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マスコミの共認支配のことはるいネットで読んである程度「そうだなあ」とか、信用ならないなあと思うものの、家に帰ったらまずテレビをつけて流しっぱなしにしてしまうのはなんだでなんだろう?と思っていたのですが、この「なぜマスコミに洗脳されてしまうのか?(雪竹さん102157)」の答え、

>人間は一時も共認充足なしには生きられない動物なので、それしか共認充足の可能性がないとなると、そこに収束してしまうという構造があるのだろう。<

にはなるほど~と納得しました。

限定された事実しか報道されてないかもしれないし、もしかしたら捏造とか矛盾した共認形成が行われてるのかもしれない胡散臭さも感じながらも、今日何が起こったのかなあとテレビのニュースをチェックする。大部分の人はこんなかんじなのではないでしょうか。
マスコミによる共認支配にさらされながらも共認充足なしにはいられない。ではマスコミの共認支配を突破するには、共認動物である以上「見ない」のはあまり考えられなくて、むしろ「今、何が起こってるのかが知りたい」という欲求はみんな持っているので、なるべくいろんな人とマスコミの論調、取り上げる中身などについて評価する場と、それを切り口に「○○って実際どうなんだろう?」という事実追求の場に参加していくことで、マスコミに頼らない自前の共認形成が可能になるのだと思います。
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マスコミの共認形成の超重要さは、アメリカ当局による情報機関の設置を取り上げるまでもなく、今回の小泉フィーバー=「劇場はマスコミから」、ホリエモン±騒動=「知名度競争はマスコミから」、学者の「学会発表よりもマスコミ発表」というように至る所でマスコミ頼みの戦略・戦術からも窺える。

それは背景として人々の共認収束が強まっていることがあげられる。序列統合・私権統合が無効になって以来、何よりも統合共認がすべてであり、それを担うマスコミの影響はいっそう大きくなる。そのことは、マスコミによる観念支配の危険性が大きくなっているという怖さがある。

例えば少子化問題もお金の問題に摩り替えられ、教育問題もサンマ(空間・時間・仲間)をどう実現するかと誤魔かされる。社会のシステム・教育システムの破綻、自分主義の問題ではないのかという追求に向かわない。

>取るに足りないものは注目されない。注目されているものには(よほどの否定的内容でなければ)何がしか見るべきものがあるのではないかと、無垢な共認回路は働いてしまう。現代、注目度とは即ちマスコミでの「露出度」となる。<

マスコミ支配が進む原因として背後の本当に悪いやつ(アメリカ・特権階級)の姿がチラつくが、しかし、なぜ大衆の(無垢な)共認回路は容易く作動される=共認支配されるのかという視点も重要だろう。

もともとマスコミが共認形成力を持つようなったのは「村落共同体(深く広範な共認充足)を失った大衆の解脱欠乏」があるからであり、同様にマスコミが支配観念を形成できたのは、大衆が「観念(答)追求忌避」という弱点構造を抱えていたからではないだろうか。

「自分」の私権獲得が最大目標であったときには、自分のためというには貧困というみんな不全に対して声を大にできないものの、マスコミによる「公共(みんな)」のためという名でカモフラージュした私権獲得(要求運動)には容易く洗脳される。
そして現在、大衆は個人の心底も、家庭も会社も統合できない「みんな不全」を前にして収束不全状態が続いている。
子どもを育てるには「あなたに問題にあるのではなく、社会の統合様式に問題があるのではなく、お金が必要だからでしょ」。そこに輪をかけたようにアメリカの科学者が「金もちほどストレスにならない」という研究成果が発表される…

実際、冷静に考えたら分かるように、現在の子育て不全は決してお金があるなしの問題ではない。そんなことならとっくに解決している。しかし、アンケート結果は「そうそう公的資金が必要」に○をつけ、それみたことかとマスコミは広報する…そして、洗脳は続く。

マスコミ支配を助長させているのは支配されている大衆の側の「目先の答え」収束があるのではないだろうか。収束不全から何らかの答えを求め、自ら探索を途中で放棄してプロの答に目先収束する。その結果が現在の悲惨な状況を生み出したという側面もわれわれ大衆は深く自覚する必要があるのではないか。つまり、マスコミ支配の供給源は我々自身である。逆にそうであるからこそ、自分たちの意識が変わることで、素人による社会革命が生み出されるのだ。

「目先ではダメ」「プロに期待してはダメ」「自分たちで答えを追及しよう。共認形成の場を作ろう」という共認運動こそが、怖い支配共認の突破口になるのだと思う。


吉国幹雄
【どうしたら、社会を変えられるの?】

>『社会』ってほんと単なるお題目。すっごく漠然とした言葉で何を表しているのか分からないのに、社会って言葉はいろんなところで当たり前のように使われている気がする。

>「社会」や「変革」という言葉を使えば使うほど、現実否定の倒錯思考を正当化し、その観念パラダイムに陥ってゆくことになる。

『社会=人々の意識』と考えることが、観念パラダイムに陥ることを防いでくれる。

【どうしたら、社会を変えられるの?】
  ∥ 
【どうしらたら、人々の意識を変えられるの?】

人々の意識を変えるためには、認識形成の場が、不可欠。
そして、その認識を形成するには、『事実追求』が不可欠。事実が何かがわからなければ、いつまでもマスコミの支配から抜け出せないし、旧観念も塗り替えられない。そうなれば、いくら、新概念を聞いても、『社会』ということばのように、お題目となって流れてしまう。

るいネットは、まさに人々に意識を変えられる場なんだ。

樫村志穂美
>闘えない男が多い、いわゆる仲間世代は、親和共認の形成は容易にできるのに、それを母胎として闘争共認に昇華させることができないのだと思う。(51790 何故闘えないか?)

これって、私の周りでもよく言われていて、何か問題が起こったときに、女の子の方があれこれ発信したり、どうしていったらいいのか考えている様子なのだけれども、男の子の方は「まぁまぁ」「無難にいこうよ~」的な考えに流されがちです。

なんだか、本来であれば逆(男の方が追求して、女の方が安定を求める?)という気がしていたのですが、どうやらそういうわけでもない様です。

今や、収束不全。
いたるところで「なんで?」「どうしたらいい?」という期待が湧き上がっています。その場面で、やっぱり『答えを出せる男』がイイ男だと、女の子達は実感してきているし、男の人もそれを認めています。

しかし、そんな簡単に答えも出ないし、

>どれだけ人々の期待に応えられるか=どれだけ人々の期待の中身を捉えられるか? (52035 闘争の根本にあるのも「期待⇔応望」)

についても、現代人の錆付いた共認回路では、非常に困難な状況。

何れにしても『自信がない。。。』という状態。

70年以降、貧困の消滅とともに私権圧力も活力も衰弱していく中で、たとえどんなにいい大学に行こうとも、いい女を得ようとも、一定、親や仲間からのささやかな評価は得られたとしても、その程度のものでしかなく、
何の成功体験も充足もありません。そんな状況では、闘争ってピンとこないだけではなく、もはやマイナスイメージなのもうなずけますし、自分一人では自信なんかもてません。

しかし、そんな誰も一人なんかじゃない。
「すべては繋がっている。103866」

>実現しようとする人は、ひとりでは出来ないことを知っている。
だから、「課題共認→役割共認→評価共認」をうまく機能させるための方法を常に探している。そしてその闘争共認の先に、必ずみんな=社会を見つめている。(105481)

>社会閉塞、収束不全への答えを求めての闘争。共認闘争とは、活力ある社会の実現を目指し、『みんなが勝つ為』の闘いなのだ!(100388)

>自信がもてないのも、場に身をゆだねられないのも、自分のなかでぐるぐるくすぶっている旧観念のせい。ならばその頭をすっと切りかえることが、現代の私たちに「いける!」後押しをしてくれる武器となる。(106082)

「みんなが勝つために!」その共認形成が基盤となり、闘えない人々も闘争に向えるのだと思います。

久保田彰子
NPOやボランティア関係のHPを読んでいてよく目につくのは、
「できることからはじめよう!」
「どんなボランティアをしたいか考えよう!」
「自分にあったボランティアを探そう!」
みたいなメッセージです。

なにか違和感があります。どこが変なんでしょう?

何でもいいから何らかの活動をしていること、あるいは、したいと主体的に思ったこと、それ自体がとても大事なこと、尊いことのように表現されている。
本当にそうでしょうか?
自分のやりたいことをするのがボランティアなんでしょうか?
そこに「自分の」って付くの、おかしくありませんか?

必要なのは、何が必要とされているのか?だと思う。

>子育てや介護、環境保護などのボランティア活動は、もともとは共同体の集団の中でみんなが協働して行っていた行為であり

という成立過程から考えても、当然集団にとって必要だから行われていたはずです。必要とされる活動は何か?みんなの期待は何か?をつかんでから行動が起こされていたのです。自分のやりたいことを各自がやっていたわけではありません。

自分に何ができるか?と考えること自体は必要なことだと思うのですが、それはまず全体の課題共認があって、そこから分担されるべき役割共認の段階で生じるもののはず。いきなりすっ飛ばして自分に何ができるか?に向かうのは、まさに目先収束だと思います。

「できることから」というならば、みんなの期待はなにか?なぜ現状困った状態になっているのか?それを掴むところからだと思います。
「自分発」から「みんな発」へ、思考パラダイムの転換が不可欠です。


谷光美紀
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