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「欠乏が顕在化する」ことを、「自分が気付く」みたいな感覚で軽く捉えていた。(例えば、「集団に入ったのではなく、社会に出たのだ」という認識を得て、あぁ自分は本当は社会の役に立ちたかったのだと気付く、みたいな感じ。)

でも、それでは新認識の獲得へと向かいきらない。
なぜか。
私権収束⇒私権欠乏、本源収束⇒活力欠乏、答え収束⇒答え欠乏・・・
どの次元でも、欠乏までは、外圧を受けて個人レベル(潜在思念レベル)で進むことができるが、顕在化するには、課題共認が絶対不可欠だからだ。

個々人レベルでいくら己の欠乏に気付いたとしても、当たり前だが、それだけでは社会は変わらないのだ。自分だけではなくみんなもなんだと気付く場、みんな(課題)共認を形成できる場があってはじめて、可能となる。つまり、顕在化とは社会レベルの位相にあるものなのだ。

>それは、はじめの答え(に近い認識)と認識形成の場さえ与えられれば、一気に顕在化する。

まさに、これが「実現の論理」で導き出される!

谷光美紀
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市場拡大に伴い、追い求められて来た「利便性」や「快美性」。確かに、今の私達を取り巻く生活環境は、何を取っても本当に便利にはなったが、その一方で多くの人工物質を生み出して来ている事実を意識している人は殆ど居ないのではないか。

人体に有害であろうと無害であろうと、人工物質は目に見えない上に、その影響が人体や環境へ直ぐに現れることは無く、取り返しの付かないような所まで来てやっと発覚する。公害等もその事例のひとつだろう。

これだけ多くの人工物質が溢れ返り、そしてそれ無しには生活が出来なくなってしまっている現代社会において、その問題性に気付いたり、原因追求をすることは難しいんだと思う。加えて、本来ならばこの様な問題に答えを出す役割を担う筈の学者ら発信・統合階級達も、市場社会に絡め取られているから答えなんてそもそも出す気もない。

しかし、ずっとここから目を背け続ければどうなるのか?

>市場の拡大は、大量の人工物質を生み出して環境を破壊してきたが、それらの人工物質は同時に人類の肉体をも破壊する。例えば、ガンの急増は、体内に摂取された人工物質による突然変異が原因である疑いが強い。更に、ホルモン様の人工物質によって引き起こされる精子絶滅の危険性に至っては、文字通り人類絶滅の危機である。(実現論9_2_02)

消費者も生産者も、事実を共認することを早く始めなければならない。市場社会の幻想から脱却し、現実社会の事実をしっかりと押さえなければ、肉体破壊は止まらない。

チーズケーキ
’50年~’00年の意識潮流を改めて読んでみると、最近問題になっている“ミス”の増加の要因に「社会収束度」があるのではないかと直感的に思った。
“ミス”は社会的期待と応望(:成果物)とのズレから生じると思う。このことは、社会的期待注視、つまり収束度に規定されるはず・・・
年代別に見てみると、

>’50年’60年代は、外向欠乏や私権規範解体の流れやそれらを導く社会思想によって、多くの人が(表層的に)社会収束した。

この時代は「ミスしたら解雇」の時代。生存圧力がかかっている。故に、(自分が)ミスしないように徹底的に社会を注視した。序列関係も厳しいため、ミスを誤魔化すこともできない。自身が関わっている仕事の細部にまで注意が必要となる。

>私権圧力の衰弱と、残存する私権観念による社会捨象・思想捨象→衰弱する外向欠乏によって、不全捨象の充足基調⇒本源収束の潮流が形成される。これが、’70年代・’80年代である。

社会収束は薄れつつある時代。「自分さえよければ・・・」の風潮もあるが、“豊かさ追求”の私権ベクトルは残存。序列の崩壊過程で、ミスは発生し始めるが、ミスの誤魔化し、ゴリ押しなども横行する。しかし、生産者優位で隠蔽されることが多かった。

>’90年代、バブルの崩壊で私権の衰弱が顕在化する。私権観念の土台がグラグラになって社会捨象・観念捨象の防波堤が崩れ出し、急速に潜在的な社会不全→外向欠乏が強まっていく(ニュース番組や事実収集やサークル活動etcの増大=潜在的な社会探索の潮流)。

序列崩壊と事実追求の風潮で、誤魔化しや隠ぺい工作が効かず、社内リークなどでミスが社会空間に露呈。消費者優位へ転換。社会収束への道は開けたが、答えがないので充足基調へゆり戻し。

>そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。

答えがないので、社会収束はいまだ進まず。私権統合崩壊で、上司のチェック機能も働かず、ミス爆発。収束先がなく集中力が沸き起こらない。

>社会不全が大きくなれば、外向欠乏が強くなる。しかし、答えがないので課題捨象の充足基調⇒本源収束が続いている。

社会収束への流れでネックになっているのは「答えがない」から。であれば、ミスを防ぐにはまずは、意識と社会(みんな)とを繋ぐ「答え」を獲得することから始めなければならない。

佐藤祥司 
>従って、人々の意識(欠乏)と闘争が作り出す『現実』も同様であって、最先端の新しい現実の下に古い現実が収束して、全体が再統合される。

最先端の『現実』の下に、古い「現実」が収束することを、もう少し具体的に考えてみた。
私権闘争には、その闘争の場である「市場」と私権獲得の評価指標としての「お金」がある。
ここに認識闘争というより活力を生み出せる場が出来れば、人々の闘争の場は「市場」から『認識闘争の場』に移行する。そうなれば「市場」は必要最小限の規模まで縮小する。
一方『認識』の評価軸は『みんなに役立つかどうか』であるが、「お金」はそれを補完する評価指標として『認識闘争の場』に組み込まれていく。

このようにして古い「現実」である私権闘争が新しい『現実』である認識闘争の下に収束し、再統合されていくのだと分かる。

そこからすれば最も活力の出る場を軸足にして社会をとらえることが、最先端機能に収束することであり、外圧に適応できる状態なのだと分かる。

小林雅志
>人を傷つけることを嫌い、人と関わることを恐れ、現状を変えようと思うよりも、そのまま受け入れる事を選ぶ。闘わないのではなく闘えなく成ってしまった日本人が幸せだといえるだろうか?

気付いてみれば当たり前であるが、みんなが「なんとかしなければ」と思っているにもかかわらず、判断不能かつ無圧力であるが故に、目先のごまかしが許されてしまっているという状況がある。

人類は、既に物的な生存圧力から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(掠奪闘争や私権闘争)から、同類圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。

外圧の変化に適応する為にある応合体質は、「社会や周りの期待が感じられるから、変わる」ということが言える。日本人の深いところにある応合(縄文)体質が豊かになればなっただけ、充足もこれからの適応可能性も感じられるようになっていけるように思う。

それには、「みんなが何を考えているか」「何が問題か」「どうすればいいか」という意識を顕在化させるシステム(共認圧力)が必要である。

そして、共認圧力を阻害する私権圧力(観念)に対して、日常関係・体制とは全く異なる別の社会空間を用意する。

>後は「目先ではダメだ」「ごまかしではダメだ」ということを発信しさえすればいいのではないか。ネットの最大の可能性は、誰もがより広い社会に向かって発信できるというところにあり、発信の輪が広がってゆけば、共認圧力の形成は可能であると思う。

芝田琢也
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