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<今まで通りの男女充足共認を求めていたのにボスの意識が変化してしまったことによる、「仕事と私(たち)とどっちが大事なの?!」っていう存在不安→他者否定の自我です。
<まずは圧倒的な自然の恐怖の中で、みんなの期待=なんとかしてという救い欠乏が首雄に集中し首雄は苦しみながらもそれに答えようした。その時まず女たちの方に首雄に対する祈り=感謝と崇拝という感情が芽生えたのではないでしょうか?(闘争存在でない雌は自然外圧を前に完全に役割を一旦喪失し、みんなに対する充足存在、首雄に対する応合存在に徹するしかなかった。なにもできない=もうしわけない=謝罪、でも生かせてもらえている=有り難い=感謝という感情が、共認回路上に生起するのは容易に想像できます。)
<女の価値は羊の数によって決まるようになった。つまり、女は共認対象ではなく私権対象物となってしまったのである。また、嫁ぎ先では初めの引用にもあるように闘争集団に全的に収束できなかった。
<相対的に力(活力)を失った女達がこうした闘える男達に対し「導いて欲しい」という女発の想いを発現させた時、新たな男と女の庇護依存(=和合)の関係が再生するのであり、必然的にそこでの女達の男達への期待の中身には、閉塞を突破する「答え」と同様、何よりも生きる上で必要不可欠の性充足期待が込められるに違いない。
このように真猿時代のメスの自我、始原人類時代の女の謝罪・感謝、遊牧時代~近現代の女の自我、そして現在~未来にかけての女性の救い欠乏から生起する新たな男性の庇護依存関係の模索を俯瞰すると、それらは、必ず外圧と対応している事が分かります。
1)真猿:メスの外圧弱い→集団を束ねるボスの気持ちが分からず自我回路の生起
2)始原人類:外圧にさらされた女性達は、救い欠乏から首雄への謝罪・感謝への念が生まれる。そこには、自我のかけらもない。
3)遊牧
弓矢の発明により外圧が低下した後、発生した遊牧形態。女の自我が再生起。以後90年代まで続く。
4)現代
社会がガタガタになっていく事による潜在思念で捉える外圧。女性の救い 欠乏=答欠乏が生起。→自我封鎖の可能性。しかしながら、圧力が顕在化しておらず、社会が過保護空間化している為に、反対に自己中の増幅。
このように自我の生起と圧力の強弱は、必ず繋がっている。現代は、始原人類と同様に救い欠乏の芽生えが見える。始原人類と異なるのは、まだ顕在化する程に人類が外圧を感じていない事。
このことは、女も男も同様だが、やはりまずやるべき事は、外圧を高める事。
それがこの間ネットで言われている「自己中は人類の敵」をはじめとする「共認圧力」を創り出す事に他ならない。
圧力が創り出され、始原人類と同様な状態になったその時、人類の新たな道が開けるのではないだろうか。
アリンコ
<まずは圧倒的な自然の恐怖の中で、みんなの期待=なんとかしてという救い欠乏が首雄に集中し首雄は苦しみながらもそれに答えようした。その時まず女たちの方に首雄に対する祈り=感謝と崇拝という感情が芽生えたのではないでしょうか?(闘争存在でない雌は自然外圧を前に完全に役割を一旦喪失し、みんなに対する充足存在、首雄に対する応合存在に徹するしかなかった。なにもできない=もうしわけない=謝罪、でも生かせてもらえている=有り難い=感謝という感情が、共認回路上に生起するのは容易に想像できます。)
<女の価値は羊の数によって決まるようになった。つまり、女は共認対象ではなく私権対象物となってしまったのである。また、嫁ぎ先では初めの引用にもあるように闘争集団に全的に収束できなかった。
<相対的に力(活力)を失った女達がこうした闘える男達に対し「導いて欲しい」という女発の想いを発現させた時、新たな男と女の庇護依存(=和合)の関係が再生するのであり、必然的にそこでの女達の男達への期待の中身には、閉塞を突破する「答え」と同様、何よりも生きる上で必要不可欠の性充足期待が込められるに違いない。
このように真猿時代のメスの自我、始原人類時代の女の謝罪・感謝、遊牧時代~近現代の女の自我、そして現在~未来にかけての女性の救い欠乏から生起する新たな男性の庇護依存関係の模索を俯瞰すると、それらは、必ず外圧と対応している事が分かります。
1)真猿:メスの外圧弱い→集団を束ねるボスの気持ちが分からず自我回路の生起
2)始原人類:外圧にさらされた女性達は、救い欠乏から首雄への謝罪・感謝への念が生まれる。そこには、自我のかけらもない。
3)遊牧
弓矢の発明により外圧が低下した後、発生した遊牧形態。女の自我が再生起。以後90年代まで続く。
4)現代
社会がガタガタになっていく事による潜在思念で捉える外圧。女性の救い 欠乏=答欠乏が生起。→自我封鎖の可能性。しかしながら、圧力が顕在化しておらず、社会が過保護空間化している為に、反対に自己中の増幅。
このように自我の生起と圧力の強弱は、必ず繋がっている。現代は、始原人類と同様に救い欠乏の芽生えが見える。始原人類と異なるのは、まだ顕在化する程に人類が外圧を感じていない事。
このことは、女も男も同様だが、やはりまずやるべき事は、外圧を高める事。
それがこの間ネットで言われている「自己中は人類の敵」をはじめとする「共認圧力」を創り出す事に他ならない。
圧力が創り出され、始原人類と同様な状態になったその時、人類の新たな道が開けるのではないだろうか。
アリンコ
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>ところが、今なお多くの運動が、とっくに輝きを失った近代思想に依拠し続けている。それでは、誰も(ごく一部の人しか)「運動」に参加してこないのも当然だろう。
既成運動が社会を変えられないのは、自己中思想に依拠しているからだと思う。彼らが依拠している近代思想は自我・私権追求を正当化する自己中思想である。
今や、自己中思想によって社会は閉塞する一方である。自己中教育によって精神破壊は進み、権利概念によって正当化された数々の要求によって国の借金は1000兆に及ぼうとしている。自己中思想に依拠している以上、(いくら奇麗事を言おうとも)社会を変えられるはずがない。それどころか、社会閉塞の片棒を担いでいると言っても過言ではない。
実際、既成運動の姿は自己中そのもの。人々がついてこない現実を直視せず、自分たちの運動や思想を絶対視し固執し続ける姿は自己中そのもの。「社会を変えることが大事なのか、自分の思想を守ることが大事なのか?」と言われる所以である。自己中だから人々がついてこないのだと考えるとスッキリする。
今、社会を再生するために必要なのは、社会や集団の共認を再生すること。だから認識形成の場を構築すること(参加すること)が真の社会活動となるわけだが、そのためにも「自己中は共認の破壊物であり、人類社会の敵である」という共認の形成が必要なのではないだろうか。
冨田彰男
既成運動が社会を変えられないのは、自己中思想に依拠しているからだと思う。彼らが依拠している近代思想は自我・私権追求を正当化する自己中思想である。
今や、自己中思想によって社会は閉塞する一方である。自己中教育によって精神破壊は進み、権利概念によって正当化された数々の要求によって国の借金は1000兆に及ぼうとしている。自己中思想に依拠している以上、(いくら奇麗事を言おうとも)社会を変えられるはずがない。それどころか、社会閉塞の片棒を担いでいると言っても過言ではない。
実際、既成運動の姿は自己中そのもの。人々がついてこない現実を直視せず、自分たちの運動や思想を絶対視し固執し続ける姿は自己中そのもの。「社会を変えることが大事なのか、自分の思想を守ることが大事なのか?」と言われる所以である。自己中だから人々がついてこないのだと考えるとスッキリする。
今、社会を再生するために必要なのは、社会や集団の共認を再生すること。だから認識形成の場を構築すること(参加すること)が真の社会活動となるわけだが、そのためにも「自己中は共認の破壊物であり、人類社会の敵である」という共認の形成が必要なのではないだろうか。
冨田彰男
発信したい中身があるわけじゃない。だけど、見てるだけじゃつまんないっ
中身はないけど発信したい!
これって、プロじゃない普通の人も発信しだしたってこと?
これが、共認形成のまつり場に参加したい!っていう第一現象!?
久保田彰子
中身はないけど発信したい!
これって、プロじゃない普通の人も発信しだしたってこと?
これが、共認形成のまつり場に参加したい!っていう第一現象!?
久保田彰子
『何であれ、共認運動の最終局面は「まつり」になる。』
<事例>
・ええじゃないか運動
・フランス革命
・ロシア革命
共認形成の「まつり場」に参加したいという思い(更には参加できる喜び)こそが、るいネットへの発信動機となっていく。
まずは共認圧力が生み出す「まつり場」が実現するようにみんなで期待していくことから。
猛獣王S
<事例>
・ええじゃないか運動
・フランス革命
・ロシア革命
共認形成の「まつり場」に参加したいという思い(更には参加できる喜び)こそが、るいネットへの発信動機となっていく。
まずは共認圧力が生み出す「まつり場」が実現するようにみんなで期待していくことから。
猛獣王S
mixiを始めとするSNSのシステムは、旧住人の支配するネットの闇空間に対する防衛線として、知り合い同士の守られたコミュニティー形成に成功した事例であろう。始めから顔の見える者同士、あるいは知り合いの知り合いである、という安心感が、発信欠乏を意図も簡単に溶解し、反応欠乏にも火を付けた。どうも、mixiの中には期待・応合を軸としたお互い様のコメント規範のようなものが形成されつつあるようだ。
自分の日記にコメントを付けてくれた人には、丁寧にコメント返しを行う。
当然、コメントを付けてくれた人の日記にも、コメントを付けに行く。
これは、繋がり維持という視点では成功例でもあり、「お互い様」が多少の圧力も生み出している為、継続性もそこそこありそう。
ただし、同時にそこがSNSの限界ともなっているように思う。要するに、それ以上の何かを実現する方向性や可能性への収束は見られない。
そしてその限界というのは、対面共認の孕む構造的欠陥と、ほぼ同じではないかと思われる。
要するに、開かれたネットという空間を利用しながらも、結局は顔の見える者同士の親和共認レベルで留まり続け、一向に闘争共認=答えを出す、というベクトルが生じてこないのである。
しかし、その理由は簡単で、誰も答えを出せないから無難なやり取りに終始しているに過ぎない。
あるいは、答え欠乏を顕在化させるような供給営業が行われていないから、とも言える。
現在のところ、SNSに供給されている営業ツールは今までと同じ広告表示のみであり、下手をすれば消費者の囲い込み空間に成り下がってしまっている恐れすらある。折角のネットの可能性も、これでは開花しないだろう。
SNSの利点を活かしつつ、足りない点を補っていく事による可能性。それは、対面を超えた答えの供給営業を、知り合いの枠を超えた領域に仕掛けていく事ではないかと思う。ネットは「出会い」の為のツールではない。ましてや、自分発の自我充足を貪る為の場でも無い。まさしく、みんなに対して開かれた、みんなにとっての可能性の場である。
そして、その可能性とは闇空間とは完全に切り離された場によってのみ、実現する。
川井孝浩
自分の日記にコメントを付けてくれた人には、丁寧にコメント返しを行う。
当然、コメントを付けてくれた人の日記にも、コメントを付けに行く。
これは、繋がり維持という視点では成功例でもあり、「お互い様」が多少の圧力も生み出している為、継続性もそこそこありそう。
ただし、同時にそこがSNSの限界ともなっているように思う。要するに、それ以上の何かを実現する方向性や可能性への収束は見られない。
そしてその限界というのは、対面共認の孕む構造的欠陥と、ほぼ同じではないかと思われる。
要するに、開かれたネットという空間を利用しながらも、結局は顔の見える者同士の親和共認レベルで留まり続け、一向に闘争共認=答えを出す、というベクトルが生じてこないのである。
しかし、その理由は簡単で、誰も答えを出せないから無難なやり取りに終始しているに過ぎない。
あるいは、答え欠乏を顕在化させるような供給営業が行われていないから、とも言える。
現在のところ、SNSに供給されている営業ツールは今までと同じ広告表示のみであり、下手をすれば消費者の囲い込み空間に成り下がってしまっている恐れすらある。折角のネットの可能性も、これでは開花しないだろう。
SNSの利点を活かしつつ、足りない点を補っていく事による可能性。それは、対面を超えた答えの供給営業を、知り合いの枠を超えた領域に仕掛けていく事ではないかと思う。ネットは「出会い」の為のツールではない。ましてや、自分発の自我充足を貪る為の場でも無い。まさしく、みんなに対して開かれた、みんなにとっての可能性の場である。
そして、その可能性とは闇空間とは完全に切り離された場によってのみ、実現する。
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