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「癒し」で連想するもの・・・旅行や趣味や恋愛など。まさに私権課題からの目先の逃避先の代表例である。
そしてそれらすべて「個人」が対象であるため人それぞれの域を出ず、それそのものは否定の対象とはなり得ないので逃避先としては絶好の存在。
私権課題という「否定対象」があってはじめて成り立つ「癒し」。るいネットのお題「癒し欠乏って、何?」の最近の秀作・佳作を見ても明らかなように、2年ほど前には「癒し」もブーム化(商品化)されて盛り上がった時代もあったが、もはやその商品価値も低迷。むしろ最近では政治系お題(=現実課題)が盛り上がりをみせている。
つまり、私権課題⇒「逃避の癒し」ではなく、「突破するために社会を対象化」する段階にきているのだ。
今残っているのは、所詮頭の中だけの固定観念(癒しはいいもの・必要など)だけでしかない。潜在思念ではとっくに中身がない・可能性がないことに気づいている。ということは、「癒し」が必要なのではなく、「現実を対象化し突破する答え」が必要、そのためには個人からみんなへの転換が必要、そこで得られる充足が皆が本当に求める「癒し」なのだという認識の転換が必要となる。
鬱や引きこもりやニート・・・現代病(心の病)が蔓延している時代に必要なのは逃避先の「癒し」ではなく、皆で活力を作り上げる場(現実課題を追究する場)なのではないでしょうか。
門奈津子
そしてそれらすべて「個人」が対象であるため人それぞれの域を出ず、それそのものは否定の対象とはなり得ないので逃避先としては絶好の存在。
私権課題という「否定対象」があってはじめて成り立つ「癒し」。るいネットのお題「癒し欠乏って、何?」の最近の秀作・佳作を見ても明らかなように、2年ほど前には「癒し」もブーム化(商品化)されて盛り上がった時代もあったが、もはやその商品価値も低迷。むしろ最近では政治系お題(=現実課題)が盛り上がりをみせている。
つまり、私権課題⇒「逃避の癒し」ではなく、「突破するために社会を対象化」する段階にきているのだ。
今残っているのは、所詮頭の中だけの固定観念(癒しはいいもの・必要など)だけでしかない。潜在思念ではとっくに中身がない・可能性がないことに気づいている。ということは、「癒し」が必要なのではなく、「現実を対象化し突破する答え」が必要、そのためには個人からみんなへの転換が必要、そこで得られる充足が皆が本当に求める「癒し」なのだという認識の転換が必要となる。
鬱や引きこもりやニート・・・現代病(心の病)が蔓延している時代に必要なのは逃避先の「癒し」ではなく、皆で活力を作り上げる場(現実課題を追究する場)なのではないでしょうか。
門奈津子
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私自身、仕事でも私生活でも、何か物足りない、仲間との結集軸が見つからないと感じている。それが自らの不全となり、活力は低下し、まともな思考ができなくなってくる。そしてその感覚はドンドン強まってきている。それは収束不全からくることだと思うのだが、じゃあ、どうしたらよいのか?どういうものがよいのかというところで、いつも思考が止まる。
私達の世代は、社会の統合軸が定まらない中で育ってきた。そのため、社会全体でも、自分の身の回りでも、活力を持って、一つの方向に向かっていくという「統合」された状態を経験したことがない。
自分の身の回りを振り返ってみると、スポーツや学校でのグループ課題を通して、共認原理らしきもので集団がまとまって、なんとなく充足感を共有できた経験はある。
しかしながら、共通の課題→目的となっていたものは私権追求の延長上のもので、自己満足の範疇を超えることができず、いまいち収束し切れなかった。従って、これを「統合」といえるのかどうかは甚だアヤシイ。
「統合」というものがいまいち掴めない。当然、経験したことがないのだから、潜在思念から導かれる可能性をイメージするしかない。
>しかし、無意識の認識収束には大きな限界がある。無意識に留まる限り、いつまで経っても認識収束が(引いては社会収束が)顕在化してこない。認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収束(全的な答え欠乏)が顕在化する。例えば、「認識仲間」という言葉が与えられて初めて、解脱仲間から認識仲間への転換が顕在化し、一気に進行してゆく。
社会不全を捨象しきれなくなり、諦めにも似た目先収束の色合いが強まってくる現在、この目先を突破するためにも、潜在思念から湧き上がってくる可能性が実現に結びつくような、具現化された言葉が必要だと痛切に思う。
一方、すでに提起されている新しい認識「期待と応望」「認識仲間」「認識形成の場」「需要から供給へ」そして「共認」。これらは新たな統合の実現形態の一部なのだと改めて気が付いた。
そして、それらはすでに実現している。
統合軸の不在に気付いている私達が、上記に上げたような新しい統合の実現形態をつなぎ合わせ、実践していく中で感じる充足・可能性の中で、次代の「統合」をリアルに感じ、伝播していくことが重要だと思った。
関谷啓太郎
私達の世代は、社会の統合軸が定まらない中で育ってきた。そのため、社会全体でも、自分の身の回りでも、活力を持って、一つの方向に向かっていくという「統合」された状態を経験したことがない。
自分の身の回りを振り返ってみると、スポーツや学校でのグループ課題を通して、共認原理らしきもので集団がまとまって、なんとなく充足感を共有できた経験はある。
しかしながら、共通の課題→目的となっていたものは私権追求の延長上のもので、自己満足の範疇を超えることができず、いまいち収束し切れなかった。従って、これを「統合」といえるのかどうかは甚だアヤシイ。
「統合」というものがいまいち掴めない。当然、経験したことがないのだから、潜在思念から導かれる可能性をイメージするしかない。
>しかし、無意識の認識収束には大きな限界がある。無意識に留まる限り、いつまで経っても認識収束が(引いては社会収束が)顕在化してこない。認識収束を顕在化させるには、答えとなる言葉が必要である。答え(に近い言葉)を与えられて、初めて潜在思念の認識収束(全的な答え欠乏)が顕在化する。例えば、「認識仲間」という言葉が与えられて初めて、解脱仲間から認識仲間への転換が顕在化し、一気に進行してゆく。
社会不全を捨象しきれなくなり、諦めにも似た目先収束の色合いが強まってくる現在、この目先を突破するためにも、潜在思念から湧き上がってくる可能性が実現に結びつくような、具現化された言葉が必要だと痛切に思う。
一方、すでに提起されている新しい認識「期待と応望」「認識仲間」「認識形成の場」「需要から供給へ」そして「共認」。これらは新たな統合の実現形態の一部なのだと改めて気が付いた。
そして、それらはすでに実現している。
統合軸の不在に気付いている私達が、上記に上げたような新しい統合の実現形態をつなぎ合わせ、実践していく中で感じる充足・可能性の中で、次代の「統合」をリアルに感じ、伝播していくことが重要だと思った。
関谷啓太郎
>国家と云っても掴み所がないが、その実体は官吏をはじめ、国家によって肩書きを与えられた学者や教師や弁護士や税理士etcの統合階級が棲息する場or機関と考えれば良い。
なるほど、国家をそのように捉えてみると、郵政民営化に代表される“官から民へ”というキャッチコピーが、ゴマカシそのものであるとあらためて認識できる。
要するに、官とは国家から与えられた肩書きに過ぎず、官から民へとは、その肩書きがあるか無いかの違いしかないということであり、市場の住民(私権追及の主体)という意味では何も変わらない。しかも市場がここまで冷え込んでいる以上、市場原理に委ねたところで、活性化するはずが無いことなど明らかだろう。
しかし、私権原理から共認原理への大転換に伴い、肩書きや身分は、もはや人々の活力源たり得ず、社会統合の役目を終えた。役に立たなくなった肩書きや身分など、解体されて然るべきだろう。だが、単に肩書きを解体するだけなら、私権追及の主体(=バラバラの個人)が姿を現すだけで、何の答えにもなっていない。では、どうするのか?
やはり、私権原理から共認原理への転換という認識が、決定的に重要なのだと思う。社会は、みんなの共認に委ねられる時代になったのだ。みんなが課題や役割を共認することで社会は統合され、みんなが共認した課題や役割⇒評価が、みんなの活力源になる。
従って、みんなの共認形成の場こそが何よりも求められており、それが統合階級やマスコミに牛耳られていることが、何よりも問題なのだ。つまり、官から民へなどと言うゴマカシの改革ではなく、共認形成の場を“官(マスコミ)からみんなへ”解放する(取り戻す)、という本物の改革が求められている。
小松由布樹
なるほど、国家をそのように捉えてみると、郵政民営化に代表される“官から民へ”というキャッチコピーが、ゴマカシそのものであるとあらためて認識できる。
要するに、官とは国家から与えられた肩書きに過ぎず、官から民へとは、その肩書きがあるか無いかの違いしかないということであり、市場の住民(私権追及の主体)という意味では何も変わらない。しかも市場がここまで冷え込んでいる以上、市場原理に委ねたところで、活性化するはずが無いことなど明らかだろう。
しかし、私権原理から共認原理への大転換に伴い、肩書きや身分は、もはや人々の活力源たり得ず、社会統合の役目を終えた。役に立たなくなった肩書きや身分など、解体されて然るべきだろう。だが、単に肩書きを解体するだけなら、私権追及の主体(=バラバラの個人)が姿を現すだけで、何の答えにもなっていない。では、どうするのか?
やはり、私権原理から共認原理への転換という認識が、決定的に重要なのだと思う。社会は、みんなの共認に委ねられる時代になったのだ。みんなが課題や役割を共認することで社会は統合され、みんなが共認した課題や役割⇒評価が、みんなの活力源になる。
従って、みんなの共認形成の場こそが何よりも求められており、それが統合階級やマスコミに牛耳られていることが、何よりも問題なのだ。つまり、官から民へなどと言うゴマカシの改革ではなく、共認形成の場を“官(マスコミ)からみんなへ”解放する(取り戻す)、という本物の改革が求められている。
小松由布樹
「○○ってどうなん?」「○○ってどうなってんの?」と言う違和感を携える人が多い。
このような違和感の持ち方は、マスコミ報道への違和感と直結する事が多い。マスコミがワイドショーやニュース番組等で総力を挙げて(?)報道する事件に対して、「何が根本の問題になっているの?」「考えないといけないようだけど、何をどう考えたらいいの?」という違和感を持っているようだ。確かに、基本的にマスコミ報道からは、「何の問題が騒がれているか」が非常によく分かる。また、そればかり報道され続けると、考えないといけないような気分にさせられる。
一方、人間と言うのは、どんな問題であれ、その「仕組み」が分からないと、モノを考え始めることすら出来ない。(イデオロギー=価値観念=旧観念を振りかざして、)「主張」することは出来るが、普通の人はそんな行動に走らない。
マスコミは問題を列挙しつづけ、「考えること」を強制するような言説を吐く一方で、庶民は「考えることができない」という。このギャップは何なのか?
それは、庶民の違和感の本質が、「マスコミがある問題をあげつらって、声高に主張しつづけるのは、なぜなのか?」という部分にあるからだろう。つまり、(マスコミによって社会問題化された)問題は、「マスコミがなぜそこまで拘るのか」を含めて「仕組み=構造」を提起されないと、庶民は「考える」ことすらできないのだ。
しかし、マスコミ自身は、自らの存在を含めて構造化することはできない。それは、この時代にあっては、マスコミ自身を構造化するということは、彼ら自身の存在を否定することに繋がりかねないからだ。
これからのあらゆる時事問題は、マスコミそのものの意識を含めて構造化し、仕組みが分かって初めて、「考える」ことが出来る。ある問題に対して、マスコミを含めた「仕組み=構造」を提示できる場が、マスコミに代わる「共認形成の場」となり、「答え」を紡いでいく「共認形成の場」となる。
内藤琢
このような違和感の持ち方は、マスコミ報道への違和感と直結する事が多い。マスコミがワイドショーやニュース番組等で総力を挙げて(?)報道する事件に対して、「何が根本の問題になっているの?」「考えないといけないようだけど、何をどう考えたらいいの?」という違和感を持っているようだ。確かに、基本的にマスコミ報道からは、「何の問題が騒がれているか」が非常によく分かる。また、そればかり報道され続けると、考えないといけないような気分にさせられる。
一方、人間と言うのは、どんな問題であれ、その「仕組み」が分からないと、モノを考え始めることすら出来ない。(イデオロギー=価値観念=旧観念を振りかざして、)「主張」することは出来るが、普通の人はそんな行動に走らない。
マスコミは問題を列挙しつづけ、「考えること」を強制するような言説を吐く一方で、庶民は「考えることができない」という。このギャップは何なのか?
それは、庶民の違和感の本質が、「マスコミがある問題をあげつらって、声高に主張しつづけるのは、なぜなのか?」という部分にあるからだろう。つまり、(マスコミによって社会問題化された)問題は、「マスコミがなぜそこまで拘るのか」を含めて「仕組み=構造」を提起されないと、庶民は「考える」ことすらできないのだ。
しかし、マスコミ自身は、自らの存在を含めて構造化することはできない。それは、この時代にあっては、マスコミ自身を構造化するということは、彼ら自身の存在を否定することに繋がりかねないからだ。
これからのあらゆる時事問題は、マスコミそのものの意識を含めて構造化し、仕組みが分かって初めて、「考える」ことが出来る。ある問題に対して、マスコミを含めた「仕組み=構造」を提示できる場が、マスコミに代わる「共認形成の場」となり、「答え」を紡いでいく「共認形成の場」となる。
内藤琢
最近、「○○ってどうなん?」「○○ってどうなってんの?」と言う違和感を携える人が多い。
このような違和感の持ち方は、マスコミ報道への違和感と直結する事が多い。マスコミがワイドショーやニュース番組等で総力を挙げて(?)報道する事件に対して、「何が根本の問題になっているの?」「考えないといけないようだけど、何をどう考えたらいいの?」という違和感を持っているようだ。確かに、基本的にマスコミ報道からは、「何の問題が騒がれているか」が非常によく分かる。また、そればかり報道され続けると、考えないといけないような気分にさせられる。
一方、人間と言うのは、どんな問題であれ、その「仕組み」が分からないと、モノを考え始めることすら出来ない。(イデオロギー=価値観念=旧観念を振りかざして、)「主張」することは出来るが、普通の人はそんな行動に走らない。
マスコミは問題を列挙しつづけ、「考えること」を強制するような言説を吐く一方で、庶民は「考えることができない」という。このギャップは何なのか?
それは、庶民の違和感の本質が、「マスコミがある問題をあげつらって、声高に主張しつづけるのは、なぜなのか?」という部分にあるからだろう。つまり、(マスコミによって社会問題化された)問題は、「マスコミがなぜそこまで拘るのか」を含めて「仕組み=構造」を提起されないと、庶民は「考える」ことすらできないのだ。
しかし、マスコミ自身は、自らの存在を含めて構造化することはできない。それは、この時代にあっては、マスコミ自身を構造化するということは、彼ら自身の存在を否定することに繋がりかねないからだ。
これからのあらゆる時事問題は、マスコミそのものの意識を含めて構造化し、仕組みが分かって初めて、「考える」ことが出来る。ある問題に対して、マスコミを含めた「仕組み=構造」を提示できる場が、マスコミに代わる「共認形成の場」となり、「答え」を紡いでいく「共認形成の場」となる。
内藤琢
このような違和感の持ち方は、マスコミ報道への違和感と直結する事が多い。マスコミがワイドショーやニュース番組等で総力を挙げて(?)報道する事件に対して、「何が根本の問題になっているの?」「考えないといけないようだけど、何をどう考えたらいいの?」という違和感を持っているようだ。確かに、基本的にマスコミ報道からは、「何の問題が騒がれているか」が非常によく分かる。また、そればかり報道され続けると、考えないといけないような気分にさせられる。
一方、人間と言うのは、どんな問題であれ、その「仕組み」が分からないと、モノを考え始めることすら出来ない。(イデオロギー=価値観念=旧観念を振りかざして、)「主張」することは出来るが、普通の人はそんな行動に走らない。
マスコミは問題を列挙しつづけ、「考えること」を強制するような言説を吐く一方で、庶民は「考えることができない」という。このギャップは何なのか?
それは、庶民の違和感の本質が、「マスコミがある問題をあげつらって、声高に主張しつづけるのは、なぜなのか?」という部分にあるからだろう。つまり、(マスコミによって社会問題化された)問題は、「マスコミがなぜそこまで拘るのか」を含めて「仕組み=構造」を提起されないと、庶民は「考える」ことすらできないのだ。
しかし、マスコミ自身は、自らの存在を含めて構造化することはできない。それは、この時代にあっては、マスコミ自身を構造化するということは、彼ら自身の存在を否定することに繋がりかねないからだ。
これからのあらゆる時事問題は、マスコミそのものの意識を含めて構造化し、仕組みが分かって初めて、「考える」ことが出来る。ある問題に対して、マスコミを含めた「仕組み=構造」を提示できる場が、マスコミに代わる「共認形成の場」となり、「答え」を紡いでいく「共認形成の場」となる。
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