の原理に基づいた存在であるのに対して、市場はその闘争からの抜け道としての共生(取引)原理に基づいた存在であり、両者は適応原理という最も深い所で根本的に異なった存在であることを、(傍観者たる学者からの受け売りの様な、底の浅い概念を使ってあれこれ考える以前に)しっかりと認識しておく必要がある。
確かに、私権統合されている頃は、まだ国家も集団(統合)適応の原理に基づいていたのかもしれない。ところが、最近の郵政民営化に代表されるような場当たり的な政策や,利権を確保したいがための自民党の分裂等々を見るに至っては、結局、国家も共生(取引)原理に基づいた存在になっているのではないでしょうか?国家も市場も、つまりは社会自体が共生(取引)原理と化してしまっているのです。
共生という言葉自体、一見良いような響きがあります。ところが、本来は共生という言葉は社会統合という視点に立ってみると、この時代において非常に恐ろしいことだと感じるようになってきました。
>社会統合の問題を考える上で、『統合様式とは、何よりもまず、外圧(≒闘争圧力)に対する適応様式である』という大前提を決して忘れてはならない。
共生(取引)原理とは、外圧に対して闘う原理ではありません。市場に代表されるように、持ちつ持たれつの関係や、都合の良い時に国家に寄生するような徹底して闘争圧力の働かない世界を作り出してしまうのではないでしょうか?”みんな共生しよう”みたいな一見聞こえのいい,ところが都合のよい原理なのだと思います。
国家や市場において、社会統合はできない。改めて感じます。今は、答えそのものが求められているのであり、そのための認識形成の場が最も”闘争(能力)原理”になりうるのであり、最も可能性があるのだと思います。
澤根和治
確かに、私権統合されている頃は、まだ国家も集団(統合)適応の原理に基づいていたのかもしれない。ところが、最近の郵政民営化に代表されるような場当たり的な政策や,利権を確保したいがための自民党の分裂等々を見るに至っては、結局、国家も共生(取引)原理に基づいた存在になっているのではないでしょうか?国家も市場も、つまりは社会自体が共生(取引)原理と化してしまっているのです。
共生という言葉自体、一見良いような響きがあります。ところが、本来は共生という言葉は社会統合という視点に立ってみると、この時代において非常に恐ろしいことだと感じるようになってきました。
>社会統合の問題を考える上で、『統合様式とは、何よりもまず、外圧(≒闘争圧力)に対する適応様式である』という大前提を決して忘れてはならない。
共生(取引)原理とは、外圧に対して闘う原理ではありません。市場に代表されるように、持ちつ持たれつの関係や、都合の良い時に国家に寄生するような徹底して闘争圧力の働かない世界を作り出してしまうのではないでしょうか?”みんな共生しよう”みたいな一見聞こえのいい,ところが都合のよい原理なのだと思います。
国家や市場において、社会統合はできない。改めて感じます。今は、答えそのものが求められているのであり、そのための認識形成の場が最も”闘争(能力)原理”になりうるのであり、最も可能性があるのだと思います。
澤根和治
>改めて考えてみれば、’90年頃にいじめが深刻化したのも、’96年頃に性が急速に衰弱したのも、’02年頃に遊び第一が瓦解したのも、全ては、収束不全発の適応可能性(=みんな共認の可能性)への収束に起因する。そして又、充足基調から探索基調への移行も、収束不全発の可能性収束が生み出した必然である。
投稿から新しい潮流を感じた。
生存圧力の下では、観念レベルの不全であれば、観念を捨象すればいい(無思想・無関心であればいい)。共認レベルの不全であれば(私権や序列の共認が得られなければ)、解脱の中から共認充足を獲得すればいい。ところが、70年に貧困が消滅し生存圧力が働かなくなると、今までに経験したことの無い本能レベルの収束不全に陥ることになる。
いくら働いても、いくら遊んでも、なにをしていても徒労感が付き纏う。仕様が無く目先の資格や親元へ秩序収束する者もいるが、そこには可能性がないことを薄々感付いている。
どうしたら活力が出るのか、何にやりがいを感じられるのか、本能を直撃する収束不全に背を向けることは決して出来ない。
収束不全(みんな期待)は人類不偏の最大欠乏であり、これが生存圧力に代わる新しい圧力になるのではないか。
>深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。
みんな期待に応え共認充足を獲得するには、事実認識の追求による新理論、それを紡ぎだす場が必要である。みんなで共認社会に可能性収束することで、人類は深い本能レベルの収束不全からやっと抜け出せるのではないか。
福田慎一郎
投稿から新しい潮流を感じた。
生存圧力の下では、観念レベルの不全であれば、観念を捨象すればいい(無思想・無関心であればいい)。共認レベルの不全であれば(私権や序列の共認が得られなければ)、解脱の中から共認充足を獲得すればいい。ところが、70年に貧困が消滅し生存圧力が働かなくなると、今までに経験したことの無い本能レベルの収束不全に陥ることになる。
いくら働いても、いくら遊んでも、なにをしていても徒労感が付き纏う。仕様が無く目先の資格や親元へ秩序収束する者もいるが、そこには可能性がないことを薄々感付いている。
どうしたら活力が出るのか、何にやりがいを感じられるのか、本能を直撃する収束不全に背を向けることは決して出来ない。
収束不全(みんな期待)は人類不偏の最大欠乏であり、これが生存圧力に代わる新しい圧力になるのではないか。
>深くかつ強力な収束不全⇒探索基調の生起とは、みんなで社会共認を形成してゆく共認社会の最大の実現基盤が遂に姿を現したということなのである。
みんな期待に応え共認充足を獲得するには、事実認識の追求による新理論、それを紡ぎだす場が必要である。みんなで共認社会に可能性収束することで、人類は深い本能レベルの収束不全からやっと抜け出せるのではないか。
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